チビチリガマ

1945(昭和20)年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し攻撃を開始すると、読谷村の住民は村内にある複数のガマ(石灰岩で形成された自然の洞窟)に身を隠しました。その一つのチビチリガマでは、上陸翌日の4月2日に、米軍への恐怖から自決の連鎖が始まり、ガマの中にいた139名の約6割の82名(85名とする場合もあります)が集団自決しました。その過半数が子供だったそうです(詳細は→こちら)。チビチリガマの内部には今も遺骨があってお墓と同じなので、立ち入り禁止となっています。

一方、同じ読谷村内にあるシムクガマには1,000人近い住民が避難していましたが、そのなかにハワイからの帰国者が2名いて「アメリカ人は人を殺さない」とみんなを説得して投降を促したため、1人も犠牲者は出ませんでした(→こちら)。

沖縄戦の概要はWikipediaに詳しく書かれています(→こちら)。また、読谷村にある戦跡については(→こちら)がとても詳しいです。下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した死亡者数です。

分類死亡者数
県外出身日本兵戦死者6万5908人
沖縄県出身軍人・軍属2万8228人
戦闘に参加・協力して死亡した住民5万5246人
一般住民
3万8754人(推定)
合計18万8136人
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら

チビチリガマへと下っていく入り口。
チビチリガマへと下っていく入り口

階段を下ったところ。
階段を下ったところ

これより先のガマ内部は立ち入り禁止。
これより先のガマ内部は立ち入り禁止

遺族らによって建立された「世代を結ぶ平和の像」。
「世代を結ぶ平和の像」

犠牲者の名前が刻まれた碑。亡くなった時の年齢も書かれています。
犠牲者の名前が刻まれた碑

「チビチリガマの歌」の碑。
「チビチリガマの歌」の碑

「チビチリガマの歌」(金城実作詞)

1、イクサユヌアワリ(戦世のあわれ)
ムヌガタティガボリ(物語って下さい)
ワラビウマガ世ニ語ティタボリ(童孫世に語って下さい)
2、ハンザチビチリヤ(波平チビチリ)
ワシタウチナヌユ(私達沖縄世)
ククルチムヤマチナチュサウチナ(心肝痛め泣く沖縄)
3、ナクナチビチリヨ(泣くなチビチリよ)
ミルクユニガティ(平和世を願って)
ムヌシラシドクル(物知らす所チビチリガマ)

 


私の基本的な考えは以下の通りです。

  • 人と人が殺し合ってはならない。
  • 人を殺すための道具を持ってはならない。
  • 武力に対して武力で対抗してはならない。
  • 「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

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