米軍上陸の地碑

1945(昭和20)年4月1日の朝、米軍は読谷村・嘉手納町・北谷町の海岸線から沖縄本島に上陸しました。上陸後の第一目標は、北飛行場(後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領でした。ただ、日本の第32軍は宜野湾市以南における持久戦を計画していて、上陸地点にはわずかな兵力しか配置していなかったので、米軍は難なく6万人の兵士を上陸させ、その日のうちに北飛行場も中飛行場も占領しました。比謝川の河口にあるこの場所は上陸の中心地で、米軍はここから軍需物資を荷揚げしました。このように上陸時には激しい戦闘は行われませんでしが、これは序章にすぎず、組織的戦闘が終結したとされる6月23日にかけて、住民を巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられることになります。下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した死亡者数です。

分類死亡者数
県外出身日本兵戦死者6万5908人
沖縄県出身軍人・軍属2万8228人
戦闘に参加・協力して死亡した住民5万5246人
一般住民
3万8754人(推定)
合計18万8136人
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら

私にとってこの場所を訪ねるのは、2015年11月(→こちら)以来2回目です。沖縄戦の概要はWikipediaに詳しく書かれています(→こちら)。また、読谷村にある戦跡については(→こちら)がとても詳しいです。

米軍上陸の地碑

米軍上陸の地碑

米軍上陸の地碑

米軍上陸の地碑

海側の様子。
海側の様子

比謝川側の様子。
比謝川側の様子

 


私の基本的な考えは以下の通りです。

  • 人と人が殺し合ってはならない。
  • 人を殺すための道具を持ってはならない。
  • 武力に対して武力で対抗してはならない。
  • 「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください