「写真とは何か」 第8話 アッジェの大判カメラ

写真8

 1900年代初めの写真技術というと、まずフィルムの感度が低いので長時間の露出を必要とし、カメラのレンズも特に画面周辺部で歪みが大きくて、 そういった点を現在の写真と比べれば、大いに見劣りする。ところが一つだけ35mm中心の現在の写真に勝る点がある。それは18×24センチというとてつもなく大きいフィルムに像を結ぶということである。

 前にも書いたと思うが、写真は一番細かい網を通りぬけて像を結んだ芸術である。そして、その特性を最大限に活かすことができるのが大判カメラである。創発する可能性がある被写体を見つけたなら、シャッターを切って、後は自然の力に任せる……、このスタンスについてはすでに書いてきた。この時に大判カメラの巨大なフィルムは、自然の力をしっかりと受け止めてくれる。創発の可能性をより高いものにしてくれるのである。

 大判カメラで撮影された何百もの人物が写っている集合写真を見たことがあるだろうか。何百人のなかの一人一人の顔までも鮮明に写し出された、 そのすさまじい描写力に鳥肌がたったことが何度もある。カメラが設置された場所に立って、何百人をながめてみても、このような視覚は得られないだろう。この視覚は、大判カメラという最も細かい網を通した場合にだけ成立するのである。

 アッジェの写真のいくつかには、かすかに人の脚の一部だけが写っていたりする。おそらく誰かがそこで一瞬立ち止まったのであろう。動くものがほとんど捨象されたパリの街は、現実には存在しない沈黙の世界である。それは1900年代初めのパリの街が数十秒間(あるいは数分間)反射した光が作り出したまったく新しい世界である。

2013-10-20|タグ:
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