前の記事で少し触れましたが、決定論と自由意志の関係においては「両立論」の立場にいる哲学者のダニエル・デネットは、著書『自由は進化する』のなかで、「自由とは自ら選択をする能力である」と定義しています。自由はあくまでも能力であり、自由が権利だというのは法的な概念であるとも述べています。また、同書を翻訳した山形浩生は「自由とはシミュレーションのツールである」と解説しています。選択を行う前にシミュレーションが可能ならば、その結果に基づいてよりよい選択を行うことができるわけです。太古の生物において、生命が脅かされるような状況からの回避行動、すなわち「回避の誕生」が起こって以来、生物は自由が増える方向に進化してきました。つまり、自由意志は進化の理論のなかにきちんと位置づけられているのです。
さらに、脳(特に大脳新皮質)が発達したヒトは、遺伝子の突然変異や自然選択を経由しなくても行動変化を起こせるようになりました。ヒトが言語を発明し、他者とコミュニケーションできるようになったことは、自由の進化史においてエポックメイキングな出来事であり、これによって、自分が経験していないこともシミュレーションできるようになりました。
自分と他者のシミュレーション結果を比較するためには、自分と他者を並べて考えるための「自分」という意識が必要で、この意識の獲得によってシミュレーションはいっそう高度化しました(つまり自由が増えました)。「自分」という意識を持てるのは、大脳新皮質が関与するメンタライジング能力(志向姿勢)のおかげです。狩猟採取生活をしていた先史時代から現在に至るまで、ヒト(ホモ・サピエンス)の遺伝子はほとんど変化していないにもかかわらず、言語、コミュニケーション、そして文化を獲得したことによって、ヒトの自由は加速度的に増大しました。
一方、自由を行使し選択したことの結果は、自らが負う責任があります。責任を支える道徳的な心の動きは、自由と共に進化してきたのです。
前にも書きましたが、ジョン・スチュアート・ミルは、『自由論』のなかで自由をこう定義しています。
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害しないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。人が良いと思う生き方を他の人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。
こんなふうにも言っています。自由と多様性は同義なのです。
人間が不完全な存在である限り、さまざまな意見があることは有益である。同様に、さまざまな生活スタイルが試されることも有益である。他人の害にならない限り、さまざまの性格の人間が最大限に自己表現できるとよい。誰もが、さまざまな生活スタイルのうち、自分に合いそうなスタイルをじっさいに試してみて、その価値を確かめることができるとよい。
ここで重要なことは、自分が自由かどうかの物差しは、それぞれの人の心の中にしかないということです。100人の人がいたら、100通りの自由がある訳です。そして、それぞれの尺度で自分は自由だと感じる人の割合が大きい社会が本当に「自由な社会」だと言えます。
これは進化の理論において、淘汰圧がかかる単位はあくまでも個体であり、その一方で進化の単位は集団(進化とは集団における遺伝子頻度<=集団内で特定の遺伝子を持つ個体の割合>の変化)だという点と似ています。
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