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Consideration

【近代経済学の過ち(その1)】近代経済学の出発点はバーナード・デ・マンデヴィルの『蜂の寓話』

ニシ浜

物理学や化学などの自然科学だけでなく、社会科学の一分野である近代経済学も、18世紀以降の社会に大きな影響を与えました。この分野ではイギリスの経済学者アダム・スミスが「経済学の父」と呼ばれ、彼が1776年に発表した『国富論』(正式名は、『諸国民の富の性質と原因に関する研究』)は「経済学の出発点」と位置付けられています。

しかし、これより60年以上前の1714年に、精神科医で思想家のバーナード・デ・マンデヴィルが『蜂の寓話–私悪すなわち公益』のなかで示した逆説的で斬新な考え方が、スミスの『国富論』に登場する有名な「見えざる手」の喩えや、さらには近代経済学の前提となる「経済人」の人間モデルへとつながっていったと言われています。

バーナード・デ・マンデヴィルは、1670年にオランダ・ロッテルダムの名門の家に生まれました。ライデン大学で医学を修め、医学博士の学位を取得して神経系統の医者として開業した。この時期に哲学も学んでいる。その後、英語を学ぶためにロンドンに渡り永住しました。

『蜂の寓話–私悪すなわち公益』の「一 緒言」でマンデヴィルはこう書いています。

「人間を社会的動物たらしめているものは、人間の交際への愛好、気立ての良さ、憐憫の情、人付き合いの良さ、あるいは、公正を装う外見上の高潔さなどではなく、人間の最も卑劣で、最も嫌悪すべき性質が人間を偉大な社会に、世間流に言えば、最も幸福で最も繁栄している社会に相応しい存在にするためにも最も必要な資質であることを理解されるであろう」「最も嫌悪すべき性質」とは、「強欲,虚栄,放蕩,自己顕示欲といった悪徳」である。つまり悪徳こそが人間の本性であり,それが消費を衝き動かす原動力であると彼は考えたのです。

当時、この主張に対して多くの批判がなされました。私自身も、たしかに当たっている部分がなくもないが、あまりに一面的な解釈だと思います。

しかし、ここで重要なのは、神からのトップダウンではなく、ヒトの情動からのボトムアップが経済の原動力であると明確に宣言している点でです。この点は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や、ヴェルナー・ゾンバルト『ユダヤ人の経済生活』とは決定的に異なっています。

また、「悪徳」の一つである「虚栄」や「自己顕示欲」を、こちらで見てきた「自尊心(=pride)」の表れとして捉えると、ヒトの進化と関連づけて考える糸口にもなります。

なお、マンデヴィルは、最終的に「私悪は老練な政治家の卓越した管理によって公益に変えられるであろう」と結論づけています。この点は、個々人の「悪徳」が積み重なった結果、社会全体では「公益」が増大するという、(現代的な言い方をすれば)複雑系的な相互依存関係、あるいは創発的な考え方の萌芽があるにもかかわらず、政治家による管理というトップダウン的な結論に帰着してしまっているのがとても惜しいと思います。

(その2に続く)

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