分断と対立を避けて、ゆるやかに社会を変えていく方法
【フルテキスト版】Ver.1.10.004
赤塚 洋
なぜ人間社会には、これほどまでにうまくいかないことが多いのだろうか。その背景には、進化の過程で形成された認知や行動の仕組みと、現代社会との間に生じる深い構造的なズレが存在している。
【要約版】および【PDF版】 → こちら
今日生まれたばかりの乳児も、20年経たないうちに、自らの考えに基づいて主体的に行動し始める。ヒト(*)とチンパンジーが共通先祖から枝分かれして独自の進化の道を歩み始めてからおよそ700万年、現生人類(ホモ・サピエンス)が出現してからおよそ20万年という長いヒトの進化の歴史からすると、20年はほんの一瞬の出来事である。
(*)本稿では人類の進化に着目することが多いので、人類一般の意味で使う場合は原則として、生物学上の標準和名であり、多くの進化心理学の文献において一般的に使われている「ヒト」と表記することにする。
そして、そんな遠くない将来に、地面に降り注いだ雨が思わぬ場所から泉となって湧き出すように、ヒトの社会の新しいフェーズが始まることを夢見ながら、この提言をまとめた。提言の内容は、とても生きにくくなってしまったこの社会を、どうすればすべてのヒトが自由に生きられる社会へと変えていけるか、その道筋に関するものである。
本稿は、第1部:ヒトの心の進化(ヒトの進化的基盤)、第2部:自由の視点から見たヒトの歴史(誤作動の分析)、第3部:「自由で機能する社会」への道筋(自己組織化による新たな社会像)、という三部構成からなる。
まず序章で、「なぜヒトは〜?」という問いによってヒトやその社会が抱えている諸問題を列挙したうえで、第1部では、進化心理学や認知科学の基礎的な知見に基づいて、それぞれの問題の本源的な理由(究極要因)を探る。その手がかりとして、進化生物学者リチャード・ドーキンスが用いた「誤作動(misfiring)」という比喩を参照する。本稿ではこれを、進化心理学的観点から拡張し、「誤作動(evolutionary mismatch)」として理論的に扱う。これは、過去の進化や文化の伝承によって形成された適応的な心理的形質が、環境の変化によって本来とは異なる結果をもたらした「副産物」だと理解することができる。
第2部では、「自由」を基準として、過去の歴史のなかでヒトやヒトの本性がどのように取り扱われてきたか、そして誤作動がどのように生じてきたかを振り返る。
そしてそれらを踏まえて、第3部では、誤作動という束縛の鎖を自由意志に基づく選択によって振り解いて、「自由で機能する社会」を実現していく道筋を提言している。提言の核心はこの第3部にあり、第1部および第2部は、その提言に至る前提と根拠を示すものである。
この提言の目的は、「あるべき姿」を示すことではなく、変化の「道筋」を示すことである。すなわち、誤作動の存在を理解したうえで、新しい社会が自己組織化(self-organization)していくためはどうすればいいのかを提示することである。言い換えれば、進化と複雑系の視点から、自由と協力が同時に成立する社会の条件を提示することである。
そこには、今の社会の枠組みをひっくり返すような考え方も含まれているが、それによって新たな分断や対立が生じないように、個別の対象への批判は極力避け、その代わりに、気づいてほしいこととや、今から新しく始めたいことを提言している。新しい気づきや、そこから始まる小さな行動変化が徐々に社会に広まっていけば、やがて思わぬ場所から泉が湧き出すだろう。
本稿は分量が多いため、重要度に応じて読む順序の目安を以下に示す。
【核心】
【重要】
【前提】
各部の最後には第1部のまとめ・第2部のまとめ・第3部のまとめを載せており、本稿末尾の【索引】は提言に至る論理の流れが見えるように構造化してあるので、併せて参照してほしい。
目 次
(▶︎印をクリックすると、節が展開されます)
第1部 ヒトの心の進化
第2部 自由の視点から見たヒトの歴史
第3部 「自由で機能する社会」への道筋
以下に挙げる「なぜヒトは〜?」という問いはどれも、10年くらい前から私の頭をずっと離れなかった疑問である。これらの問いの対象となっている事象は、古代から現代に至るまで時代に関係なく起きているし、地球上の特定の地域に限定されるものでもない。
ということは、これらは、個別の事情によってではなく、ヒトという動物の本質に関わるより根本的な理由によって起きていると考えられる。
世界中の大多数のヒトはなんらかの宗教を信仰しており、まったく無信仰のヒトは少数派と言えよう。信仰の対象はさまざまであるが、そのなかでとりわけ大きな影響力を持っているのは一神教である。一神教の代表的存在であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の信者は、世界の人口の6割近くを占める。
およそ4000年前にメソポタミア地方カルディアのウルに生まれたと伝えられるアブラハムを最初の預言者とする点においてこの3つの宗教の出発点は同じであるが、その後に枝分かれした。
宗教の教義のなかには、信者に大きな負担を強いるものが少なからず含まれるが、ヒトは信仰のためにそれを受け入れ守っている。また、排他的な教義は分断と対立を生み出し、戦争の原因となることが多い。
では、なぜこれほど多くのヒトが神を信じるのだろうか。そして、なぜ信仰は、ときに他者への強い敵意や排除と結びついてしまうのだろうか。
本稿を書いている今この瞬間にも、地球上の多くの場所で紛争や戦争が続いており、「核による脅し」をちらつかせる為政者もいる。
ヒトがヒトを殺すための兵器が日々大量に製造され、そのなかには人類を滅亡させかねない核兵器も含まれている。さらに恐ろしいのは、その最終兵器の発射ボタンがたった一人の為政者の手に委ねられていることである。
ヒトが文字によって歴史を記録するようになった時には、すでに世界中で戦争が繰り広げられていた。先史時代にヒトが農耕や牧畜を始めた頃の遺跡からも、防御のために集落全体を取り囲んだ濠や外壁、明らかに戦死したとみられる人骨などが出土している。
ところが、農耕・牧畜生活より前の狩猟採集生活の頃の遺跡からは、小規模かつ単発的な争いの痕跡は出土するものの、大規模かつ組織的な戦争の痕跡が確認できるものは少ない。したがって、ヒトはある時期を境に、急に大規模な戦争を始めたと考えられる。それでは、なぜヒトは争い始めたのか?そして、なぜヒトは今も争い続けているのか?
学校や職場などの閉鎖的な集団では、いじめが多発する傾向がある。特に日本の小学校や中学校において、いじめを苦にした自殺が多発して社会問題となっている。
また、最近ではインターネット、特にSNSにおいて誹謗中傷が多発し、こちらも大きな社会問題となっている。これをSNSの問題だと言う論者も多いが、それは問題の本質を見誤っている。SNSにおいてはコミュニケーションの頻度や密度が高まるがゆえに、ヒトが持っている本質的な問題が表に出やすいというのが正しい解釈だろう。
いじめが起きる原因は、ヒトの本性に根差したもっと深いところにあると考えられる。それならば、その原因は何か?なぜヒトはいじめをするのか?
今からおよそ1万年前にヒトが集落は作って定住するようになり、農耕や牧畜も始まり、やがて社会の階層化が始まり、王が登場した。考古学的資料によって実在が確実視されている最古の王は、約4800年前(紀元前2800年頃)の古代メソポタミアの王エンメバラゲシだと言われている。いずれにしても、地球上で人が住めるほとんどの場所に王国ができ、王が君臨するようになった。
多くの場合、王権は世襲されてきたが、一族のなかで誰に王位が引き継がれるべきかをめぐって頻繁に対立が起き、別の一族の者が策略を巡らせて王権を奪い取る政変劇も数えきれないほど起こった。そして、その度に血が流された。
17世紀から18世紀に起きた市民革命によって、一部の国では王権が倒され、その代わりに選挙で選ばれた大統領や首相が権力を握るようになった。ところが、一見すると民主的にみえる方法で選ばれてはいても、大統領や首相の権力は、王権のそれと本質的にあまり変わらない。いまだかつてヒトは、本当の意味の民主主義を経験したことがない。それでは、なぜヒトはこんなにも為政者に従順なのだろうか?
ヒトは古代から、さまざまな事象の原因やその背後にある規則性を明らかにしようと、科学を発達させてきた。科学はヒトに多大な恩恵をもたらしてきたが、その一方で、ひとたび理論が権威づけされてしまうと、それが既成概念となって、新しい理論の展開を妨げることもあった。
たとえば、古代ギリシアの哲学者で「万学の祖」と称されるアリストテレスが打ち立てた目的論的な哲学の体系は、中世を通じて絶大な権威を持ち続け、無批判に支持され続けた。ようやくそれらが見直されるようになったのは、17世紀の近代科学の登場を待たなければならなかった。
また近代科学においても、ニュートンが発見した万有引力の法則をはじめとする古典力学は、さまざまな力学現象の統一的な理解に大きく貢献したが、その方程式には過去から未来へ一方向に流れる「時間の矢」という概念がなかった。この概念なしには、不可逆的に進化発展する動的な世界を記述できないが、古典力学の影響力があまりに大きかったので、時間の矢の存在は長らく否定され続けてきた。第3部で述べる「散逸構造」の概念を提唱したイリヤ・プリゴジンは、「今日の多くの物理学者にとって、自然を記述する際の基礎的レベルに関する限り『時間の矢』が存在しないということは信念となっている」と嘆いている(Prigogine, 1997, p. 1)。
ある理論が一度権威づけされてしまうと、それを覆すことは非常に難しい。なぜヒトは既成概念を墨守しようとするのか?
