「写真とは何か」 第13話 なぜカメラを向けるのか

写真13

 『写真のプロセスにおいて作者はただ「新しい世界の出現」に手助けするだけだ』と、今までさんざん書いてきた。第1章の第5話 「サルがたまたまシャッターを押したら」では、「それでも新しい世界が出現していれば芸術である」と書いた。それなら、被写体を撮ろうと思ってカメラを構える作者の行為は、いったいどんな意味をもつのだろう。写真を撮るという行為自体、なんの意味も持たないのだろうか?

自分が写真を撮る場面を思い起こしてみたい。カメラのファインダーを覗くと、出来上がりの白黒写真のイメージがかなりのところまで見えてくる。そんなふうに書くと、それは「新しい世界の創造」という観点とは矛盾するように感じられるかもしれない。思いもよらない世界が誕生するから芸術じゃないのか、という反論が飛んできそうである。

 しかし、これはいままでの議論と矛盾しない。ファインダーを覗いて見えてくるのは、新しい世界の出現(=創発)の予感、あるいは創発が起きるための土台なのである。だから私は「今シャッターを切れば創発が起きるかもしれない」という予感を抱いてシャッターを切る。それが撮影という行為なのである。

 そして、出来上がった写真を見たときに、ファインダーを覗いたときのイメージがほぼそのまま再現されているだけで、それ以上のものがなかったら、それは凡作として終わる。もし、最初のイメージを超えた何物か出現していたならば、優れた作品が出来上がったということになる。

 つまり撮影における創造性とは、創発の起きる可能性を見出して、その条件をできるかぎり整えてシャッターを切ることだと、私は考えるのである。

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