「写真とは何か」 第14話 微粒子現像にこだわる

 昔から、とにかく微粒子現像だけには力を注いできた。学生時代は、パナトミックXをマイクロドール1:3希釈で現像するのが常套手段だった。その後かなり長い間TMAX・100をTMAX現像液1:5希釈で現像していたが、どうもイマイチなので、最近はミクロファイン1:3希釈に落ち着いている。できるだけ現像液の力を弱めて、フィルムの表面の浅い層だけを現像しよう、できるだけ粒子が成長する前に現像を止めようという作戦である。もうこれ以上薄いと、コントラストが出なくて焼くことができないという限界まで薄いネガを作る。

 私にとって、微粒子現像は「新しい世界の出現」のための、最も重要な前提条件である。微粒子現像が成功しなければ、なにひとつ新しい世界は現れてこないと言っても言い過ぎではない。

本 来、大判カメラを使えば、微粒子現像にこだわらなくても微粒子の画面は簡単に得られる。何百人もの人が写しだされた集合写真のなかから、ただ一人の人物が 鮮鋭に認識できるような圧倒的な情報量は、大判カメラゆえの神業である。この情報量ゆえに、写真は芸術性を確保している……、と少なくとも私は考えている。

 しかしその反面、大判カメラの最大の欠点は機動力である。街中を歩きまわり、目に留まった被写体の一瞬の変化を写してしまう、これができるのは、やはり35mmカメラである。それならば、35mmの小さなフィルムに、より高密度に画像を押し込むしかないではないか……と、私は微粒子現像にこだわる のである。

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