歴史を動かしてきた人物は圧倒的に男性が多く、女性が歴史の表舞台に登場することは少ない。それだけではない。一般人の生活のレベルにおいても、女性の権利は制限され続けてきた。家族や血縁関係のある一族のなかで、重要な決定を下すのも、財産を相続するのも、年長の男性だった。このような慣習は、家父長制(または父系制)と呼ばれている。
ごくごく最近になって、ようやく女性の地位の向上が叫ばれるようになり、女性の社会進出が加速してきたが、まだまだ完全な平等には程遠く、国や地域による差も大きい。
なぜヒトの社会で女性は差別されるようになったのか?それはいつ頃からなのか?
日常的な商品の売買とはまったく別に、債券等の短期的な売買で得られる利鞘を求めて、投機マネーと呼ばれるお金が大量に流通している。IT技術の発達により、一秒間に何百回も売買を行って利鞘を稼ぐ高頻度取引が可能になった。今、全世界で流通しているお金の約9割を投機マネーが占めると言われている。
投機マネーは、市場に対して影響力のある人物のちょっとした発言や、経済指標や企業の業績発表の数字の良し悪しにも敏感に反応し、相場が激しく乱高下している。そして、このような不安定さが実体経済にも大きな影響を及ぼし、経済の撹乱要因となっている。
なぜヒトはこんなにも際限なく、蓄財や投機に走るようになったのだろうか?これも古い時代のヒトの生活環境と関連しているのだろうか?
ヒトの社会に関する「なぜヒトは〜?」を列挙してきたが、たくさんの「なぜヒトは〜?」が同時に顕在化している状況は、ヒトにとって暮らしやすい環境とは言い難い。
ヒトは、ヒトである以前に動物であり、哺乳類であり、類人猿である。ヒトは長い進化の道のりを経て現在の姿になってきたのだから、その時々の環境に適応してきた進化の記憶が遺伝子に残されている。その記憶と現在の環境との乖離が、たくさんの「なぜヒトは〜?」の理由かもしれない。
それでは、ヒトが暮らしやすい社会とはどのような社会なのだろうか?それを突きとめるのが、本稿の第1部と第2部の目的である。
序章で列挙したたくさんの「なぜヒトは〜?」の問いは、それぞれ濃淡の差はあるものの、ほとんどのヒトが共通に感じている疑問ではないだろうか。どうしてヒトはこのような行動をしてしまうのか?
その問いに答えるのはとても難しいように思われるが、進化という切り口から考えると、明確で納得できる答えを導き出すことができる。第1部では、比較的最近に明らかになってきた進化心理学や認知科学の知見に基づいて、たくさんの「なぜヒトは〜?」の理由を考えていきたい。
自然科学の一分野である進化心理学や認知科学の研究成果を社会科学が参考にすることは、従来あまりなかったと言えよう。しかし、ヒトの社会的な活動を研究する以上、ヒトはどのような生物なのか、ヒトの心の働きにはどのような傾向があるのかを知ることは、重要であるばかりか、必須であると言ってよい。
1859年にチャールズ・ロバート・ダーウィンが発表した『種の起源』の内容はとても簡潔で明快であるが、それゆえに、間違って解釈されやすく、過去には曲解されて為政者に悪用されたこともあった。
したがって、進化の話をする前に、次の2点だけは強調しておきたい。後で詳しく述べるので、ここでは項目を示すだけにとどめるが、これらの点を見誤ると、これから先の議論が成り立たなくなる。
1.ヒトの知能やその他の能力は遺伝的に決まっているという「遺伝子決定論(あるいは「生物学的決定論」)」が差別を正当化するために利用されたことがあったが、これは大きな間違いである。たしかにヒトの知能や行動に遺伝的な基盤があることは確かだが、それは、条件しだいで特定の形質が発現する可能性があるという意味で、決定されているわけではない(一卵性双生児であっても、成長過程の環境や経験の違いによって、心理的特徴や行動傾向には違いが生じる)。
2.未開社会からヒト同士の生存競争によって、最も優れたヒトが生き残り、西欧文明が生まれたとする「社会ダーウィニズム」も大きな間違いである。間違いの理由を『進化と人間行動 第2版』は以下のように説明している(長谷川,長谷川, 大槻, 2000, p. 16)。
さらに、こうした誤解は社会ダーウィニズムだけでなく、19世紀の初期人類学に見られる文化進化論にも共通している。エドワード・タイラーは、宗教的思考がアニミズムから多神教、そして一神教へと段階的に発展していくと考えたが、このような単線的な進化モデルは、現在では支持されていない。宗教や文化は単純な段階を経て高度化するのではなく、環境や社会構造の中で多様な形態として並行的に発展しうるものである。
そもそも、進化が起きる基準は、その生物が置かれた特定の環境において生存と繁殖に有利かということのみであり、それ以外のいかなる価値判断も存在しない。環境が変われば、有利か否かの基準も変わってくる。進化の理論に基づいてヒトの本性を考えていくにあたって、上記1.2.のような間違った考え方に陥らないように注意しなければならない。
もう1点だけ追加すると、進化心理学の一部には、ヒトの心を祖先環境において形成された特定の問題解決のための心理メカニズム(いわゆる「モジュール」)の集合として捉える立場もある。しかし本稿では、ヒトの心理を固定的な進化的プログラムとしてではなく、進化によって形成された認知的傾向と環境や文化などとの相互作用として捉える。本稿第3部の提言も、この考え方に沿ったものである。
なお、第1章〜第3章の内容の多くは、『進化と人間行動 第2版』に沿ったものである。同書は、人間の行動を進化の視点から理解するための教科書として長年読まれてきた良書なので、進化心理学についてより詳しく知りたい読者は、まず同書を読むことをお勧めしたい。
ヒトの知能がどんなに高度に発達していても、ヒトが生物であり、動物であることに変わりない。したがって、今からおよそ38億年前にこの地球上に最初の生物が誕生して以来、ずっと積み重ねられてきた生物の進化の歴史を、当然のことながらヒトも引き継いでいる。
しかし、これと真っ向から対立する、神による「創造論」という考え方もある。「アブラハム」を最初の預言者とする一神教においては、ヒトは、他のすべての動物を治めるために、神が自身の姿に似せて創り出した特別な存在であるとされている。ヒトは長い年月をかけて徐々に進化してきたのではなく、最初から現在とまったく同じ姿形で創り出されたというのである。
実際に、聖書の言葉を重視する福音主義的な宗派の信者が多いアメリカでは、公立学校の教育現場で進化論を教えることを禁止する法律が過去に成立している(例:テネシー州のバトラー法<1925年-1967年>など)。
信仰の自由は基本的人権のひとつであり、冒頭の「はじめに」において、「個別の対象を批判することは極力避け、…」と述べたが、進化論の立場を取らないと今後の論理展開が成り立たないので、本稿では創造論ではなく進化論の立場から考えていく。この前提を置くことで、論理的思考が可能になる。
それでは、創造論を信じる人々に、本稿の考え方をどう伝えればいいのか?その方策は第3部で述べる予定である。
言語によるコミュニケーションを発明して以来、ヒトはさまざまな事柄の本質的・核心的な性質を簡潔で明解な言葉で言い表そうとするようになった。特に、科学的な知見が社会に大きな影響力を持つようになってからは、その傾向が強くなった。
ヒトの心の動きや行動の一般的なパターンについても同様である。たとえば、「ヒトはもっぱら経済的合理性のみに基づいて、個人主義的に行動する」とする「経済人(ホモ・エコノミクス)」の人間モデルは近代経済学の理論構築に大きく寄与したが、あくまでも定式化のために採用した一面的な人間像にすぎず、複雑で多面的なヒトの全体像を表してはいない。
この「経済人」以外にも、ヒトとは何かを定義している言葉はたくさんあるが、いずれもヒトのある一面を切り取っただけで、自由意志を持つヒトの全体像を表してはいない。このことは、後の章で詳しく検討する。
エドワード・O・ウィルソンは、元々は蟻などの社会性昆虫の研究者だったが、研究対象を広げて、ヒトを含むあらゆる動物の社会進化を統一的に考えるようになり、1975年に『社会生物学』という本を発表した。
この『社会生物学』の最終章に動物行動の進化論的な研究を人間社会の分析にも適用すると書いたことに対して、これはヒトの文化や自由意志を無視した「生物学的決定論」ではないかといった批判が殺到し、「社会生物学論争」と呼ばれる大規模で激しい論争が繰り広げられた。ウィルソンの主張のなかには、群淘汰の解釈など、現在の知見からすると間違っている部分が少なからずあることは事実である。
ただ、彼の主張のなかで以下の点については大いに共感できるので、彼が発表した『人間の本性について』から引用する。
人もまた自然選択(=自然淘汰)の所産なのだという命題は、確かにあまり魅力的なものではないが、この見解を回避する道はなさそうである。そして、人間の置かれた状況を真剣に考察しようとする際に、この命題は、つねにその出発点におかれるべき必須の仮説といえる。この命題を無視する限り、人文・社会科学は、物理学抜きの天文学、化学抜きの生物学、そして代数抜きの数学のようなもので、表面的な現象の単なる部分的な記載の域にとどまってしまうのだ。しかし、この命題を踏まえるならば、人間の本性は、徹底的な経験的研究の対象となりえる。そして同時に、教養教育に生物学を有効に役立てることもできるようになり、さらに我々の自己理解も、飛躍的かつ真正に豊かなものになりうるはずなのである。(Wilson, 1997, p. 14)
彼はこんなふうにも言っている。
われわれは、石器時代からの感情と、中世からの社会システムと、神のごときテクノロジーをもつ。(Wilson, 2013, p. 2)
本稿の第一部は、まさにウィルソンのこれらの主張に沿って、ヒトの進化の過程から、その本性に近づこうとするものである。なぜなら、この本稿の目的は、ヒトの本性にマッチし、ヒトが生きやすいと感じる社会への道筋を提言することだからである。
我々が「進化」という言葉を使うときに、環境に適応して生物の形質がだんだん変わっていくこと……、といったような漠然としたイメージがあるだけで、進化の正確な定義を知っているヒトはとても少ない。
