この記事の続編です。
マンデヴィルの『蜂の寓話』から62年後の1776年に出版されたアダム・スミスの『国富論(正式名は、『諸国民の富の性質と原因に関する研究』)』にも、ジェレミ・ベンサムやウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズなどを経て、後に「経済人」と呼ばれるようになる人間モデルの発端とされている一節があります。
アダム・スミス(1723〜1790年)は、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者で、倫理学における主著は『道徳感情論』、経済学における主著は『国富論』である。『国富論』は、経済理論、経済史、経済思想史、経済政策論、財政学などを網羅した全5編からなる大著で、「経済学の出発点」と位置づけられています。
「経済人」という概念の発端と見られている一節は、『国富論』の第1編第2章に登場します。
われわれが食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、利己心に訴えるのであり、自分が何を必要としているのかではなく、相手にとって何が利益になるのかを説明するのだ。
この一節だけから、利益の追求こそが経済活動の動機だと解釈するのは大きな間違いですが、それは次の記事で見ることにして、ここでは「経済人」の人間モデルについて考えます。
「経済人」の人間モデルとは、「人間はもっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する」という仮定です。ここで言う「合理性」とは、「所与の欲望体系のもとで満足もしくは効用を最大にすること」を言います。近代経済学が社会科学の一分野として成立するためには、科学的な手法、とりわけ数学の方程式を用いた定式化が必要でしたが、この定式化のためには「経済人」の仮定が必要だったのです。
しかし「経済人」の人間モデルは、定式化のために採用した一面的な人間像にすぎず、複雑で多面的な人間の実像を表してはいません。実際に被験者を実験室に集めて行う心理実験では、被験者が「経済人」とは異なる行動パターンを示す場合が多くみられます。
たとえば、公平性のためなら自分が損をしてもかまわないという気持ちになるかどうかを確かめる「最後通牒ゲーム」という心理実験の例がこれに当てはまります。この実験は提案者と応答者の2名で行われ、提案者には一定額(例:1000円)が実験者から渡されます。提案者はこの1000円をどのように二人で分けるかを応答者と相談なしに決定し、応答者はそれを受諾するか拒否するかを決定します。
→ 応諾すれば、お金が分配されてゲームは終わる。
→ 拒否すれば、両者とも1円ももらえずにゲームは終わる。
ヒトは常に自らの利益を最大化するはずだという「経済人」の前提に立つと、利益の最大化を目指す応答者は、1円以上持って帰れる方が1円も持って帰れないよりは望ましいと考えて、どんなオファーでも受諾するはずです。そして、このように考えた提案者は自らの利益を最大にするために、提案者が999円を取り応答者が1円をとる分配提案を提示し、応答者はこれを受諾するだろうという予測が成り立ちます。しかし、実際にはこのような行動は見られません。
応答者は自分の取り分が少ない提案ほど拒否する傾向が見られ、提案者もそれを見越して、提案する額の割合は40〜50%程度になります。不公平な分配に対して、受諾すれば得られる利益を捨ててまで拒否するのはなぜでしょう?
参加者の関係が継続的な場合は「妥協しない応答者」という評判を獲得できるという理由も考えられますが、この実験は一回限りの関係です。それでも拒否するのは、不公平忌避の心理が働いた、あるいは強欲な提案者に対する怒りの感情が働いたなどの理由が考えられます。
この心理実験は一つの例ですが、ヒトは必ずしも経済的合理性だけに基づいて、「経済人」としての行動をするとは限りません。また、「経済人」以外にもヒトの本性を定義している言葉がたくさんありますが、いずれも人間のある一面を切り取ったもので、自由意志を持つ人間の全体像を表してはいません。
それではヒトの本性をどう定義すればいいのでしょうか。それを考える準備として、アダム・スミスが『国富論』よりも前に著した『道徳感情論』を見ていきます。
(その3)に続く。

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