戦争の起源(その2)

その1)から続きます。

戦争は国と国が争っているように見えますが、争っているのは(その1)で書いたように「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」の末裔たちです。彼らの「縄張り争い」こそが戦争の本質です。そして彼らは、戦争があたかも民と民の争いであるかのように巧みに装って、本当の目的を糊塗してしまいます。

また、「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」の末裔たちは単独で縄張り争いをすることもありますが、自分よりも力のある別の「小男」の家来になり、忠義をつくす対価として、自分の領地を安堵してもらう作戦をとる場合があります。日本の戦国時代はまさにこのパターンです。

これから引用するのは、司馬遼太郎の『功名が辻』の一節です。歴史小説=フィクションですが、おそらくこの場面は、史実とそんなには違っていないでしょう。これは、関ヶ原の戦いのわずか3ヶ月前に行われた「小山会議」の場面です。このときの家康の立場は、豊臣家諸侯のなかで最上位の官位にあるものの、あくまでも諸侯の一人にすぎませんでした。

 やがて家康が着座した。
むろん上段の間である。
下座にいる諸侯はいっせいに家康にむかって拝礼した。むろん主君として拝礼したのではなく、家康が内大臣という、豊臣家諸侯のなかでの最高位の官位をもつ人であったからである。
当然、家康も答礼した。このばあい相互礼で、いわばたがいにあいさつのようなものであった。
しかし家康はあいさつがおわってもなにもいわない点、まるで主人のようであった。主君というのはこういう場合、家臣に声を聞かせるものではない。意思をつたえるのは家老級の者がやる。
この場合もそうであった。
家康のそば、つまりそのすぐ下座に、徳川家の家来である本多正信と、本多忠勝がひかえ、…………。
<中略>
正信はごくさりげなく、上様ということばを使った。上様とは、天下の主宰者のことでその敬称は故秀吉に対してだけつかわれていた。それをいつのまにか家康に対してつかっている。「石田三成ご謀叛」ともいった。三成の挙兵は家康に対して謀叛になるはずがないのだが、正信はしいてその用語を使った。家康がすでに「天下様」であることを、暗に宣言しているようなものであった。

会議が始まるまで諸侯は、家康につくのか石田三成につくのか決めかねていました。どちらのつくかによって、自分の家の命運が決まってしまうからです。ところが、福島正則が家康側につくことを明言し、山内一豊が掛川城を家康に提供することを申し出たことから、堰を切ったようにほとんどが家康側につくことなりました。家康はこのまるで魔法のような方法で、豊臣家諸侯の多くを自分の家臣にしてしまったのです。

この場面は、「戦さ」=「大名家同士の争い」の図式が自明のこととして書かれています。彼らは自分の家の命運をかけて戦っているのであって、領内の民のために戦っているのではありません。この当時は、領地や領民は戦いの後の論功行賞によって主君から下されるものだったのです。

現代の戦争においても、王・独裁者・権力者・政治家とそのファミリーのために民が駆り出されて戦っていることに変わりはありません。みんなそれに気づいていないのがとても不思議です。

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