急がば回れで、1.1で紹介した『進化と人間行動 第2版』に沿って、進化という概念の基礎を押さえておきたい。繰り返しになるが、進化の理論の基礎をしっかりと学びたいと考えている読者は、この第2章よりも、同書を読むことをお勧めする。
生物学における進化の定義は、「集団中の遺伝子頻度の時間的変化」である(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 28)。抽象的な言葉が並んでいるので、ゆっくり説明したい。「遺伝子頻度」とは、集団のなかの何割の個体がある特定の遺伝子を持っているかという割合のことである。進化は(個体ではなく)集団を対象とした概念であることをまず理解してほしい。
進化が起きる(すなわち集団中の遺伝子頻度が変化する)ためには、「突然変異」「自然淘汰(自然選択とも言う)」「遺伝」の3つの要因が主に関与している(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 30)。なお、「遺伝的浮動」「遺伝子流動」「発生バイアス」などの要因も進化に関わるが、ここでは触れずに、【コラム1】で簡単に紹介することにする。
変異とは、集団中にさまざまな形質を持つ個体が存在することを指し、それは遺伝情報を担っているDNA上の塩基配列が何らかの理由で変わってしまう突然変異によって引き起こされる。何らかの理由には、DNAの複製ミスのような内的要因と、放射能や化学物質への曝露といった外的要因がある(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 31)。
自然淘汰は、変異が個体の生存や繁殖に影響を及ぼすことを指す。すなわち、ある特定の環境において生存や繁殖に有利な形質を持った個体が、結果として高い生存率と高い繁殖率を実現するのである。なお、環境に適合した形質のことを「適応的形質(adaptive trait)」もしくは「適応(adaptation)」と呼ぶ。そして、ある1個体に注目したとき、この個体が一生のうちに残した子のなかで、妊孕性(子を作る能力)を持ち、繁殖に参加できる段階まで生存したものの数を「適応度(fitness)」と呼ぶ(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, pp. 33–34)。
遺伝は、親の形質が子に伝わることを指す。ある形質の発現をコードしている遺伝子が子に受け継がれると、(発現の条件が合えば)子も同じような形質を持つようになる(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 31)。
突然変異、自然淘汰、遺伝の3条件が揃うと、次世代において生存と繁殖に有利な形質をコードする遺伝子の遺伝子頻度が変化する。すなわち進化が起きるのである。
進化が起きる仕組みは前節2.1のとおりであるが、それでは遺伝情報を担っている遺伝子の実体は何か。分子生物学者のジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックらは、1953年に、遺伝子の実体がDNA(デオキシリボ核酸)の二重らせんであることを発見した。
DNAは、糖・塩基・リン酸の化合物であり、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)の4種類の塩基の配列が遺伝情報をコード(指定)している。そして、生物個体のすべての細胞には同一の塩基配列を持つDNAが格納されている。ATGCの塩基のうち、AとTが、GとCが結合する性質を持っており、これによって、DNAの複製が行われる(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 50)。
DNAの塩基配列は、「転写」と「翻訳」という2段階のプロセスによって、目的のタンパク質を作り出す。転写はDNAの情報をmRNA(メッセンジャーリボ核酸)に写し取るプロセスであり、翻訳は核外へ移行したmRNAを基にして細胞内のリボソームという場所で、遺伝子がコードしている目的のタンパク質が作られることである。この2つのプロセスによって遺伝子情報が発現する(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 52)。
ただし、遺伝情報がいつでもどこでも発現してよい訳ではない。多細胞生物にさまざまな器官ができるのは、適切な時期と場所でのみ遺伝情報を発現させ、組織ごとに固有のタンパク質を作る仕組みが備わっているからである。こういった調整を「転写調整」と呼ぶが、これはDNA上にある遺伝情報以外の塩基配列(エンハンサーやサイレンサーと呼ばれる)によって制御されている(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 54)。
2.1で述べた突然変異は、DNAの複製ミスなどの自発的要因、放射線や化学物質への暴露といった外的要因によって、DNA上の塩基配列が変化することによって引き起こされる。
2.1では、自然淘汰が適応を生み出し、生存や繁殖に有利な形質が集団に広まっていくことを述べたが、ここで注意しなければならない重要な論点がある。それは、自然淘汰の力がかかる単位は、個体なのか、集団(グループ)なのかという論点である。
(個体ではなく)ある集団を適応的にする性質が自然淘汰によって選ばれるとすれば、自分を犠牲にして集団の利益を優先するような利他行動も、自然淘汰によって進化するのだと説明できる。「群淘汰」あるいは「グループ淘汰」と呼ばれるこういった考え方は、動物の利他行動を説明しやすいことから、一時期多くの研究者に支持された(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 77)。
しかしその後、ジョン・メイナード=スミスが、数理モデルを使って、高い淘汰圧がかかるのはあくまでも個体であり、群淘汰は特殊な状況でしか起こらないことを証明した(Smith, 1964, pp. 1145–1147)。その理由は、集団間での個体の移動があることや、世代交代の間隔が個体よりも集団の方が長いことなどである。
なお、リチャード・ドーキンスは『延長された表現型––自然淘汰の単位としての遺伝子』のなかで、自然淘汰の淘汰圧がかかる単位は個体ではなく遺伝子そのものであると主張している(Dawkins, 1987, p. 228)。個体か遺伝子かの主張は、対立するものではなく補い合う関係として理解されることが多いので、本稿においては、淘汰圧がかかる単位は個体だとしておく。
繰り返しになるが、進化において誤解してはならないのは次の2点である。
この2点はとても重要であり、今後の理論展開に深く関係してくる。
群淘汰(グループ淘汰)が起こることは稀で、自然淘汰の単位はあくまでも個体であり、生存と繁殖という基準のみによって選択が行われるとすると、自分を犠牲にして他者を利するような利他行動がなぜ起きるのか説明できないように思われる。しかし、自然界には利他行動がたくさん観察され、特に社会性昆虫の働き蜂や働き蟻は、女王のために献身的に尽くす一方、自らが繁殖することはない。ダーウィンもこの点をうまく説明できなかった。
しかし、ダーウィンの『主の起源』から100年以上経って、ウィリアム・ドナルド・ハミルトンが「血縁淘汰」の考え方を理論化し、その理由を明らかにした。
血縁者は自分と同じ遺伝子を多く持っているので、たとえ自分が子孫を残せなくても、血縁者が子孫を残せば、多くの遺伝子が次の世代に受け継がれることになる。その結果、血縁者間の利他行動は進化するのである(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 162)。
生存と繁殖を有利にするために、有性生殖をする雄と雌(男性と女性)は、それぞれ異なった戦略を駆使するように進化した。これを「性淘汰」と呼ぶ。
雄と雌の最も顕著な違いは生産する配偶子の大きさであり、小さな配偶子(精子)を生産する個体が雄、大きな配偶子(卵子)を生産する個体が雌である。しかし、配偶子の大きさ以外にも、体の大きさ、角(武器)、飾り羽(装飾)などの形態、鳴き声、寿命、縄張りの形成、配偶者防衛行動、子殺しなど、さまざまな性差が出現している。
このような性差を生む性淘汰は、繁殖の機会をめぐる同種個体間の競争から生じる。潜在的繁殖速度(単位時間あたりで何度繁殖可能か)を勘案した実効性比に偏りがあって、一般的に繁殖に参加可能な個体数は雄の方が多い。したがって、配偶者獲得競争は雄の間で繰り広げられる(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 226)。
この競争に勝つために雄の体格は大きくなり、犬歯が鋭くなり、性格も攻撃的になった。配偶者獲得競争が激しい種ほどこの傾向が顕著で、たとえば、群れの中の最強の雄だけが子孫を残すことができるゴリラでは、雄の体重は雌の2倍にもなる。
一方で、生存上の有利さに働く淘汰と配偶上の有利さに働く淘汰は、逆方法の圧力をもたらす場合がある。たとえば、目立つ羽飾りは配偶において有利であっても、捕食者に狙われやすく生存には不利である。このトレードオフ関係は、二種類の淘汰圧が釣り合うほどほどのところで均衡する(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 225)。
ヒトの場合も、性淘汰の圧力を受けてさまざまな性差が生じてきたが、それがある時期から、女性差別や男性優位の社会の形成につながっていく。それについては、後の章で詳しく述べることにする。
生物の行動を考える時に、「至近要因」と「究極要因」を区別することが重要である。
動物が痛みを感じることを例にすると、その至近要因は、痛点と呼ばれる感覚器官が刺激を受けて、その信号が神経を通って脳に届き、脳で情報が処理されるからである。一方、究極要因は、痛みによって異常に気づいてすばやく回避行動を取れることが生存に有利だったので、そのような機能が進化したのである。
