「写真とは何か」 第9話 『決闘写真論』(その1)

写真9

 篠山紀信と中平卓馬の『決闘写真論』は、『アサヒカメラ』に1年間連載されたあと、 1977年に単行本として出版された。現在はその文庫版が、朝日文庫から出版されている。中平卓馬が力のこもった文章で「アッジェ論」「ウォーカーエバンス論」を展開していくのに対して、篠山紀信は「家」「晴れた日」などの代表作でこれに応じている。 

 私のつたない文章を長々と連ねるよりも、さっそく本文から引用しよう。


アッジェの映像はそのような私の思い出、情緒を最後の最後で突き放し、街は街として、事物は事物として冷ややかに私を凝視している。そこには、私による意味づけ、情緒化の入り込むすきはない。私の記憶にまといつき、しかもそれを最終的には突き放してしまう一種の捻れ。このような牽引と突き放し=異化の中天にアッジェの一連の写真はさしかかっている。おそらくアッジェの写真の最大の特徴はそのあたりにある。

 アッジェの写真には特別なもの、異様なものは何も写されてはいない。それらは洋服屋の店先に並べられた帽子の群れであったり、古着屋の軒先に吊るされたワイシャツ、ズボン、革靴であったり、ヴェルサイユ宮殿の石像であたり、八百屋の店先に積み上げられたレタス、キャベツ、ネギ、何本かの花であったりする。それらはそれ自体なんということはない、われわれの眼に親しんだものばかりである。にもかかわらず、このようにフィルムに定着され、印刷された事物のひとつひとつは、それらを眼が辿ってゆけばゆくほどゆっくりとその視線の向こう側に後退してゆくのだ。それは日常的なものから異常な ものへの移行ではない。「同じもの」でありながら同時に「異なるもの」に見え始めるとでも言う他はない。それがアッジェの視線のなせるわざなのか、それともそれを見つめる私の視線のなせるわざなのか。たぶんその共同作業であろう。
引用:『決闘写真論』篠山紀信・中平卓馬著(朝日文庫)

 何の意図も思い入れもなく、ただ資料としてパリの街を写し続けたアッジェ。その映像がわれわれにどんな世界を残してくれたのか。中平卓馬の文章は、それを教えてくれる。

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