日本の縄文時代の遺跡を訪ねると、もしかするとヒトの歴史のなかで、狩猟採集生活をしていた頃が最も自由で幸せだったのかもしれないと思えてなりません。この頃の日本列島は食物資源が豊富で、自然と一体となった争いのない世の中が1万年以上の長きにわたって続きました。
しかし、世界中のどの地域でも、農耕と牧畜が始まり、社会が階層化して王が登場すると、王たちは被支配階層の人々の自由を奪うようになりました。市民革命以降、王は大統領や首相に名前を変えましたが、その本質はあまり変わっていいません。つまるところ、有史以降の社会において、ヒトは真の民主主義を実現したことがありません。
この提言が目指している「自由で機能する社会」は、過去の歴史において存在したどんな社会ともまったく違う姿をしています。その姿があまりに違うので、とても過激な提案だと感じる人が多いかもしれませんが、対立や分断が生じないように、ゆっくりと社会を変えていく道筋をもう少し後に提案するつもりです。
それでは、「自由で機能する社会」の姿を述べていきたいと思います。
【多様な自由が尊重される社会】
「自由」の定義で引用したジョン・スチュアート・ミルの『自由論』のなかの言葉をもう一度引用します。この言葉のなかに、最も基本的で重要な考え方が示されています。
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害しないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。人が良いと思う生き方を他の人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。(Mill, 1859)
人間が不完全な存在である限り、さまざまな意見があることは有益である。同様に、さまざまな生活スタイルが試されることも有益である。他人の害にならない限り、さまざまの性格の人間が最大限に自己表現できるとよい。誰もが、さまざまな生活スタイルのうち、自分に合いそうなスタイルをじっさいに試してみて、その価値を確かめることができるとよい。(Mill, 1859)
ここで重要なことは、自由は個別的・属人的で多様なものであり、各人が自分なりに「これこそが自由だ!」と思うものであるという考え方です。したがって、「自由一般」なるものはどこにもなく、社会全体が一つの方向を目指す必要はどこにもありません。
むしろ必要なのは、多様な自由を心置きなく追求できるような環境づくりであり、「自由で機能する社会」の本質はそのような環境を提供するプラットホームです。
【国境がなく為政者もいない社会】
宇宙から地球を見ると、国境のラインはどこにも引かれていません。国境は、約1万年前に始まった為政者たちの勢力争いの結果引かれたものであり、一般の民とはなんの関係のない境界です。しかし実際には、国境によって隔てられた2つの国の民は、違う為政者によって統治され、権利や義務の内容に大きな差が生じる場合が多い。まったく偶然に、ある国の地下には有用な資源が埋蔵されていたり、あるいは農作物の栽培に適した気候や土壌の条件が備わっていたりしますが、本来地球上の資源は人類すべてが平等に利用できるものであるはずです。
この記事では、「権力」とは、ヒトから自由を奪い取って自分だけ利益を得ようと目論む暴力(「権力」=「権益」を奪い取る「暴力」)だと述べました。権力は本質的に悪であり、正統な権力など存在しません。
いつの日か、地球上からすべての権力者がいなくなり、すべての国境が消滅したとき、「自由で機能する社会」の扉が開かれます。
【伽藍構造がヒトを苦しめないバザール型の社会】
現状、ヒトは誰もなんらかの伽藍組織(=ピラミッド型組織)に所属するか、あるいはなんらかの伽藍組織の影響の下で生きています。生まれたばかりの乳児さえも、役場に出生届が提出された途端に国民となり、国家という巨大な伽藍組織の影響の下に入ります。伽藍組織は内集団の一種であり、集団外部との間にさまざまな垣根を作ることによって、その存在が維持継続されています。
伽藍組織に所属する者は、自分自身の人格とは別に、組織人格を持つことを要求されます。これにはペルソナ(仮面)を付け変えるという難易度の高い作業が必要であり、ヒトを精神的に追いつめることが多いです。最も深刻な事態に至ると、組織人格と自らの倫理的規範との葛藤に耐えられずに、自ら死を選んでしまうこともあります。
これに対して、バザール組織と外部とを隔てる垣根はなく、参加するかしないかは本人次第であり、いくつものバザール組織に同時に参加することも可能です。また、これが最も重要なことであるが、バザール組織は参加者に組織人格を要求しません。参加者は、一個の主体として、あるがままの自分で参加可能です。また、このような場でやり取りされる情報は、すでにどこかに書かれている「静的情報」ではなく、生きた「動的情報」です。
「自由で機能する社会」とは、無数のバザール組織が百花撩乱するバザール型の社会です。「伽藍から抜け出してバザールを開こう」が、「自由で機能する社会」を始める合言葉です。