社会のなかのヒトの行動を考える時にも、その行動の至近要因(=いかに?)だけでなく、究極要因(=なぜ?)を探るようなアプローチが本質的な理解につながるので、本稿においてもそのようなアプローチを重視している。
「遺伝子型」とは、ある生物が持つ遺伝物質の構成であり、その実体はDNAの塩基配列である。一方、「表現型」とは、個体の形態や行動に現れる形質である(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 39)。
料理に例えると、遺伝子型はレシピ集であり、表現型は出来上がった料理に相当する。同じレシピに従って調理しても、素材の質(産地や鮮度など)、調理器具(包丁の切れ味など)、調理者の技量(三つ星シェフか否か)等々によって、味は大きく違ってくる。同様に、遺伝子型が同じでも、さまざまな要因によって表現型は違ってくる(遺伝子決定論は間違い)。
遺伝子型は、表現型を決定する3つの要因の一つにすぎない。他の2つの要因は、「環境要因」と「エピジェネティック要因(後成学要因=遺伝子情報を発現させるスイッチのオン・オフに関わる要因)」である(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 13)。
さらにヒトの場合は、言語による情報伝達によって文化を形成し、自分が直接体験していない事柄によっても行動変化を起こせるようになった。ヒトの遺伝子は狩猟採集生活をしていた頃からほとんど変わっていないにも関わらず、ヒトの表現型(特に思想や生活の様式)は劇的な変化を遂げている。
表現型の発現は、個体の体内にとどまるわけではない。リチャード・ドーキンスの『延長された表現型』によれば、その個体の活動によって外部環境が何らかの変化を受けている場合には、それらを含めて遺伝子の「延長された表現型」だと考えることができる(Dawkins, 1987, p. 432)。
たとえばビーバーは、その遺伝情報の発現の結果として、ダムを作って川を堰き止めるが、このダムやそれによって変化した周囲の環境・生態系のすべてを、ビーバーの遺伝子の延長された表現型と言うことができる。
もちろん、これはヒトにも当てはまる。宇宙からも見えるほど巨大な建造物であるピラミッドを、ファラオたちの遺伝子の「延長された表現型」とみなすこともできる。さらに広く考えれば、温暖化を含む地球規模の環境変化も、生物の活動が環境に及ぼした結果という意味では、同じ考え方を適用できるだろう。
ヒトの心の動きにおいて注目すべきものの一つに「志向姿勢(intentional stance)」がある。これは、相手がどんな振る舞いを志向(意図 intention)しているか、つまり何を考えているかを読む姿勢 (stance)で、「物理姿勢(physical stance)」「設計姿勢 (design stance)」と対置される概念である。
たとえばサバンナで予期せず猛獣に遭遇したとき、その動物は「何科の何属の何という種か」とか、「牙や筋肉はどんな構造をしているか」とかを考えるよりも、相手は「何を意図しているか」を推測した方が素早く的確な対応ができる。「彼は捕食者で、今まさに自分を捕食しようとしている」と、その意図を推測できれば、逃げる、隠れる、武器を持って応戦する等の対応が素早くできる。だから、猛獣の多いサバンナで狩猟採集生活をしていた先史時代のヒトにとって、志向姿勢は生存のために極めて重要な心の働きであった。
そして、ヒトが偶発的な自然現象にも何らかの意図(たとえば「神の意志」など)を感じ取る、つまりどんなものも擬人化して考えるようになったのは志向姿勢の影響であり、これが宗教的信仰の出発点になったと考えられている。
この志向姿勢は、大脳新皮質が関与する「メンタライジング能力(=他者の心的状態を見出したり推論したりする能力)」によって得られる。メンタライジング能力には、1次、2次、3次…と志向性の段階があり、この段階は脳全体に対する大脳新皮質の比率と相関することがわかっている。
ロビン・ダンバーは、著書『宗教の起源―私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』のなかで志向性を【図表1】のように例示している(太字<本稿著者による>は、思考・想像・信念などを表す語句である)。
チンパンジーなどの大型類人猿と猿人(アウストラロピテクス)は2次、旧人(ネアンデルタール人)は4次、そしてわれわれ現生人類(ホモ・サピエンス)は5次以上の志向性を持つと言われている。上記の表に照らし合わせると、ネアンデルタール人の各個体は宗教的な概念を持っていたと考えられるが、それを他者と共有することはできず、5次志向性を持つホモ・サピエンスになって初めて、集団で宗教を信仰することが可能になったのである(Dunbar, 2023, p. 141)。
また、志向姿勢は他者だけでなく自己にも向けられる(つまり自分が何かを意図している心の動きを自分自身が第三者的に把握できる)ので、自分という意識は実は志向姿勢によって解釈されたイメージにすぎないと考えることができる(この件は次の節で詳しく述べる)。ルネ・デカルトは、今考えている自分が存在するという事実だけは絶対に確実なことだとして、有名な「我思う、故に我在り」という命題を打ち出したが、「我思う」の実体はデカルトが考えたような超越的・絶対的なものではなく、志向姿勢によって自分の心の中に描き出されたイメージだったのである。
ということは、メンタライジング能力を持たない(チンパンジー以外の)動物は、何かを感じることはできたとしても、何かを感じている自分をイメージすることはできないので、自意識を持っていないと言えるのではないだろうか。逆に、人工知能(AI)がメンタライジング能力を自分に向けることができるようになれば、意識を持つことができるかもしれない。
この件に関しては、さまざまな意見があるが、ダニエル・C・デネットは、『自由は進化する』のなかで「将来には意識を持つ、自意識さえあるロボットが登場するかもしれない。できない話じゃない。」と言っている(Dennett, 2005, p. 345)。
ここまで『進化と人間行動 第2版』に沿って進化の基礎を説明してきたが、同書は初版が2000年、第2版が2022年に発刊されたものであり、必ずしも最新の研究成果を盛り込んでいるとは言えない。この【コラム1】では、同書の刊行後に得られた研究成果や、古くから知られているものの同書では詳しく扱われていない内容などを紹介する。ただし、それらによって本稿の主張が大きく変わるものではない。
2.1で、進化の定義を「集団中の遺伝子頻度の時間的変化」とした。現在の集団遺伝学では、より具体的に、同じ遺伝子座に存在する異なる塩基配列である「アレル(対立遺伝子)」の頻度の世代間変化として表現することが多い。ここでいう「遺伝子頻度」は、基本的にアレル頻度を意味している。いずれにしても、進化が集団を対象とした概念であることに変わりはない。
2.1では、進化には突然変異・自然淘汰・遺伝の3つの要因が主に関与しており、自然淘汰の基準は生存と繁殖に有利か否かであると述べた。しかし、生存や繁殖に有利でも不利でもない中立的なアレルの頻度も、偶然によって世代ごとに変化し、この現象を「遺伝的浮動」という。とはいっても、これによって自然選択による進化が否定されたわけではない。自然選択による進化も、偶然による中立的な進化も、並立するものである。
生物のある集団から別の集団へ、個体や花粉・種子が移動することによって遺伝子(対立遺伝子)が入り込む現象のことを「遺伝子流動」という。これによって、集団中のアレル頻度が変化したり、それまでその集団になかったアレルが持ち込まれたりする。
生物の体の仕組みや発生(成長)プロセスの特性によって、現れる形質(表現型)の変化に偏りが生じる現象を指す。つまり、遺伝的変異が生じても、それが表現型として現れる可能性は一様ではなく、発生システムによって偏りが生じるのである。
生物個体がその表現型を環境条件に応じて変化させる能力。環境条件により、表現型の発現制御の機構を通じて表現型が全く現れなかったり、現れてもその強度が変化したりする。環境変化に対して有利な表現型を生じさせる可塑性は、自然選択によって維持・進化する場合がある。
生物が自らの行動や代謝によって生息環境を物理的・生態的に変化させ、それによって自分や次世代にかかる自然淘汰の圧力を変える進化のプロセスをさす。代表的なものは、ビーバーが川をせき止めて池や湿地を作ることで、安全な住処や豊かな採食環境を生み出し、自身の生存に有利な環境を自ら作り出した事例。ヒトが火を使って食物を調理する環境を作ったことが、食物から得られるエネルギーの増加を通じて、歯や消化管、さらには脳の進化に影響した可能性も指摘されている。
Evo-Devo(エボデボ)とは、進化生物学(Evolutionary Biology)と発生生物学(Developmental Biology)を合わせた「進化発生生物学」の通称で、異なる生物の発生過程を比較してそれらの系統関係を推測し、発生過程がどのように進化したかを示す生物学的研究の分野。多くの動物で、発生を制御する遺伝子の基本的なセットが進化的に保存されている一方、種による形態の違いには、これらの遺伝子がいつ、どこで、どの程度働くかを調節する仕組みの違いが重要な役割を果たしている。
非遺伝的継承とは、DNAの塩基配列の変化を伴わずに、世代を越えて形質や行動に影響する情報や状態が伝わる現象を広く指す。以下のような現象が当てはまるが、これらは同じ仕組みではなく、世代を越えた安定性や進化への寄与についても研究途上のものがある。
上記のような発生、可塑性、環境との相互作用、非遺伝的継承などを、進化を説明するうえでより中心的に位置づけるべきだとする理論的枠組み。これに対して、従来の進化理論の枠組みでもこれらを十分に説明できるとする反論がなされており、論争となっている。
以上のように、進化についての研究は、自然選択や遺伝子だけに焦点を当てるのではなく、遺伝的浮動、発生、可塑性、環境との相互作用、非遺伝的継承などを含む、より複雑なものへと広がっている。一方、これらを従来の進化理論の拡張として理解するか、新たな理論体系が必要と考えるかについては、現在も議論が続いている。本稿では、この論争の結論を採用するのではなく、これらの知見を踏まえたうえで、ヒトの認知的傾向と環境との相互作用を考えていく。
