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Consideration

多数決などの社会的決定方法には大きな落とし穴がある

ニシ浜

「選挙」や「多数決」は民主主義の基本だと言われていますが、これらの社会的決定方式自体にも大きな落とし穴があることを考えてみたいと思います。

認知心理学者の佐伯胖は、著書『「決め方」の論理−社会的決定理論への招待−』で、社会的決定方法が抱えているパラドックスや、社会的決定と個人の自由や社会的倫理性との関係を、たくさんの事例や研究結果を踏まえて分析しています。以下、同書に沿って、社会的決定方式の落とし穴について見ていきます。

まず、ひと口に「投票」と言っても、多数決方式、単記投票方式、上位二者決戦投票方式、複数記名投票方式、順位評点方式など、さまざまな方式があって、どの方式を採用するかによって勝者の意味が大きく変わってきます。

しかし、世の中の大多数の人は、投票によって決定された結果には強い関心を示すけれど、その「決め方」についてはさほど関心を示しません。おそらく、投票方法や集計方法が変われば、結果がまったく変わってしまうという事実に気づいていないからか、気づいていても「それはそれで投票前に決まっていたことだから仕方がない」と思っているからでしょう。各投票方式にはそれぞれ違う「決め方の論理」があるので、どういう観点について人々の間で意見の不一致があるのか、あるいはどういう観点で勝者を選ぶべきなのかを十分吟味して投票方式を決めないと、投票結果が受け入れ難いものになってしまう危険性があります。

また、1785年に社会学者のコンドルセが、各投票者が理性的に投票を行ったとしても、その結果が理解不能な非合理的結果になってしまう「投票のパラドックス」が存在することを発見しています。実際にライカーとオーデシュックが、1911年から1956年までの米国議会における採決の結果を分析したところ、パラドックスが発生していたとみられる議決が複数挙げられています。

 さらに深刻な帰結が、論理的分析から導き出されています。それは、ノーベル経済学賞を受賞したケネス・アローの「一般可能性定理(または不可能性定理)」です。この定理は、「2人以上の投票者が3つ以上の選択肢に関して投票を行う場合、いかなる選好投票方式を採用しても、個々人の選好順位を共同体全体の順位に変換する際に、個人選好の無制限性、市民の主権性・パレート最適性、無関係対象からの独立性、非独裁性を同時に満たすことはできない」というもので、言い換えれば、「どんな投票方式を採用したとしても、たった一人の独裁者の選好順序が社会全体の選好順序として採用されてしまう」という、民主主義を真っ向から否定するような深刻な帰結です。この帰結があまりに衝撃的だったので、それ以降、この定理に対するさまざまな反証に加えて、ほんとうの社会的選択はどのようなものなのかという議論がさかんに行われるようになりました。

 しかし、これだけではありません。個人の自由と社会の決定との関係において、さらに深刻なパラドックスが導き出されています。同じくノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センが1970年に発表した「自由主義のパラドックス」は、ごくわずかな条件だけから、「何人もいかなる行動の自由も与えられない」という結論が導き出されてしまうパラドックスです。これに対してさまざまな反証が行われましたが、セン自身が1976年にパラドックスを解消する定理を発表しています。それは、「一つの社会に良心的自由主義者が一人でも存在するならば、各人に割り当てられた自由裁量権が行使されても、表明された選好順序のパレート最適性と矛盾しないような決定方式が存在する」というものである。ここでいう「良心的自由主義者」とは、「自己の選好順序のうちで、他の構成員に公に認められた自由裁量権の行使に抵触する部分に関しては、自らの個人的選好が社会に反映されることを期待しない(公的訴えを取り下げる)」人です。

このように、さまざまなパラドックスが導き出されていますが、実はその原因は、それぞれの分析が前提としている仮定自体が現実と乖離しているからではないかという疑問が湧いてきます。論理学の分析は、いくつかの仮定を定めたら、その後は純粋に論理式上で(つまり現実社会から離れた机上で)展開されています。

