「写真とは何か」 第17話 再び洞窟の中の懐中電灯

例えば電子は、粒子でもあり波でもあるという。原子核の周りに雲のように存在し、ある瞬間に特定の場所に存在するというのではない。あらゆる場所に同時に(確率的に)存在するのだという。素粒子のこのような不可思議な振る舞いを説明するためには、この世界と平行して存在する別の世界がなければならないという学説がある。第2話・ 洞窟の中の懐中電灯では、この世界がとほうもなく広大な空間をもつ洞窟のようだと書いた。さらに加えるならば、その空間は我々が考える以上にもっと多元的で重層的な構造を持っているようである。

そして、我々の理解を超えたその空間を突き抜けて飛んでくるもの、それが光である。光は、三次元の世界の生物である我々には知るよしもない違う次元の空間をも超えて飛んでくる。それは粒子でもあり波でもある。ということは、おそらく、我々には分からないだけで、光は未知の世界から発信された情報を運んでいるに違いない。

このエッセイでは、写真が生み出す「新しい世界」の可能性について書いてきた。撮影者は、「新しい世界」が出現する条件づくりをある程度できるにしても、最後のところでは、光と被写体とそして感光剤との複雑な相互作用にすべてを委ねるしかない。その結果、うまくいけば、撮影者の予想をはるかに超越した「新しい世界」が出現するのである。

人間が作り出す多くの人工物は、人間によって制御され、管理されて生み出される。したがって、それらは人間の思考の枠を超えることはできない。人間が制御し管理することができない、まさに世界そのものの力によって作り出される写真を、これからも撮り続けたいと思う。

Copyright © 1997 Hiroshi Akatsuka. All rights reserved.


【追記(2017年11月22日)】
第9話」「第10話」「第11話」あたりに書いているアッジェの写真の圧倒的な存在感、そして中平卓馬が『決闘写真論』で「捻れ」と呼んだ不安感、これらを表現するとてもいい言葉が見つかりました。それは「超越者の視座」です。アジェの写真を見ると、人間の頭の中にある既存のイメージやコンセプトを超えて、今までにない全く新しい印象が湧き出てきます。私は無神論者ですが、それはあたかも神の目に見えている世界のように感じられます。私が自分の撮った写真を「スナップ」と「作品」に分ける基準は、その写真に「超越者の視座」が感じられるかどうかです。

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