前節2.9の最後に自意識に触れたが、それでは意識は脳のどのような働きによって生み出されるのだろうか?この問いに答えるために、本節と次節では、脳の内的モデルに焦点を当てる認知科学の観点から整理していくことにする。
マルチェッロ・マッスィミーニとジュリオ・トノーニの『意識はいつ生まれるのか––脳の謎に挑む統合情報理論』は、医学(特に臨床現場)における具体的なニーズに沿って書かれている。それはたとえば、患者に意識があるか否かを確実に診断したいとか、患者の意識を回復させる可能性はあるのかといった実践的なニーズである。
同書の興味深い内容を以下に列挙する。
意識的な動作(たとえばテーブルの上の紙コップをつかむ)においても、動作の細部(どのあたりで指を開き、どれくらいの強さで握るといったこと)は無意識に行われており、このような意識にのぼらない動作は、小脳によってコントロールされている。小脳の各ニューロンは、小脳内の他のニューロンとは繋がっておらず、入ってきた信号はそのニューロン内だけで処理されて外部にアウトプットされる。つまり、小脳はバラバラの器官の集合体であり、そこで情報が統合されることはない(Massimini & Tononi , 2015, p. 150)
小脳は意識には関与しないので、小脳を全摘しても患者の意識はほとんど影響を受けない。一方、視床−皮質系(視床と大脳皮質の間で情報をやり取りする神経回路)に損傷を受けると、損傷部位に特有の感覚が失われる(Massimini & Tononi , 2015, pp. 95–97)。
重いてんかんの治療で脳梁を離断する外科手術を受けた患者には、大脳の左右の半球それぞれが生み出す2つの意識のまとまりが生まれる(Massimini & Tononi , 2015, p. 97, p. 122)
視床−皮質系に信号が入ると、縦横無尽に張り巡らされた無数のニューロン網を通じて視床–皮質系全体に信号のエコーが伝わり、情報の統合が行われる。視床−皮質系全体に及ぶ情報の統合は、意識がある時(覚醒時やレム睡眠で夢をみている時)に起きる反応で、意識がない時(深いノンレム睡眠時や麻酔時や植物状態)にはこのような反応は起きない(Massimini & Tononi , 2015, p. 154)
刺激を受けてからそれが意識にのぼるまでに0.3秒程度のタイムラグがあるのは、視床−皮質系全体に情報が伝わって情報の統合が行われるまでに時間がかかるからである。われわれは、感覚器官が脳に送った信号を直接感じているのではなく、視床–皮質系が持っている膨大な情報量のレパートリーのなかから選ばれた感覚がわれわれの意識にのぼるのである(Massimini & Tononi , 2015, p. 169)
意識のオンオフには、ニューロン内にある正の電荷を持ったカリウムイオンの量が関係しており、カリウムイオンがニューロンの外に排出されると意識がなくなる(Massimini & Tononi , 2015, p. 203)
本のタイトルからも分かるように、同書は意識がどのようにして生まれるのかについても述べている。トノーニが提唱する「統合情報理論」の中心的命題は、「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である。つまり、ある身体システムが情報を統合できるなら、そのシステムには意識がある」というものだ(Massimini & Tononi , 2015, p. 126)。そして、情報を統合する能力を測るために「φ」といる新しい単位を考案している。
ただ、私の理解力が足りないためか、どうして情報を統合できれば意識が生まれたと言えるのか、そもそも意識はなぜ生まれたのかについて、腑に落ちるような理解を得ることができなかった。これに対して、かなり説得力があると感じたのは、次節で紹介するマイケル・グラツィアーノの『意識はなぜ生まれたか その起源から人工意識まで』である。
そもそも意識とは何か? マイケル・グラツィアーノの『意識はなぜ生まれたか その起源から人工意識まで』によると、それは、今感じたり考えたりしている事柄が自分自身に固有の「主観的体験だという脳の主張」である(Graziano, 2019, p. 68)。
その一方で、感覚器官から脳に入ってくる情報量は膨大であり、さらに、自然に沸き起こってくる情動、自ら思考する情報、過去の記憶などもこれに加わって膨大な情報量になる。ここで、「限りある脳の処理資源を、その時々で少数のものにだけあて、より深く処理する能力」が「注意」である(Graziano, 2019, p. 19)。
ただし、注意が向かう対象は意識的・無意識的に刻々と変化するので、注意を制御するためには、注意をモニターする内的モデル(internal model)が必要である。内的モデルとは機械工学的には、「制御対象や環境の振る舞いを、制御器の内部でシミュレーションしたもの」と定義できる。
グラツィアーノは、注意に関する内的モデルのことを「注意スキーマ(attention schema)」と呼んでおり、これは「自身の内的プロセスを単純化した漫画のような記述」であるという。長い進化の過程で形成されてきたものである。
注意スキーマには自分の注意の履歴(ストーリー)が記述されているが、その内容は単純化され、物理的実体のない内的な感覚として描かれているので、これにアクセスすると「自分が意識という自分だけのとらえどころのない内的特性を持っていると教えられる」のである(Graziano, 2019, p. 135)。
これに対して自己モデル(self model)とは、身体状態・記憶・社会的評価などを統合し、「自分という対象」を持続的に生成する予測的な内的モデルであり、注意スキーマが機能するための前提層として働いている。整理すると、注意スキーマは「意識があるように見える構造を作る装置」であり、自己モデルは「それを私のものとして帰属させる装置」で、「主観的体験だという脳の主張」は、注意スキーマが“素材”を作り、自己モデルが“所有者ラベル”を貼ることで成立するのである。
注意スキーマや自己モデル以外にも、ヒトの脳にはさまざまな内的モデルが機能している。
| 内的モデル | 主な機能 | 対応する理論・概念 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 知覚予測モデル | 外界からの感覚入力を予測し、誤差を最小化する | 予測処理理論(Predictive Processing) | 全認知の基盤となる階層的モデル |
| 注意スキーマ | 注意の状態・履歴を簡略化して表象する | 注意スキーマ理論(Graziano) | 「意識があるという主張」を生成 |
| 自己モデル | 身体・記憶・社会的評価を統合し「自己」を構成する | 自己モデル理論(認知科学・AI) | 主体性・帰属感の基盤 |
| 外界志向モデル | 他者の意図・信念・関係性を予測する | 志向姿勢(Dennett)/心の理論 | 集団行動・文化形成に関与 |
| 価値・報酬モデル | 快・不快・報酬期待に基づき行動を選択する | 強化学習理論・神経経済学 | 行動の優先順位を決定 |
| 行動生成モデル | 予測に基づいて運動・発話などの行動を生成する | 運動制御理論・予測符号化 | 知覚と行動の閉ループを形成 |
注意スキーマ理論は、前述の統合情報理論で私が感じた「どうして情報を統合できれば意識が生まれたと言えるのか」という疑問にも答えてくれる。バラバラの情報を結びつけて統合するためには、粘性のある接着剤のようなものが必要であるが、注意スキーマに記述された注意の情報は、まさに接着剤(=万能コネクタ)として機能する(Graziano, 2019, p. 168)。それゆえ、統合の状態(=φ)が高まると意識が生まれるのである。
意識を持った人工知能(AI)の可能性を考える時に、注意スキーマが工学的な視点に立ったモデルであることが、大きな利点となる。最新の生成AIはかなり高次の志向姿勢を持ち、質問者の意図をしっかり読み取ってそれに即した回答をしているので、意識を持つためにあと足りないのは、AIが志向姿勢を自分自身にも向けることである。ということは、内的モデルである注意スキーマをAIに組み込めば、意識を持ったAIができるかもしれない……。
ただ、それほど簡単には前に進まないようだ。同書の第8章「意識をもつ機械」では、機械が意識を持つための4つの構成要素を提示している(Graziano, 2019, p. 182)。
このなかでいちばんハードルが低いのは、2.の注意スキーマで、それ以外はまだまだ高いハードルがそびえたっているという。さらに付け加えれば、上記のような工学的課題だけなく、経済的(コスト・パフォーマンスの)課題や倫理的・道徳的課題も残っている。
さて、ここまでの議論では、脳は外部からの知覚信号を受動的に処理しているという理解が前提となっていた。しかし近年の認知科学では、脳は外界からの情報をそのまま受け取るのではなく、むしろ世界についての予測をあらかじめ構築し、その予測と入力との差異を通じて知覚を形成しているとする見方が有力になっている。このような枠組みは「予測処理(=Predictive processing)」と呼ばれており、知覚や認知の理解を根本から再構成する理論として注目されている。
本稿で第4章において提示する「誤作動」という概念や、第3部で展開する「提言」は、いずれもこのような予測に基づく認知観と深く関係しているので、この点はあらためて詳しく述べることにする。
2012年12月に公開されたミュージカル映画「レ・ミゼラブル」のラストシーンでは、ヒュー・ジャックマン演じる主人公ジャン・バルジャンが息を引き取る時に、すでに亡くなっているファンティーヌ(の魂?)が現れ、バルジャンを天へと導く。この場面は多くの人に深い感動を与えた。
こうしたイメージは、死という出来事に意味や連続性を与え、残される者にとっても、また死に向かう本人にとっても、大きな心理的支えとなってきたと考えられる。
