「写真とは何か」 第6話 創発する世界

写真6

 頭が痛くなりそうな話が続きすぎた。このへんで一応のまとめをして、次の話題に進まないとみんな逃げていきそうである。

 第2話で書いたように、人間は360度闇が広がる洞窟の中で、か細い一条の懐中電灯の光だけを頼りに世界を知覚する。人間の知覚はそんな頼りないものである。まるで目隠しをされたまま巨大な象の足に触り、この物体はなにかと問われているようなもので、人間は現実の世界のごく断片を垣間見ているにすぎない。例えばとんぼの目が見た世界や、蜂の目が見た世界や、犬の目が見た世界がそれぞれまったく違うように、人間の目が見た世界も人間という種に固有のものである。もっと言えば人間同士でさえ、私の見ている世界と、別の人が見ている世界が同じだという保証はどこにもない。ただ、同じものを指して、同じ固有名詞で呼び合っているにすぎない。私にとっての赤と、別の人にとっての赤が同じだという保証もどこにもない。ただ、各人にとって特定の色に見えるそういう色を赤と呼び合っているにすぎない。 

 それでは、「撮影された写真を見る」という行為はどう考えればいいのだろうか。最後に目で見るという過程が入る以上、これは普通の風景を見ることとなんら変わりはないが、「写真に写る」という純粋に化学的反応な過程がそこに介在する。つまり、化学的変換→生物的・個人的変換の2つの過程を経て写真は知覚される。これはごくあたりまえで、あえて言う必要もないことである。

 しかし、「写真に写る」という反応にもっと着目すると、これは容易ならぬ反応であることが分かる。まず、その圧倒的な情報量である。35mmのフィルムでさえ、正しく現像すれば極めて微粒子の画像が得られる。まして4×5インチや8×10インチの大判カメラなら、そこに驚異的な点を押し込めることが可能である(早くパソコンのディスプレーがこれに対応してくれることを切に望むが)。第二に、写真は時間を閉じ込めることができる。これは一瞬一瞬に 消えていく知覚の対して決定的に違う点である。今世紀初めにアッジェによって写し込まれたパリの街を、今私は確実に見ることができるのである。

 写真の上の一つ一つの粒子から反射された光は人間の網膜に届く。そして視神経を通って脳に伝えられる。専門家ではないのではっきりしたことは言えないが、脳における情報処理には二つのレベルがあるのではないかと思う。一つは物体の大きさ・形状・表面の状態など「存在」を認知するレベル。これは動物としての本能に由来する原始的なレベルの知覚である。もう一つはこれまでの体験や知識に照らして、対象の「意味」を認識するレベルである。

 そして、私が「新しい世界の出現」と呼んでいる感覚は、この第一の原始的レベルの知覚に属するものである。写真上の粒子は、一つ一つの物理的な点 にすぎない。ところがそれが脳で知覚されると、見る人の神経系統を興奮させ、血流や体温にまで影響を及ぼすことがある。あるいは、その人の社会的行動を通して、世の中に影響をもたらすようなことになるかもしれない。このような「バタフライ効果」が写真の映像を引き金にして起きることを考えると、これは最近 「複雑系の科学」の分野でしきりに言われている「創発」という現象だと言えなくもない。

 「複雑系」とはごく大雑把に言えば、「個々の要素の個別のふるまいが、その局所的な相互作用の積み重ねを通して、より大局的な現象を引き起こすような性質、あるいはそれが起きている場」ということができる。そして、そのような大局的な現象のことを「創発」という。写真を通じて起こる「創発」は、暗闇の中をさまよう私にとって、もう一条の懐中電灯の光なのである。

 頭が痛くなる話が続きすぎたようだ。話題を変えて次号からは、私に大きなショックを与えたアッジェの写真について書いていこうと思う。

関連記事