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Consideration

多数決などの社会的決定方法には大きな落とし穴がある(その2)

ニシ浜

この記事の続編です。

前の記事では佐伯胖の『「決め方」の論理−社会的決定理論への招待−』に沿って、現行の社会的決定が持つ問題点と、社会的決定に倫理性を持たせる必要性を考えてきました。

しかし、そもそも、社会全体の進路をたった一つの方向に決めようとする社会的決定という行為自体に問題はないのでしょうか? ひとたび社会的決定によって何かが決められれば、全員がその決定に従わなければならないというのは、ほんとうに正しい社会の在り方なのでしょうか?

以前紹介したジョン・スチュアート・ミルのこの言葉をもう一度引用します。

自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害しないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。人が良いと思う生き方を他の人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。

各人がそれぞれ自分の好きな生き方をすれば、そこに多少の衝突は起きるでしょうが、そこで無理やりひとつの生き方に統一させるよりも、それぞれの生き方を互いに認め合って、衝突しないように調整していくのが、ほんとうの意味で自由な社会の在り方ではないでしょうか。

市民革命、そしてそれ以降の政治や経済の根本的な間違いは、社会全体が一つの方向に向かわなければならないという思い込み、社会を運営する仕組みは一つでなければならないという思い込みだと思います。

自由の基準は個々人の心のなかにあります。自由な社会であるか否かの尺度は、社会のなかで自分は自由だと感じている人の割合です。これは進化において、自然淘汰を受ける単位は個人、進化の単位は集団における遺伝子頻度という関係と同じなのです。

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