超越者の視座(その2)

超越者の視座(その1)には下のように書きました。

私のPhoto Galleryのサイト「Photo Gallery α 赤塚洋作品集」には、写真に対する私の考えをまとめた「写真とは何か」という文章があります。

第9話」「第10話」「第11話」あたりに書いているアッジェの写真の圧倒的な存在感、そして中平卓馬が『決闘写真論』で「捻れ」と呼んだ不安感、これらを表現するとてもいい言葉が見つかりました。それは「超越者の視座」です。アジェの写真を見ると、人間の頭の中にある既存のイメージやコンセプトを超えて、今までにない全く新しい印象が湧き出てきます。私は無神論者ですが、それはあたかも神の目に見えている世界のように感じられます。私が自分の撮った写真を「スナップ」と「作品」に分ける基準は、その写真に「超越者の視座」が感じられるかどうかです。

作品-201745-

自分では「超越者の視座」はなかなかいい言葉だと思っていますが、考え方の背景が分かっていないと真意を理解してもらえないと思います。また、誤って宗教的なニュアンスを感じてしまう人もいるかもしれません。そこで、もう少し簡単で平明な言葉を考えました。

それは、
「新しい印象」
です。

なぜ「新しい印象」なのか簡単にまとめてみました。

  • 私たちは、網膜や視神経などの視覚器官を介して得た情報を脳で処理して、さまざまな印象を形成している。
  • 脳の処理過程においては、新しい印象を形成するよりも、過去の経験や知識によって既に形成されている印象を呼び起こすことのほうが多い。
  • 写真に写し出された像を見た時の印象と、被写体に対して既に固定観念として持っている印象とは似て非なるものである。
  • この似て非なる2つの印象のズレが、中平卓馬が『決闘写真論』で「捻れ」と呼んだ不安感の正体である。
  • 写真の醍醐味は、とても細密な解像力によって写し出された写真の像から、固定観念にとらわれない新しい印象を感じとることある。それは不安ではなく、とても甘美な体験である。
  • 写真にタイトルや説明文をつけると、その文字情報が固定観念を呼び起こし、新しい印象を感じとるという写真の醍醐味を削ぐ危険がある。
関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください