今日は憲法記念日なので、最近気になっているテーマのなかから憲法に関するものについて。
日本国憲法第13条は、次のように言っています。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
最近、ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873年)の『自由論』を読みましたが、この本のなかでミルは、上の日本国憲法第13条の主旨にもつながる重要な主張をしています。
まず、ミルは自由を次のように定義しています。
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害しないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。人が良いと思う生き方を他の人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。
こんなふうにも言っています。
人間が不完全な存在である限り、さまざまな意見があることは有益である。同様に、さまざまな生活スタイルが試されることも有益である。他人の害にならない限り、さまざまの性格の人間が最大限に自己表現できるとよい。誰もが、さまざまな生活スタイルのうち、自分に合いそうなスタイルをじっさいに試してみて、その価値を確かめることができるとよい。
つまり、自由や幸福の追求は、多様性の容認と同義なのです。
一方、民主主義がある程度発達してくると、「多数派の専制」に陥る危険があるとミルは指摘しています。多数派は少数派の意見を攻撃し弾圧しようとしますが、その根拠は論理的なものではなく、好き嫌いといった感情的なものが多いと、ミルは指摘しています。
ミルは、社会が個人に対して干渉できるのは、次の原理に従う場合だけだと言っています。
その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。
世の中を変えようとする人たちは、社会全体の大きな枠組みを変えようとしがちです。しかし、自由や幸福の物差しは一人ひとりの個人の心の中にあるので、各人なりの自由や幸福の形(=多様性)が尊重される社会を目指すことこそが、真に自由な社会への道筋と言えるのではないでしょうか?
【追記】ミルの『自由論』をぜひ某大統領も読んでほしいと思います。
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