この記事の続編です。
前の記事では、ロビン・ダンバーの『人類進化の謎を解き明かす』や『宗教の起源』などに基づいて、(1)長らく狩猟採集生活を続けてきたヒトが約1万2000年前に集落を作って定住しはじめたこと、(2)その理由は他の集落からの襲撃に対する防御のためだったことをまとめました。これらの知見は、主にアフリカやヨーロッパで見つかった遺跡の発掘結果に基づくものです。それでは日本の場合はどうだったのでしょうか?
日本列島で集落が形成されるようになったのは弥生時代の初期(紀元前10世紀頃)で、この頃に、大陸から渡来した人びとによって農耕(稲作)が始まりました。ただ、これに先立つ縄文時代から急に弥生時代に切り替わったわけではなく、両者はかなり長い間併存したし、地域的な差も大きかったと考えられています。なお「弥生」の名称は、この時代の土器が初めて出土した東京都文京区弥生の地名に因んでつけられたものです。この後、弥生時代は、前方後円墳が出現する紀元後3世紀半ば頃まで続きます。
まだ詳しく調べてはいませんが、Wikipediaによると、弥生時代の遺跡から出土した人骨には、殺戮や戦闘行為によるとみられる傷跡が多く残っているようです。また、被葬者といっしょに討ち取った敵の首級が埋葬されていた遺跡もあるとのことです。物見櫓、柵、濠などの防御のための設備や、大型化した石剣・石鏃など人を殺傷するための武器も多数出土しています。どうやら、大陸から渡来した人びとは、稲作の技術だけではなく、組織的な武力によって集団間の問題を解決しようという考え方(=戦いの思考)も同時に日本に持ち込んだようです。
これは先に紹介したダンバーの主張ともよく符号するので、日本の弥生時代についてもう少し詳しく調べてみたいと思います。
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