「写真とは何か」 第11話 二つの虚構

写真11

 アッジェの姿を現在に残す写真としては、アボット女史が写したポートレートが有名である。とがった顔立ちのその横顔は、どこかはわからぬが中空を見つめている。

 このような写真を見ると、写真のもつ記録性の側面を思わずにはいられない。写真は「似て非なるもの」であると言い続けてきた私としては、実に分の悪い展開である。「似て」の部分が写真の記録性を支えている。

しかしである。ここでまた、「似て」とは何に似ているということなのだろうか。写真の像が似ていると比較される対象は、われわれの記憶のなかにあるイメージの残像である。そしてこれは、物質としての世界がはね返した光を網膜が捉え、それを脳が情報処理した結果に過ぎない。写真が虚構であるのと同じように、われわれの知覚した世界も虚構なのである。一つの虚構にもう一つの虚構を似せようと努力すること、それがリアリズムである、と言ってしまっては極論だろうか?

それならば……。そう、それが繰り返し言ってきたテーマである。「似て」ではなく、「非なる」の部分を、しかもそれが写真の特性ゆえに自然に生まれてくる部分を、そのままに受け入れることが重要なのではないだろうか。少なくとも、一つの方向性として、注目すべき視点であると私は確信する。

アッジェの写真の圧倒的な存在感。中平卓馬が「捻れ」と呼んだ不安感。それは知覚と写真という二つの虚構の「非なる」部分から生まれているに違いない。

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