沖縄中部から南部の戦跡(嘉数高台公園や民家の塀の弾痕など)

【嘉数高台公園の地下壕入口とトーチカ】
昭和20年4月8日から16日間、嘉数高台をめぐって日米の激しい戦闘が繰り広げられました。これが「嘉数の戦い」です。諸説がありますが、両軍の戦死傷者は10万人にのぼったと言われています。

陣地壕の入口。
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トーチカ。この開口部から銃で敵を狙撃しました。
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【西原町小波津の民家の塀】
首里城の地下壕にあった沖縄守備隊第32軍の司令部を目指して米軍は南進してきました。西原町は首里攻防の激戦地で、この塀の弾痕が戦闘の激しさを物語っています。住民もたくさん犠牲になったそうです。
西原町小波津の民家の塀

西原町小波津の民家の塀

 


【南風原町津嘉山の民家の塀】
沖縄守備隊第32軍は、昭和20年5月27日の夜に首里城の地下壕の陣地から撤退し、一時的に南風原町津嘉山の地下壕に入りました。この塀は、沖縄戦の最終局面での激しい戦闘の跡です。
南風原町津嘉山の民家の塀

南風原町津嘉山の民家の塀


私の基本的な考えは以下の通りです。

・人と人が殺し合ってはならない。
・人を殺すための道具を持ってはならない。
・武力に対して武力で対抗してはならない。
・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

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