「絶対」についての考察

広島原爆の日の平和記念式典における松井一実市長の平和宣言では、「絶対悪」という言葉が何度も使われました。人が人を殺すことはいかなる理由があっても「絶対悪」であると私は考えます。ただ、「絶対」という言葉については、深く考える必要があると考えています。

数学において「公理」とは、「真なることを証明する必要がないほど自明の事柄であり,それを出発点として他の命題を証明する基本命題」とされいます。しかし、数学はあくまでも概念的で形式的な論理体系です。現実の世界においては「真なることを証明する必要がないほど自明の事柄」と言い切れないものがたくさんあります。

「人を殺す」というのは絶対的に悪かというと、私自身はそう思いますが、そうは思わない人や、そうでない場合があるのは事実です。例えば、「死刑」の執行は法によって定められた「そうでない場合」に当たると思います。また、私は拡大解釈されすぎだと思っていますが、「正当防衛」ならば人を殺しても罪に問われません。戦場で(戦闘行為として)兵士が敵の兵士を撃ち殺しても、それで罪に問われることはありません。

「絶対」とは「他に比較するものや対立するものがないこと」ですが、その一方で「Diversity(多様性の容認)」も重要です。世の中には多種多様な考え方をする人がいるので、それを受容できないと深刻な対立が起こります。では、これは「絶対」だと決めるのは、誰で、どのような基準に基づくのでしょうか?「絶対」と「多様性」の間の線引きは可能なのでしょうか? これはとても難しい問題です。このような問題への私なりの答えを含んだ文章を現在執筆中です(完成するまでには、もう少し時間がかかりそうですが……)

個人的には、以下の4つの命題は、広く世界中の人々に絶対的なものとして共有されてほしいと思っています。

・人と人が殺し合ってはならない。
・人を殺すための道具を持ってはならない。
・武力に対して武力で対抗してはならない。
・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

by
関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください