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Consideration

近代科学とは何だったのか?―北沢方邦の『近代科学の終焉』よりー

ニシ浜

近代経済学の批判ばかりしてきたので、再び、近代科学全般へと視野を広げます。構造人類学者の北沢方邦は、『近代科学の終焉』という刺激的な題名の本を著しています。

 北沢は本の冒頭で、近代のリアリティの特徴について、これまで宗教が語ってきた超越的な世界が次第に抽象的な概念となり世俗化していった代わりに、言語に依拠する理性が登場し、目に見える三次元の空間と一次元の時間がこの世界のすべてになった点がその特徴であると述べています。

 まずデカルトが、「我思う」という主観性と、「故に我在り」という存在の客観性の二元論を主張し、これに続いてニュートンが確立した古典力学の微積分方程式が、近代のリアリティを完璧に記述する言語になりました。

その状況を、北沢は次のように表現しています。

我々は知性や意識の作用する側面では、近代の認識といういわば限りなく透明なガラス箱の内に閉じ込められ、そこから抜け出ることはできない。ガラス箱の存在にすら気づかず、脱出しようとする意志さえもつことはない。箱の中で我々は自由であると感じ、外の世界を正確に客観的に認識し、把握していると信じている。

 この「限りなく透明なガラス箱」の壁面に書かれているのが、数式や論理式といった近代科学の言語です。いつしか人々は、ガラスの壁面に書かれた文字ばかり見るようになり、ガラス箱の外側に広がる世界を見ようともしなくなりました。つまり、外の景色に目もくれずに、ひたすら筆談をしているのが近代の人々の姿です。さらに言えば、一度ガラスの壁面に書かれた文字は、後から間違っているとわかっても、簡単には書き換えることができなくなってしまいました。

 しかしやがて、熱力学の第二法則や量子力学が、近代のリアリティに大きな打撃を与えます。線型方程式の決定論的な世界に代わって、不確実で確率論的な世界が人々の前に現れたのです。そして北沢は、解体した近代のリアリティに代わる「異端な危険な道」、すなわち「日常的経験を遥かに超えた奇怪にして魅惑的な新しいリアリティを確立しようとする道」こそが、文明の転換を保証する唯一の道だと主張している。

 北沢がいっているように、近代科学はわれわれの視野を極端に狭め、歪めてしまったといえます。それは、近代科学の一分野である社会科学においても、近代経済学においても同じです。

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