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【近代経済学の過ち(その3)】アダム・スミスの『道徳感情論』に立ちかえる

ニシ浜

この記事この記事の続編です。

 (その2)で触れたように、アダム・スミスの経済学における主著は『国富論』ですが、彼の倫理学における主著は1759年に出版された『道徳感情論』です。『国富論』のほうが圧倒的に有名ですが、アダム・スミスの思想の原点は最初に書かれた『道徳感情論』です。

 『国富論』において利己的に振る舞う人間像を提起した(とされている)スミスが、それよりも前に発表した『道徳感情論』おいては、人間に本源的に備わっている道徳感情としての「共感」を論じているのはとても意外に感じられます。なぜそんなふうに感じられるようになったのかをこれから見ていきます。

 『道徳感情論』は、「人間はもっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する」とする「経済人」の仮定とはまったく逆の次の一節から始まります。

人間というものをどれほど利己的と見なすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に掛けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。

また、こんなふうにも言っています。

私たちは、他人が感じていることを直接体験するわけではない。<中略>仲間の感じ方をいくらかでも知ることができるとしたら、それは想像によるほかはない。その想像にしても、自分がその立場だったらどう感じるだろうかと思い描く方法でしか、役には立たない。<中略>想像こそが他人の不幸をわがことのように思いやる気持ちの源なのであって、不幸な人の思いを身にしみて感じたり、それに心動かされたりするのは、想像の中でその人と立場を取り替えているからである。

これらの文章から、スミスがいかに「共感」という心の動きを重要視していたかが分かります。

もう一つ重要な概念は「中立な観察者」です。そういう具体的な人物がいるわけではありません。「中立な観察者」は、人間が自己を客観的に見るために自らの胸中に持つ利害関心を持たないもう一人の人間であり、これによって自分自身と中立な観察者とを分割して、是認か否認かの裁決を下すのです。これこそが道徳感情の原点だとスミスは考えていました。

ダーヴィンの『種の起源』が発刊されたのは『道徳感情論』の発刊のちょうど100年後の1859年であり、進化心理学の発達によって「志向姿勢」や「メンタライジング能力」といった心の動きが分かってきたのは、さらにその100年以上後なので、スミスはこれらを知る由もなかった訳ですが、引用した文章に書かれている内容は、まさにわれわれがこれまでに見てきた「志向姿勢」そのものです。さらにスミスが言う「共感」は、ホットな「情動的共感」ではなく、クールな「認知的共感」に該当すると言っていいでしょう。

さらにヒトの意識は、ヒトが他人の考えていることを推測するのと同じように、自分の考えていることを把握しようとするメンタライジング機能に支えられています。スミスの言う「中立な観察者」は、この仕組みとよく付合するように思います。

それではこのような先進的な考えを、『国富論』ではあっさりと捨て去ってしまったのだろうか?そうではありません。スミスの考えは終始一貫しているにもかかわらず、『国富論』のなかのごく短い一節が、大きな文脈から切り離されて独立して引用された結果、とんでもない誤解が生じたのです。

 誤解の一箇所目は、(その2)でも触れた『国富論』第一編第二章のこの一節です。

われわれが食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、利己心に訴えるのであり、自分が何を必要としているのかではなく、相手にとって何が利益になるのかを説明するのだ。

この第一編第二章のタイトルは「分業の起源」です。ヒトは「生産」「分配」「貯蓄」「設備投資」などさまざまな経済活動をおこなっていますが、ここで論じられている動機は、そのなかの「交換」を促す動機だけです。つまり、物を交換するときには相手が欲しいものを提示する(相手の利己心に訴える)のが通常だと言っているにすぎません。直前の文章にも、「誰でも、取引をもちかけるときにはそのように提案している」と書かれています。

 この「交換」を促す動機が、あたかもヒトのすべての経済活動の動機であるかのように取り上げられてしまったのは、経済学にとって、あるいは人類全体にとっても不幸なことだと感じます。

誤解の2箇所目は第4編 第2章に書かれている有名な「見えざる手(invisible hand)」の喩えです。「見えざる手」は、ここにたった一度だけ登場します(太文字は著者による)。

各人が社会全体の利益のために努力しようと考えているわけではないし、自分の努力がどれほど社会のためになっているかを知っているわけでもない。外国の労働よりも自国の労働を支えるのを選ぶのは、自分が安全に利益をあげられるようにするためにすぎない。生産物の価値がもっとも高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。だがそれによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進することになる。

この「見えざる手」は、キリスト教の終末思想のなかの「信徒は『神の見えざる手』により救済され天国に行くことができる」という一節から取った喩えだと思われますが、スミスは「神の」とは言っていません。

この「見えざる手」の喩えが、すべてを市場に委ねる「自由放任主義」の文脈で語られて、スミスが「自由放任主義」の基礎を築いたと紹介されることが多いですが、スミス自身は「自由放任」という言葉は一才使っていません。

ここでも「経済人」の仮定と同じようなことが起きています。「見えざる手」の喩えが登場する第4編 第2章のタイトルは、「国内で生産できる商品の輸入規制」です。この時期、名誉革命はすでに起きていたが、フランス革命(1789〜1795年)はまだ起きておらず、ヨーロッパは絶対王政が主流でした。スミスがこの章で言いたかったのは、国による貿易の独占や輸入規制はやめて、国民にもっと自由に海外との取引をさせたほうがいいということであり、そのなかで資本と労働をどこに振り向けるという話において「見えざる手」が登場するのです。

このように限られた文脈で使われた喩えが、のちに、あたかも経済全般に対する喩えであるかのように独り歩きして、スミスは「自由放任主義」の創始者として扱われるようになったのです。

このように、近代経済学の理論は大きな誤解の上に構築されている(と私は思います)。ノーベル経済学賞を受賞したアルマティア・センは、『道徳感情論』の序文にこう書いている。

スミスは、広くは経済のシステム、狭くは市場の機能が利己心以外の動機にいかに大きく依存するかを論じている。<中略>事実、スミスは「思慮」を「自分にとって最も役立つ徳」とみなす一方で、「他人にとってたいへん有用なのは、慈悲、正義、寛容、公共心といった資質」だと述べている。これら二点をはっきりと主張しているにもかかわらず、残念ながら現代の経済学の大半は、スミスの解釈においてどちらも正しく理解していない。

まったく同感です。

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