【すべてのヒトが位置と役割をもつ社会】
もう一度この記事で紹介したインターネットの相互依存的な仕組みを思い出してください。インターネット空間における各ノードの「位置」はIPアドレスとして一意に決まっています。これは、クローズドな内集団における位置ではなく、グローバルでオープンな空間における位置です。
そして、上からの指示に従うのではなく、各ノードが近くのノードと自律的に協調しながらその「役割」を果たしています。各ノードは対等であり、それを支えているのは信頼関係です。
「自由で機能する社会」に暮らす独立した主体としての個人は、国や会社や団体といった閉鎖的な組織における位置ではなく、地球上のグローバルな空間に、唯一無二の存在としての位置を持ちます。「私」という存在は、地球上に「私」だけなのです。
そのうえで、ヒトは複数のオープンなバザール組織に主体的かつ自由に参加し、それぞれの組織において自分の役割を果たします。もちろん、こうした自由には責任が伴います。
従来われわれは、○○株式会社、○○団体、○○省、○○軍といった固定的で排他的な組織の一員となることにあまりに慣らされてきたので、バザール型組織のような柔らかくゆるやかに、幾重にも重なって繋がる組織をイメージしづらいかもしれません。しかし、ヒトの「位置」と「役割」を従来のような組織の上に当てはめないことが、「自由で機能する社会」への第一ステップです。
【「限りなく透明なガラス箱」の外に広がる本当の社会】
この記事では、北川方邦の言葉を借りて、ヒトの意識の実体が「限りなく透明なガラス箱」の内側に映し出された像や、あるいは科学の文字であることを示しました。ヒトは外部環境を直接知覚することはできず、知覚器官が主体性の透明なガラス箱の内側に映し出した像や文字を通じてしか、外界を知ることはできません。
それは致し方ないことですが、このような知覚の構造、すなわち、本当の世界は限りなく透明なガラス箱の外に広がっているのだということを、常にイメージして忘れないことが重要です。
哲学や科学の過去数千年の歴史において、ヒトは、透明なガラス箱の内側に書かれた像や文字を見て、これが世界の本当の姿であると勘違いしてきました。「自由で機能する社会」も、限りなく透明なガラス箱の外側に広がっているのです。
【投機的行動も富の偏在もない平等な社会】
この記事で見たように、ヒトには貪欲に蓄財しょうとする傾向がありますが、地球上に流通しているお金の90%以上が投機マネーだという状況、そして、1秒間に数えきれない程の売買を行って利鞘を稼ごうとする状況は、もはや常軌を逸していると言わざるを得なません。
投機的行動によって得られた利益に対しては、懲罰的に高い税金を課して、馬鹿馬鹿しくて誰もそんなことをしないようにするのがいいと思います。
経営者が法外に高い報酬を受けとているのも、その金額の根拠が不明確です。ある組織において、最も重要な役割を担っているヒトと、一般的なヒトとの報酬の差は、2倍以内であるのが、感覚的に妥当だと思います。
【ヒトの適応進化環境(EEA)に合った社会】
ヒト(ホモ・サピエンス)の遺伝子は、狩猟採集生活をしていた数万年前からほとんど変化していません。にもかかわらず、およそ1万年前を起点に、ヒトの生活様式や社会の在り方があまりに急激に変化したので、今の社会はヒトの適応進化環境(EEA)から大きく乖離してしまいました。
今から狩猟採集生活に回帰することはもちろんできませんが、ヒトの適応進化環境(EEA)がどのようなものだったかに思いを巡らせて、ヒトの本能に優しい生活様式を心がけることが、現代社会の「生きにくさ」を和らげる最も有効な手立てとなるでしょう。「自由で機能する社会」は、そんな社会です。
【必要最低限のルールしかない社会】
この記事で見たように、ウィキペディア(Wikipedia)の基本原則「5本の柱」の5番目は、「上の4つの原則の他には、ウィキペディアには、確固としたルールはありません」です。
同様に、「自由で機能する社会」には必要最低限のルールしかありません。それは、ヒトを殺したり、ヒトを傷つけたり、ヒトの自由や権利を奪ったりしないというルールであり、言い換えれば、「己の欲せざる所は人に施すなかれ」ということです。
しかし、ヒトがそれぞれ自由を追求すれば、そこに衝突が生じるのは不可避です。それを回避する方法は、あらかじめ明文化されている一律の法律によってではなく、当事者同士の(ときには仲介者も加えた)対話に基づいて、ケース・バイ・ケースで行われる調整です。この対話こそが、すなわち「動的情報」のやり取りです。
【散逸構造で自己組織化していく社会】
リーダー不在で、必要最低限のルールしかなく、発生した問題にはケース・バイ・ケースで対応していくような行き当たりばったりの社会がうまく機能するはずがないと考えるヒトが多いかもしれない。しかし、自然界には、その方がうまくケースがたくさんあります。この記事で見た「散逸構造」がまさにその代表例です。

コメント