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これまでに紹介してきた沖縄の戦跡を、沖縄戦の進展に沿って時系列に並べています。沖縄戦の最大の特徴は、激しい戦闘が市街地で繰り広げられ、多くの住民や学徒が犠牲になったことです。沖縄戦における住民の戦争参加については(→こちら)、住民犠牲については(→こちら)。

喜屋武岬

【1910年代】

 旧美里尋常高等小学校の奉安殿・忠魂碑

【1941(昭和16)年12月8日】真珠湾攻撃および宣戦布告。

【1944(昭和19)年3月15日】陸軍第32軍が創設される。

【1945(昭和20)年3月】「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などに動員命令。

 旧陸軍病院壕跡 南風原壕群20号  【2023年再訪】 【20号の内部

 南風原文化センターの展示

 白梅学徒看護隊之壕

【3月26日】米軍が慶良間諸島の座間味島などに上陸。

 太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地

 集団自決之地の碑(産業組合壕跡)

 トルゥーガマ

 座間味村平和之塔

【4月1日】米軍が沖縄本島の読谷村・嘉手納町・北谷町に上陸。

 栄橋跡

 読谷村の戦跡(シムクガマ・チビチリガマなど)

 米軍上陸の地碑(読谷村)

 沖縄戦上陸碑(嘉手納町)

 第二次世界大戦 米軍上陸地モニュメント(北谷町)

 チビチリガマ

 特攻艇秘匿洞窟群

 電信屋の碑

 ぬちしぬじガマ

 旧天願橋

 嘉数野戦病院壕跡

【4月16日】米軍が伊江島に上陸

 公益質屋跡

 芳魂之塔

 アハシャガマ

 ニャティヤ洞

【4月8日から5月18日】嘉数高台・前田高地・安里52高地での激戦

 嘉数高台(第七〇高地)

 中城村伊集の民家の塀

 西原の塔

 西原町小波津の民家の塀 【2023年再訪

 旧西原村役場壕跡

 九六式十五糎榴弾砲

 内間御殿の鳥居と先王旧宅碑

 前田高地(ハクソー・リッジ) 【2023年再訪

 伊祖城鳥居の弾痕

 糸数アブチラガマ

 八十九式十五糎加農(カノン)砲

 チヂフチャーガマ

 テラガマ

 安里52高地(シュガーローフ)

 大道森(ハーフムーンヒル)

 斎場御嶽の艦砲穴

【5月27日】陸軍第32軍司令部が首里から撤退

 陸軍第32軍司令部壕跡 【2023年再訪

 首里城のトーチカ跡

 首里城の戦災アカギ

 沖縄師範学校跡の門柱の弾痕

 旧中城御殿石牆(せきしょう)の弾痕

 県庁壕跡

 識名宮の壕

 識名壕

 南風原町津嘉山の民家の塀 【2023年再訪

 宜次の製糖工場跡煙突の弾痕

 高嶺製糖工場の門柱と糖蜜タンクの弾痕

 伊覇のシーサー

 富盛の石彫大獅子(シーサー)の弾痕 【2023年再訪

 名城の貯水槽の弾痕

 轟の壕(トゥルルシガマ)

 茶処 真壁ちなー(柱に残る弾痕)

 嘉手志川 灌漑整備記念の碑の機関銃痕

 真栄里アミヤ原の特攻艇掩体壕

【6月4日】「白梅学徒隊」に解散命令

 ヌヌマチガマ・ガラビガマ

【6月13日】旧海軍司令部壕で大田實司令官が自決

 旧海軍司令部壕

 潮平権現壕跡

【6月18日】米軍司令官バックナー中将戦死

 バックナー中将慰霊碑

 慶座絶壁(ギーザバンタ)

 喜屋武岬(平和の塔)

 チンガー(摩文仁のムラガー)・通称「死の井戸」

【6月18日】「ひめゆり学徒隊」に解散命令

 ひめゆりの塔と沖縄陸軍第三外科壕跡

 沖縄陸軍病院第一外科壕

 沖縄陸軍病院山城本部壕跡

 ひめゆり学徒隊散華の跡

 白梅之塔

 白梅学徒看護隊自決之壕

 「積徳学徒隊」私立積徳髙等女學校慰霊之碑

 ずゐせんの塔

 沖縄師範健児の塔

【6月23日】摩文仁の陸軍司令部壕で牛島満司令官と長勇参謀長が自決

 摩文仁第32軍司令部壕

【8月15日】終戦

 歩兵第32連隊と山形の塔

 魂魄の塔(こんぱくのとう)と全国各地出身者の慰霊碑

 南冥の塔


下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した死亡者数です。

分類死亡者数
県外出身日本兵戦死者6万5908人
沖縄県出身軍人・軍属2万8228人
戦闘に参加・協力して死亡した住民5万5246人
一般住民
3万8754人(推定)
合計18万8136人
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら

【八重山諸島の「戦争マラリア」に関する戦跡】
八重山諸島では、戦闘による以外にも、マラリア発生地域に強制的に疎開させられた多数の住民がマラリアに罹患して亡くなりました。いわゆる「戦争マラリア」です。

八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑

忘勿石之碑

「戦争マラリア」とは関係ないですが、艦砲射撃を受けた弾痕が痛々しい戦跡

元海底電線陸揚室(電信屋・デンシンヤー)

【宮古島の戦跡】
本土決戦までの時間を稼ぐという目的から、宮古島には3万人もの兵士が駐屯し要塞化されていました。地上戦はなかったものの、たびたび空襲や艦砲射撃を受けて大きな被害が出ました。また、マラリヤによる病死や食糧不足による餓死も多数発生しました。

 海軍第313設営隊の地下壕

 陸軍中飛行場戦闘指揮所跡

 ピンフ嶺戦争遺跡群(見つけられず)


<Wikipedia等へのリンク>

沖縄戦

読谷村の戦跡めぐり

ひめゆり学徒隊

白梅学徒隊

ひめゆり学徒隊の軌跡

沖縄戦の戦跡ではありませんが、忘れてはならない場所があります。

■1948年8月6日、米軍が伊江港で不発弾や未使用爆弾を船に積み込む作業をしていた際に、荷崩れによって5インチロケット砲弾約5,000発(125トン)もの弾薬が爆発しました。ちょうど港に客船が到着した時だったので、死者107名、負傷者70人という大惨事になりました。

 伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故の被爆慰霊碑

■1959年6月30日午前10:40頃、飛行中にエンジントラブルを起こした米軍ジェット機F100が石川市(現うるま市)の市街地に墜落し、民家をなぎ倒した後、宮森小学校の校舎に激突して炎上しました。死亡者17名(うち小学生11名・住民6名)、負傷者210名。

 うるま市立 宮森小学校

■「団結道場」は、伊江島における「土地闘争」の拠点であり、土地闘争の歴史や思想を学ぶ場として活用されてきました。

 団結道場


このような悲惨な歴史を繰り返してはならないです!

私の基本的な考えは以下の通りです。

・人と人が殺し合ってはならない。 ・人を殺すための道具を持ってはならない。 ・武力に対して武力で対抗してはならない。 ・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

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