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Opinion

バックナー中将慰霊碑

この記事の続編です。

今年3月に、「バックナー中将慰霊碑」ではなく、その右隣にあった「クローディアス・M・イーズリー追悼碑」と「歩兵383連隊・連隊長エドウィン・T・メイの慰霊碑」の写真を撮ってきてしまいました。今度は正しい「バックナー中将慰霊碑」をアップし、記事を再掲します。

バックナー中将慰霊碑

沖縄戦における日本の陸軍第32軍の司令官は牛島満ですが、米国の陸軍第10軍の司令官はサイモン・B・バックナーです。牛島司令官らの自決によって組織的戦闘が終結したとされる1945年6月23日のわずか5日前、18日午後1時15分、糸満市真栄里の高台で戦況を視察中に、日本軍から攻撃を受けてバックナー司令官は戦死しました。勝敗はもはや決まったも同然の時期なので、油断があったのかもしれません。日本軍は彼を識別していて、彼が居る高台めがけて砲撃を集中させたとのことです。致命傷になったのは、一式機動四十七粍速射砲による砲撃、九六式十五糎榴弾砲による砲撃、小野一等兵の小銃による狙撃など諸説がありますが、出血が激しく、撃たれてから約10分後に治療の甲斐なく亡くなったそうです。中将は、第二次世界大戦中のアメリカ軍で、敵軍の攻撃によって戦死した者の中で最高位の階級です。

彼は、戦死する1週間前の6月11日に、日本軍の牛島司令官宛に以下の降伏勧告の手紙を送っています。牛島司令官と長参謀長はこの手紙を一笑に付したと言われていますが、もしこれを受け入れて降伏していたら、沖縄戦の最終局面で最南端の海岸線に追い詰められて亡くなったたくさんの命が救われたかもしれません。

第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ

牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。
然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の、使用する所となりました。この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待期させます。貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。

米軍上陸軍司令官 シモン、バックナー中将より

昭和二十年六月十一日


下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した沖縄戦の死亡者数です。

分類死亡者数
県外出身日本兵戦死者6万5908人
沖縄県出身軍人・軍属2万8228人
戦闘に参加・協力して死亡した住民5万5246人
一般住民
3万8754人(推定)
合計18万8136人
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら

このような悲惨な歴史を繰り返してはならないです!

私の基本的な考えは以下の通りです。

  • 人と人が殺し合ってはならない。
  • 人を殺すための道具を持ってはならない。
  • 武力に対して武力で対抗してはならない。
  • 「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

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