その一方で、2.9で見たように、ヒトの意識は、志向姿勢によって他者の心を推測する働きと同様の仕組みによって「自分は何を考えているのか」を把握する過程の中で生まれ、さらに前節2.11で見たように、注意スキーマによって形成される脳内の表象であると捉えることができる。したがって、脳の活動が停止したときに、現在私たちが経験しているような「意識」がそのまま存続すると考える根拠は見つかっていない(と私は捉えている)。
この観点から見ると、「死後の世界」という発想は、死への不安に対処するために生まれたものとも考えられる。
第2章では、進化や認知の理論の基礎的な内容のなかから、本稿のこれから先の理論展開に必要なものを駆け足で眺めてきた。
この第3章では、実際にヒトがどのように進化してきたのか、言い換えれば、ヒトとその心を形づくってきた淘汰圧がどのようなものだったかを見ていきたい。それらの淘汰圧によって、ヒトの認知の特徴的な構造が形成されていったのである。
霊長類(霊長目)は、およそ6500〜7000万年前に登場した分類群で、大きく曲鼻猿類と直鼻猿類に分けられる。曲鼻猿類はアジア・アフリカ産のガラゴとロリスの仲間、マダガスカルに住むキツネザルとアイアイの仲間であり、直鼻猿類はメガネザル、新世界ザル(アメリカ大陸に生息する広鼻猿類)、旧世界ザル(アジアやアフリカに住む狭鼻猿類)、ヒトを含む類人猿の仲間である(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 102)。
ヒトを除くほとんどの霊長類は、熱帯から亜熱帯の森林に生息し、基本的に樹上生活をしている。唯一、ヒトのみが樹上生活をせずに二足歩行する霊長類である。
霊長類は、他の哺乳類よりも相対的に大きな脳を持っている。脳は他の臓器よりも圧倒的にたくさんのエネルギーを消費する燃費の悪い器官なので、霊長類が大きな脳を持つようになったのには、何か理由があるはずである。
最も有力な理由は、多くの霊長類(特に直鼻猿類)が昼行性で集団(単に群れているだけでなく社会性のある集団)を作って暮らしていることである。集団の内部では、競争や利害の不一致などが生じ、個体を取り巻く社会環境が非常に複雑になる。他者の行動、他者同士の関係、それと自分との関係などを把握し、自分にとって有利な行動は何かと考える社会的知能が必要になる。このような集団生活が霊長類の脳を発達させたというのが社会脳仮説である(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 105)。
ロビン・ダンバーは、脳のなかで大脳新皮質が占める比率に着目している。脳に占める大脳新皮質の比率を霊長類のさまざまな生活の変数と比較したところ、唯一相関関係があったのは社会集団の規模で、これが社会的複雑さの指標になっているというのである(Dunbar, 2016, p. 58)。
さて、このように大きな脳を持つ霊長類のなかで、ヒトと近縁関係にあるのは、直鼻猿類の類人猿である。現世の類人猿は小型類人猿と大型類人猿に分類される。小型類人猿はテナガザル科の猿で、大型類人猿はチンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オラウータン、そしてヒトである。
大型類人猿は「ヒトのゆりかご」とも呼ばれている。大型類人猿の共通祖先からヒトが枝分かれして進化してきたのであり、一神教の神がヒトを特別な存在として創造したのではない。
霊長類の進化の歴史6500〜7000万年のなかで、チンパンジーとヒトが共通祖先から分岐したのは700万年ほど前(*)と、つい最近のことである。
さらに、最近の研究では、チンパンジーとヒトのDNAの塩基配列は98.8%同一であることが分かってきた。
(*)この年代については研究者によってかなり幅があるが、1.1で紹介した『進化と人間行動 第2版』では、最近の分子時計を用いた推定からおよそ600〜700万年前としているので、これを参考に、本稿では約700万年前とする。
3.1で見たようにおよそ700万年前にヒトとチンパンジーは共通祖先から枝分かれして、別々の進化の道を歩き始めた。その後のヒトの進化を大きく分類すると以下のようになる(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 119)。
下記の【図表4】人類カレンダーは、ヒトとチンパンジーが枝分かれして以降の700万年を1年に換算したものである。この章を読み進むにあたって、時々、この【図表4】を参照してほしい。ヒトの進化史上の出来事の時間軸上の距離が分かるだろう。現生人類(ホモ・サピエンス)が登場したのは12月21日、農耕や牧畜が始まったのは大晦日のお昼ごろである。
初期猿人から新人に至る間に起きた特徴的な進化は、次の4つである。
犬歯は、初期猿人から猿人の段階で急速に退化した。この退化は、配偶者獲得をめぐる雄同士の身体的闘争が弱まったためと考えられる。
遺跡に残された足跡から初期猿人も二足歩行をしていたが、二足歩行が完成したのは草原での生活に適応した原人の時代だと考えられる。
アウストラロピテクス属に代表される猿人の時代に、主要な食物が果実からより咀嚼を要する若い茎、根茎、堅果(ナッツ)に変わったために臼歯が発達した。しかし、加熱調理をするようになった原人以降は、臼歯は縮小していった。
脳容量の拡大は、約200万年前の原人の時代に始まり、旧人の時代に加速した。一部の旧人(ネアンデルタール人など)は、現世人類(ホモ・サピエンス)よりも大きな脳を持っていた。ただし、ロビン・ダンバーが指摘しているように、脳全体に占める大脳新皮質の比率は、ホモ・サピエンスが最も大きい。大脳新皮質の比率は集団の大きさと相関している(Dunbar, 2016, p. 58)。
旧人が生きた時代は、氷河期と間氷期が繰り返す過酷な気候だったが、旧人たちはしぶとく生き延びて、アフリカ、アジアからヨーロッパにも分布を広げていた。そのようななか、時期については諸説があるが、ヨーロッパにネアンデルタール人が現れた。ネアンデルタール人は、がっしりした筋肉質の体で、脳容量は1300〜1500mlもあり、ホモ・サピエンスの1200〜1400mlよりも大きかった。
しかし、大きな脳を持つわりには、装飾や芸術などの文化的な痕跡はほとんど残しておらず、石器のバリエーションも少ない。『心の先史時代』を著した認知考古学者のスティーヴン・ミズンは、ネアンデルタール人の脳は、博物学的知能(分類し識別する知能)・技術的知能・社会的知能の三大能力が、統合されないまま、(まるでスイス・アーミー・ナイフのように)それぞれ独立に機能しており、認知的流動性が乏しかったのだろうと推論している(Mithen, 1998, p. 191)。認知的流動性とは、2.10で触れた視床−皮質系による情報の統合に相当する。
すでに2.9で見たように、ネアンデルタール人のメンタライジング能力の志向性は4次止まりで、それぞれの個体は宗教的な概念を持っていたが、それを集団で共有して宗教の形にすることはできなかったと考えられる。
一方、今から約20万年前に、解剖学的現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカに出現した。ホモ・サピエンスは旧人に比べて体は華奢だが、大脳新皮質(特に前頭葉)が発達し、メンタライジング能力をベースとした社会的認知能力が大幅に向上したので、大きな集団を作ることができた。
彼らは今から7万年前までにはアフリカを出て、またたく間に地球上の生息可能な地域全体へと広がっていった。彼らがヨーロッパに到達した時期と、ヨーロッパのネアンデルタール人が絶滅した時期はほぼ同時期である。ロビン・ダンパーは『人類進化の謎を解き明かす』のなかで、ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスに皆殺しにされたのかもしれないと述べている(Dunbar, 2016, p. 239)。
現に、発掘されたネアンデルタール人の骨には、暴力を受けた痕があるものもある。また、ホモ・サピエンスのDNAには、ネアンデルタール人由来のものが数%含まれているという。ダンバーは、この交配も力ずくで行われたのではないかと推測している(Dunbar, 2016, p. 241)。
進化の道のりがヒト=ホモ・サピエンスまで辿り着いたので、これから先は、他の類人猿を参考にしつつも、主にホモ・サピエンスの進化(特に心の働きの進化)を見ていく。
2.5で見たように、多くの哺乳類では雄の間の配偶者獲得によって雄の体格が大きくなり性格も攻撃的になるが、その目的はあくまでも配偶者を獲得するためである。またライオンなどの雄が他の雄の子を殺す「子殺し」も、雌を育児から解放することによって自身の子を増やすための戦略である。これらはすべて繁殖に有利になるように進化した行動である。
ところが、チンパンジーとヒトだけは、そういった直接的な目的もないのに、侵入襲撃を仕掛けて、他の集団の個体を殺してしまうことがある。リチャード・ランガムとデイル・ピーターソンは『男の凶暴性はどこからきたか』のなかで、それはメンタライジング能力の発達によってこの2つの種に芽生えた「自尊心(pride)」によるものだと説明している(Wrangham & Peterson, 1998, p. 255)。
壮年期のチンパンジーの雄の生活のほとんどは、群れの中の序列(=支配権)の問題に関わっている。雄たちは、トップの座を手に入れるためにはどうしたらいいか、そしてそれを維持するためにはどうしたらいいかについて大きなエネルギーと時間を費やしているのだという(Wrangham & Peterson, 1998, p. 255)。
チンパンジー以外の動物の雄も序列をめぐって争うが、それはあくまでも生殖のためである。ところがチンパンジーの場合は、高い地位につくこと自体が目的になっている。雄たちが隣接集団に侵入襲撃を仕掛けるのは、それによって自分の力を誇示したいからであり、その欲望に火をつけているのが自尊心である。ヒト(の指導者)が他国に侵略戦争を仕掛ける理由もほぼ同じだと考えられる。
