この記事の続編です。
前の記事で見てきたように、ヒトが現生人類(ホモ・サピエンス)に進化し、脳のメンタライジング・ネットワークが発達するにつれて、霊的存在を信仰する心の動きが小さな集団内で共有されて、初期の宗教(アニミズムやシャーマニズムなど)が生まれました。
その後もヒトはずっと小規模な集団で狩猟採集生活をしていましたが、今から1万年ほど前から大規模な集落で暮らすようになり、非血縁者がいる大きな集団で暮らすストレスに対処するために、宗教の儀式が複雑化し、専門の聖職者も現れ、教義宗教が生まれました。
ただ、この頃はまだヒトは多くの神々を信仰しており、擬人的に表現するならば、神々の側も人間の行動に細かく干渉して道徳を説くようなことはありませんでした。
ロビン・ダンバーは一神教の「高みから道徳を説く神」の成立について、枢軸時代と呼ばれている紀元前千年紀(今から3000年ほど前)に、社会と政治がより一層複雑化し、都市の人口が100万人規模に増大するなかで、民衆の心を一つにして社会を安定させるために(あるいは外敵に勝つために)、「高みから道徳を説く神」の信仰が生み出されたと説明しています(Dunbar, 2023, p. 217)。
当時の社会は、もはや一人ひとりを直接監視できないほど大規模になっていたので、その代わりに、神による監視という観念が、人々に道徳的行動を促す仕組みとして機能した可能性があります。
一方、国民(=信者)の側は、志向姿勢の影響を受けて、神をヒトの内面の意図までも知る存在として想像しやすい。この両面から、「高みから道徳を説く神=心を読む神」は人々の行動を道徳的に方向づける強い心理的効果を持っていたと考えられます。
ユダヤ教の聖典であるヘブライ語聖書(タナハ)の成立過程に焦点を当てて、「高みから道徳を説く神」がいつ頃どのように登場したのかを以下に見ていきます。
古代イスラエル宗教史の研究においては、聖書の冒頭の5つ文書(いわゆるモーセ五書)を「J(ヤハウィスト)資料」「E(エロヒスト)資料」「D(申命記)資料」「P(祭司)資料」に分類するのが一般的です。そして、アメリカの聖書学者リチャード・エリオット・フリードマンは、聖書の記述の詳細な分析をもとに以下のように推測しています。
まず「J資料」は、紀元前848〜同722年の間に、宮廷内の知識人(おそらくユダ王国の女性)が、語り伝えられてきた神話を物語の形にまとめたものだったのではないか(Friedman, 1987, p.110)。その根拠は、物語の細部がこの当時のユダの街や領地とよく付合すること、総じて女性に対する関心が高く心遣いも細やかなことなどです。たしかに、サラ・リベカ・ラケルなどの女性が生き生きと描かれています。
同様に「E資料」は、紀元前922〜同722年の間に、おそらくイスラエル王国のレビ族の男性が書いたのではないか(Friedman, 1987, p.110)。「J資料」では神のことを一貫して固有名詞の「ヤハウェ」と呼んでいるのに対して、「E資料」ではモーセ登場以降の2か所を除いて、すべて一般的な神(=エロヒム)と呼んでいます。また、「E資料」では、モーセの偉大さに焦点を当てている点が特徴的です。
念の為に付け加えると、紀元前922年にソロモン王が亡くなった後、統一イスラエル王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しています。
ここで重要なのは、どちらの作者も、現在のような聖典の一部としてではなく、当時語り伝えられていた伝承や神話を物語の形でまとめたと考えられる点です。したがって作者自身は、自らの作品が後の時代にこのような大きな影響力を持つことになるとは、必ずしも想定していなかったのでしょう。
一方、「申命記」を中心とする「D資料」は、他の文書とは語法が著しく異なります。フリードマンは、「D資料」が紀元前7世紀のユダ王ヨシヤの宗教改革と深く関係していると指摘しています(Friedman, 1987, P.173)。アッシリアの衰退、バビロニアの台頭、エジプトの影響力増大など変化の激しい近隣情勢を受けて、この宗教改革では、ヤハウェ信仰が国家宗教として強化され、宗教と政治の結びつきが強められたとされます。
ダンバーの言う「高みから道徳を説く神」の成立は、まさにこの「D資料」の時代の出来事だと捉えることができるでしょう。そしてこの時期以降、ユダヤ教は拝一神教から唯一神教へと徐々に変化していき、バビロン捕囚の民族的苦難のもとで強固な唯一神教になったと考えられています(*)。
(*)一神教の神の絶対性には次のような段階があります。
- 単一神教:多くの神々の存在を認めつつ、そのなかの特定の神を最高神として崇拝する
- 拝一神教:自分たちは唯一の神を信仰するが、他民族が別の神々を崇拝していることは認める
- 唯一神教:あらゆるヒトが、自分たちの信じる唯一の神を信ずべきものとして他の神を認めない

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