藤原道長の望月の歌の新解釈について

あまりテレビは観ないほうですが、朝ドラと大河ドラマとブラタモリは毎回観ています。特に「光る君へ」は、平安時代についてほとんど知識がないので、ドラマということを割り引いても、新たに得られることが多くておもしろいです。

さて、藤原道長といえば、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という、いかにも時の最高権力者らしいエラソーな歌が有名ですが、「光る君へ」での道長の描かれ方はこの歌から受ける印象とはかなり違います。さらに、この歌には新しい解釈(→こちら)があることを先日知って、道長のイメージがだいぶ変わりました。リンク先の記事を読むと分かるように、この歌が読まれたのは満月の夜ではなく少しかけ始めた一六夜で、祝いの宴の二次会で、道長・頼通父子、左右大臣、右大将・実資という政権の中枢にいる5人が盃を交わして結束を確認した後だったとのことです。特に道長は、今まで自分におもねらなかった実資が息子の頼通に酒を勧めてくれたことが嬉しかったようです。

京都先端科学大学教授の山本淳子さんによる新解釈に基づいて現代語訳すると、「今夜は心ゆくまで楽しいと思う。空の月は欠けているが、私の月(「后となった娘たち」と「宴席の皆と交わした盃」)は欠けていないのだから」といった感じになり、だいぶニュアンスが変わってきます。まあ、それでも最高権力者らしい歌であることに変わりはないですが……。

藤原道長
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