どうして自尊心(pride)のような心の動きが芽生えたかについては諸説があるが、自分が他者からどれくらい受け入れられているか(あるいは拒絶されているか)を測る計測器(ソシオメーター)として進化したという見方が、いちばん説得力がある。つまり、自尊心の低下は他者との関係性悪化のサインであり、それは受容度のセンサーとして機能する。太古には、集団から排除されてしまうことは死を意味したので、それを防ぐためにこのような感情が進化したのだろう。
この点は、新谷優の『自尊心からの解放−幸福をかなえる心理学』が分かりやすく解説している(新谷, 2017, p. 13)。
同書は自尊心の負の側面についても分析しているので簡単に触れておく。自尊心は困難や失敗などによって脅威を受けやすくとても脆い。特に、自尊心を特定の領域(たとえば、外見、他者からの受容、競争で他者に勝つこと、学業能力、家族からのサポート、倫理的であること、神の愛など)に随伴させている度合いが高いほど、その領域における困難や失敗は大きな脅威になる(新谷, 2017, pp. 29–31)。
そして、自尊心に強く執着している場合、その脆さに起因して、次のような弊害が生まれるという(新谷, 2017, pp. 26–37)。
組織学者の太田肇は『「承認欲求」の呪縛』において、「承認欲求」がヒトのさまざまな欲求のなかで最強である理由と、その強い副作用について多くの例を挙げている(太田, 2019, pp. 42–54)。承認欲求も、その究極要因にまで遡れば、ソシオメーターとして進化した自尊心(pride)が出発点になっているのだろう。
ところで、とても興味深いことに、チンパンジーとほとんど同じ遺伝子を持つ近縁のボノボには、このような残虐性がない。これは、チンパンジーとは異なるボノボの生活環境によって、元々持っている残忍性が消されたためである(Wrangham & Peterson, 1998, pp. 272–290)。これは後の章で詳しく述べるが、環境によって遺伝子の表現型が大きく変わることを示す重要な事例である。
群れを作るサルや類人猿は、集団生活によるストレスを和らげ、互いに絆を深めるために毛繕いをする。毛繕いには次のような効果がある(Dunbar, 2016, p. 38)。
ただ、同時に毛繕いできる相手は1匹だけなので、サルや類人猿の集団は数十匹が限度で、それ以上の規模にはならない。
先史時代のヒトの場合は、火を囲んでの食事や団欒、歌の合唱や踊りなどによって絆を深めたと考えられる。歌には必ず言語が必要というわけではないので、言語によるコミュニケーションが発達する前から、ハミングによる合唱が行われていた可能性は高い。歌や踊りによって得られる共時性の感覚がオキシトシンの分泌を促す(Dunbar, 2016, pp. 195-201)。
音楽と踊りによって感情が高揚すると、トランス状態に入ることがある。トランス状態に入るために薬物を用いた痕跡も残っている。トランス状態においては、大量のエンドルフィンが分泌される。集団内で何かトラブルが生じて、結束が壊れかけても、みんながトランス状態に入ることによって、相互に支え合うネットワークが修復され、結束が再び強まったと考えられる(Dunbar, 2016, pp.258–262 )。
集団内の絆の形成には、「共感」という心の動きが深く関わっている。心理学者の亀田達也は著書『モラルの起源』のなかで、共感は単なる思いやりの感情だけでなく、身体模倣(相手が笑うと自分も笑ってしまう)や情動の伝染(相手が泣いていると自分も悲しくなる)などを含んだ重層的なシステムであると説明している。こういった共感は無意識的かつ自動的に起こるのが特徴で、「情動的共感」と呼ばれている。情動的共感が得られる範囲は、母子間、血縁者、友人、同じグループの仲間で、つまり内集団をその境界としていることが非常に重要である(亀田, 2017, p. 103)。
ただし、最近のアメリカの大統領選挙などの様子を見ていると、国をあげての熱狂ぶりはまさに情動的共感そのものである。内集団の範囲を境界としていた情動的共感が国レベルの広さにまで拡大しているのはなぜか?
その理由の一つは、マスコミ・インターネット・SNSなどの普及によって、内集団の範囲が拡張されていることと、もう一つは、候補者があたかも一神教の神のように民衆の結束を固める存在となっているからだろう。そして、これが国民の分断といった深刻な問題を生むことになるが、その点については後の章で述べることにする。
大脳新皮質が発達したヒトにおいては、情動的共感とは異なる種類の共感も働く。2.9で触れたように、ヒトには5次以上の志向性のメンタライジング能力があり、他者が自分と違う信念を持つ場合があることを理解し、異なる信念に基づく相手の行動を正しく予測しようとする。このような回路を経て得られるクールな共感を「認知的共感」という。
たとえば、医師など緊急時の対応を担うプロフェッショナルな人材は、自動的に湧き上がってくるホットな情動的共感だけでは、緊迫した状況にうまく対処できない。情動的共感をうまくコントロールしつつ、相手の状況や立場をクールに受け止める認知的共感が必要とされる(亀田, 2017, p. 105)。
亀田は、自動的でホットな共感は「共感性の働く範囲を『今、ここ、私たち(内集団)』に限定しがち」としたうえで、「150人程度の小さいグループにおいて進化時間で有効だったホットな共感性は、何百万人が暮らす大都市や70億人を超える未知の人々が相互依存する現代社会の問題群、すなわち『未来、あちら、彼ら(外集団)』を含む問題群に対処するためには不十分」と言っている(亀田, 2017, p. 112)。
「未来、あちら、彼ら(外集団)」のことを考えるクールな認知的共感こそが、多様性を認め合う「自由で機能する社会」の実現にとって決定的に重要である。
2.4で触れたように、自分と同じ遺伝子をたくさん持っている血縁者が生存と繁殖に成功すれば同じ遺伝子が次世代に受け継がれるので、血縁者間には利他行動や協力行動が生まれる(例:働き蜂は自ら繁殖しないが、同じ遺伝子を持つ女王蜂の繁殖のために献身的に働く)。
非血縁者間であっても、他者のために行なった利他行動に対して、後日に相手がお返しをしてくれれば、互いの適応度が上がるので、このような利他行動は進化する(直接互恵性)(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 193)。
直接互恵性が二者間のやり取りであるのに対して、与え手と受け手が異なる場合においても、利他行動をした結果得られるよい評判が広まると他者の協力が得られやすくなり、集団内で生きるための適応度が高まるので、このような利他行動も進化する(間接互恵性)(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 208)。
ヒトは、今その場にいない誰かの噂や評判を話題にするゴシップが大好きであるが、ゴシップはサルや類人猿の毛繕いと同じような役割を果たしている。間接互恵性が成り立つためには言語能力やメンタライジング能力が必要なので、ヒト以外の動物ではほとんど観察されず、間接互恵性はヒトの道徳感情の起源の一つだと考えられている。
また、古典派経済学は「ヒトはもっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する」という「経済人(ホモ・エコノミクス)」の人間像を前提に理論を展開してきたが、実際に実験室にヒトを集めて「最後通牒ゲーム」と呼ばれる実験を行うと、経済的合理性とは合致しない、つまり損をしても公平性を重視する行動が多数観察され、「経済人」の人間像はヒトの本質を正しく言い表してはいないことが分かる。
3.7で触れた直接互恵性には、次のような成立条件がある。
最後のフリーライダー排除の仕組みは非常に重要である。フリーライダーは一番得をすることになるので、集団のなかにフリーライダーがいる状況で自然淘汰が働くと、フリーライダー的行動をコードする遺伝子が集団内に広まり、この集団から直接互恵性がなくなってしまう(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 198)。
これを防ぐために、ヒトの心は集団内にフリーライダーがいないかを常に監視するように進化してきた。ヒトがゴシップ好きなのもこのためである。逆にヒトは、集団内で自分がどう思われているかを、言い換えれば他人の目をとても気にするようになった。
これらの傾向は、狭い閉じた集団においてはいじめを生みやすい。社会学者の内藤朝雄は著書『いじめの構造−なぜ人が怪物になるのか』のなかで、いじめを生み出す心理−社会的秩序として「群生秩序」という概念を挙げている。彼によれば、群生秩序とは「『いま・ここ』のノリを『みんな』で共に生きるかたちが、そのまま畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠点となるタイプの秩序」である(内藤, 2020, p. 28)。この群生秩序も、フリーラーダーを監視するように進化してきたヒトの心から派生したものだろう。
過去の歴史を見ても、あるいは現代人の行動パターンを見ても、ヒトは年長者や有力者の言うことに従順に従う傾向があるように思われる。為政者がどんなに非常識で非倫理的なことを実施しようとしても、大多数の国民はそれに盲目的に従う場合が多い(言論の自由が厳しく制限されていて異論を言えない場合もたしかにあるが……)。
ヒトはなぜこんなにも年長者や有力者の言うことに従順なのか? リチャード・ドーキンスは、『神は妄想である−宗教との決別』のなかで、重要な指摘をしている。
「人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の蓄積された経験によって生き延びる強い傾向を持っている。その経験は、子供たちの保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。『大人の言うことは、疑問を持つことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え、特に厳粛で威圧的な口調で言う時には』という経験則を持っている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。」(Dawkins, 2007, p. 257)