前述のアローの「一般可能性定理」で満たされるべきだとされていた条件のうち、「パレート最適性」と「無関係対象からの独立性」は、ほんとうに満たされるべきものなのでしょうか?「パレート最適性」は近代経済学(特に厚生経済学)ではおなじみの概念で、「集団内の誰かの効用を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態」、つまりこれ以上は「パレート改善」ができない状態のことをいいます。この概念に疑問をはさむ経済学者は少ないですが、「パレート最適性」は社会全体の効用を問題にしているので、社会内部にどんな不平等が生じていても関知しません。誰かからパンを奪って別の誰かに与えても、「パレート最適性」には影響しないのです。

前述のセンは、「パレート最適性」の背後にある「無関係対象からの独立性」の仮定は捨てるべきだと主張しています。これは、「xとyとについての社会的選好順序は、この2つについての判断だけを反映すべき」という考え方ですが、複雑系的な視点に立てば、世の中のすべての事物は互いに複雑に関係しあっており、それぞれがまったく無関係ということはありません。xとy以外の無数の要因がxにもyにも関係していると考えるのが自然です。

 けっきょくのところ、社会科学が科学としての合理性(計算可能性)を主張するために、現実から乖離したかなり無理な仮定をしていることから、そこから綻びが生じて深刻なパラドックスが発生するようになったのではないでしょうか。人間の本性に関わる「経済人」の仮定も然りでです。

 『「決め方」の論理−社会的決定理論への招待−』では、人間は本来利己的であるという「経済人」の仮定を否定したうえで、社会的決定における「倫理性」に言及しています。たとえば、ニコラス・レッシャーは次の2種類の問いを例示し、それぞれの問いがまったく違う意味を持つと主張しています。


【問1】

あなたにXをもたらしてくれる政策xとYをもたらしてくれる政策yと比べて、あなたにとっては、いずれの方が好ましいですか(他の人たちが何を受けるかは全く無視して考えること)


【問2】

(X1、X2、X3…Xn)をもたらす政策x(あなたはXiを受けるが)と、同じ社会に(Y1、Y2、Y3…Yn)をもたらす政策y(あなたはYiを受けるが)とを比べたとき、あなたはどちらの方があなたの社会にとって好ましいと考えるか


 経済学者は暗黙のうちに【問1】を投げかけて、その答えだけを表明された選好として採用してきました。人々は正直に自分の利益にだけ注目して選好を表明したけれど、気がついてみると、勝手に【問2】に対する社会全体の総意が一致したかのように扱われて驚くのです。

一方で、私たちは【問2】の枠組みで物事を考えることが可能です。こちらは、より根本的で倫理的な視点から「良い社会とはどういう状態のことか」を問題にしています。

 さて、佐伯は上記のような内容を紹介した後に、「モノ」と「コト」の違いを提起しています。私たちは何か「モノ」を選んだ時にも、ほんとうはその「モノ」の背景にある「コト」を選んでいる場合が多い。たとえば、商品棚にAとBの2種類の商品が並んでいて、Aのパッケージの斬新なデザインが気にいったのだが、エシカル消費という観点からパッケージに「フェアトレード」と書いてあるBのほうを選んだというようなケースです。ここで選ばれたのはBという「モノ」ではなく、エシカル消費という「コト」なのです。

 さらに佐伯は、「未知なるもの」の制度的導入を提案しています。それは仮定や前提のなかに「もしかしたらほんとうは違うかもしれないという未知性を、無理に、意図的に導入しておくこと」で、「仮定や前提が間違っていることを証拠立てることのできるような仕組みを、無理に、意図的に制度内に設置しておくこと」です。これをISOの要求事項的に言い換えれば、制度の継続的改善が図れる仕組みを制度のなかに組み込んでおくということです。

 繰り返しになりますが、従来の社会的決定理論は、人間は利己的であって、自らの欲望を満たそうとしているだけだという不信の念のうえに築かれていました。しかし、佐伯は、社会における正しい決定は、一人ひとりが自らのうちに「社会の眼」を持ち、この世界を「わたしたち」がどうするかという観点で自らの意見を表明し、その観点からの選好を示し、その観点に基づく意見統合のルールを社会に求めることによって得られると主張しています。

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