ひめゆりの塔と沖縄陸軍病院第三外科壕跡

1945(昭和20)年5月までは「沖縄陸軍病院」は南風原町にありました(→旧陸軍病院壕跡 南風原壕群)。しかし戦況の悪化によって、5月22日に第32軍司令部が首里から南部の摩文仁に撤退すると、陸軍病院も5月25日に撤退を開始し、糸満市井原のこの付近に、第一外科、第二外科、第三外科とそれぞれ別の壕に入りました。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の学徒隊(ひめゆり学徒隊)もこれと行動を共にしています。

そして、戦況がさらに絶望的になった6月18日に学徒隊に解散が命じられます。その翌日19日の朝、第三外科壕は黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕内にいた96名のうち87名が死亡しました(学徒隊の教師5名・生徒46名を含む)。さらに壕を脱出した者のうち3名も銃撃を受けて死亡します。

攻撃を受けなかった第一外科・第二外科の学徒隊も解散命令によって壕を出て、「鉄の豪雨」と形容される戦場を彷徨い、多くの人が命を落としました。職員を含む「ひめゆり学徒隊」240名中、死亡者は136名(生徒123名、職員13名)にのぼりました。

目立たないですが、白い慰霊碑(納骨堂)のすぐ右にある小さな塔が「ひめゆりの塔」。終戦直後の1946(昭和21)年に建てられました。
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慰霊碑(納骨堂)の手前に口を開けているのが沖縄陸軍第三外科壕。
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この説明を見ると動員・撤退・解散が時系列で分かります。
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私の基本的な考えは以下の通りです。

・人と人が殺し合ってはならない。
・人を殺すための道具を持ってはならない。
・武力に対して武力で対抗してはならない。
・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

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