昨日までの常識が一夜のうちに非常識に変わってしまうほど変化が激しくなったのはごく最近のことで、何千年・何万年単位で緩やかに変化が進行した先史時代には、親の時代の常識はそのまま子の時代の常識でもあったはずだ。このような時代には、経験豊富な者が言うことに従順に従っていれば、生き延びられる可能性が高かったはずである。自然淘汰の圧力は、そのような脳をコードする遺伝子を選ぶことになる。
ドーキンスは、『裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法を持たないことになる。』とも言っている(Dawkins, 2007, p. 260)。
彼は、宗教がかつては有益だったが、今やそれが不幸な副産物になってしまっていることの説明として、このように述べているのだが、これは宗教に限らず、権力を持つ者が行うすべての活動に当てはまる。
私たちが権力者の言うことをすぐに信じやすいのは、先史時代にはその方が生き延びる確率が高かったことの名残なのである。
3.9で述べた信じやすい傾向に加えて、既成概念を鵜呑みにしがちな傾向が、ヒトにはたしかにある。この傾向も進化の結果らしい。
認知心理学者のダニエル・カーネマンは『ファスト&スロー』のなかで、私たちの思考には大きく二つの過程があると説明している。「システム1」は、素早く自動的に働く直感的な思考であり、「システム2」は、注意や努力を必要とする意識的な思考である(Kahneman, 2012, Chap. 1)。
そして、われわれはできるだけ「システム1」の過程を使う傾向があり、脳が高価な認知資源を使うのを節約しているらしい。
脳はたくさんのエネルギーを消費する燃費の悪い臓器なので、できるだけ脳に大きな負荷をかけたくないという進化上のニーズが働いたのだろうと考えられる。もう一つ考えられるのは、集中力を要する複雑な作業中に別のことに注意を向ける(現代的な例では、自動車の運転中に難しい計算をする)のは危険であり、危険回避のために使用する認知資源を制限する必要があったという理由である。
いずれにしても、「システム1」の思考過程は素早く答えを出せる反面、その答えは不十分な情報に基づくものであったり、過去に形成されたステレオタイプ的なものであったり、冷静な判断を欠くものであったりして、正確さが保証されない。
ヒトが、すでに確立され権威づけされている理論や思想に対しては、あまり異を唱えず鵜呑みにしてしまう傾向があるのは、脳の認知資源節約のために「システム1」の思考過程だけで済ませてしまっているからだと思われる。
加えて、認知心理学者のスタノヴィッチは、「システム1」の思考過程が、政治的・商業的な意図を持った操作者たちに利用されやすいと指摘している。こういった操作に踊らせられないためには、いったん立ち止まって、「システム2」の思考過程を発動させる必要がある。
なお、最後に付け加えると、3.5と3.6では「共感」という切り口で述べたが、使用する脳の資源という切り口からは、「ホットな情動的共感」は「システム1」、「クールな認知的共感」は「システム2」に対応していると考えられる。
3.9と3.10ではヒトが何かを信じやすい理由を述べたが、その一方でヒトは、誰かの言うことを盲目的に信じるだけでなく、自身の心の中にしっかりと道徳的な基準を持っているのも事実である。
「トロッコ問題」という思考実験がある。倫理・道徳的に深刻な葛藤が生じる設問にどう判断を下すかというもので、もともとは1967年にイギリスの哲学者フィリッパ・フットが提起し、その後に設定を変えたさまざまなバージョンが考え出された。
最も基本的な設問は以下の通りである。
線路を走っていたトロッコが制御不能になった。このままでは、前方の作業員5人が轢き殺されてしまう。この時、たまたまAは線路の分岐器のすぐ側にいた。Aがトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもBが1人で作業しており、5人の代わりにBがトロッコに轢かれて確実に死ぬ。Aはトロッコを別路線に引き込むべきか?
Aがトロッコを別路線に引き込み、1人を犠牲にして5人を助けた場合、自身は殺人者となり責任を問われる。一方、Aが何もせず、その結果5人が死んでしまった場合には、Aは傍観者なので責任を問われない。
生物学者マーク・ハウザーは、判断がよりいっそう難しくなるように設問を複雑化したうえで、大規模に実験を行った結果を統計学的に取りまとめている(Hauser, 2006, pp. 111–138)。
その結果、倫理的・道徳的な葛藤が生じて非常に判断が難しい設問にもかかわらず、以下の傾向が見られたという。
どうしてそういう回答をしたのか理由がよくわからないと述べた被験者が多く、回答の傾向は、どの宗教を信仰しているか、あるいは信仰の有無とは無関係だったという。
リチャード・ドーキンスは著書『神は妄想である』のなかで、ハウザーが得た結果が非常に重要であるとして、次のように述べている(Dawkins, 2007, p. 325)。
性本能や高所恐怖症と同じように、<中略>私たちが『つくりつけ』の道徳感覚を脳にもっているとすれば、まさに予想される通りのものである。
さらに、こうも言っている。
私たちの道徳的判断を動かしているのは、普遍的な道徳文法、すなわち、何百万年もの進化の結果、多様な道徳体験を構築するための一連の原理をもつに至った精神の能力である。
信仰心の厚いヒトは、「神がいなかったら、どうして善人でいられるのか?」と言うかもしれないが、ヒトの道徳感覚は一神教の神が作り出されるよりもはるか前から続いてきた長い進化の結果なのである。
【追記】まったくの余談ながら、マーク・ハウザーは、別の論文における不正が発覚して、2011年にハーバード大学を辞職している。道徳に関する研究で重要な成果を残した彼がこのようなことになったのは、とても皮肉なことである。
男女不平等は、いつ頃に、どのように始まったのだろうか?
男女不平等が生じた背景の一つと考えられるのは、生物全般に広く見られる「配偶者防衛」の本能である。配偶者防衛とは、雄が自分の子どもを確実に残すため、配偶相手の雌に付き添って他の雄と近づかせないようにする行動を指す。ヒトの場合もこの本能が、男性が女性の行動をコントロールし従属させようとする行動につながったと考えられる。
もう一つの重要な背景に体格差がある。これはすでに2.5で見てきたように、多くの哺乳類に共通してみられる特徴で、雄の間で繰り広げられる配偶者獲得の闘いに勝つために雄の体格は大きくなったのである。ヒトも他の哺乳類と同様に、配偶者獲得競争に勝つために男性の体格は女性よりも大きくなったが、狩猟採集社会においては、それによって役割が完全に分かれることはなく、女性も狩りに参加していたし、男性も採集に参加していたようだ。また、初期猿人→猿人→原人と進化するにつれて、犬歯が退化し、体格差も縮小しているので、配偶者獲得競争の激しさが和らいてきたと考えられている。
このような狩猟採集生活が何百万年も続いた後、約1万年前に農耕と牧畜が始まった。これはヒトの歴史全体からみると、ごく最近のことである(【図表4】 人類カレンダー参照)。農耕や牧畜には土地・家畜・農機器具といった資源が必要であり、それらが次の世代に相続されることも重要である。また、農耕や牧畜の作業は狩猟採集に比べてかなり重労働だった。それをきっかけに、体格と体力に勝る男性が、土地や家畜や農器具などの資源を独占するようになったことが男女不平等の起源と考えられている(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 268)。
農耕と牧畜が始まった約1万年前に、もっと平等な道を選べなかったのだろうかと思うが、歴史を遡ることはできない。でも、ヒトの長い歴史からするとごく最近のことなので、これから軌道修正しても遅くはない。
なお、このように始まった男女の不平等がさらに男性優位の社会(家父長制)へと発展していく過程は、次の第4章で考える。
2.9で触れたように、4次の志向性のメンタライジング能力があれば、個人的な信仰の心は生まれ得るが、まだ、それを集団で共有することはできない。おそらく、ネアンデルタール人も神秘的な風景や不可思議な自然現象などに対する畏怖の念を持っていたと考えられるが、集団としての宗教は、それらが集団で共有可能な5次の志向性をもったホモ・サピエンスからである。前にも紹介したように、5次の志向性を言葉で言い表すと次のようになる。「神が存在し、私たちを罰する意図があることを、あなたと私は知っているとあなたは考えていると私は思う」(Dunbar, 2023, p. 141)<太字(本稿著者による)は思考・想像・信念などを表す語句>
神を信じる心の動きが進化してきた理由については諸説あるが、生存や繁殖に有利な働きをした可能性が指摘されている。考えられる理由を列挙すると、
1.と2.の理由が起源となっている宗教は、すべてのものの中に霊魂や霊が宿っているとするアニミズムである。アニミズムは、次に述べるシャーマニズムよりも早い時期から始まった最古の宗教形態だと考えられている。
3.と4.の理由は、集団を形成して狩猟採集生活をするためには非常に重要である。3.5で触れたように、集団の中で生活するストレスを緩和し絆を深めるために、ヒトは一緒に歌ったり踊ったりした。その高揚感が極度に高まってトランス状態に入ると、大量のエンドルフィンが分泌され、これによって共同体の結束が強まる。
トランス状態への入りやすさには個人差があるから、このようなイベントにおいて特定の人物が重要な役割を果たすようになり、固定化したのだろう。それがシャーマン、そしてシャーマニズムの起源だと考えられる。
アニミズムも、シャーマニズムも、その他の原始宗教も、当初はこのように自然発生的だったが、ある時点から形式的な宗教へと移行していった。信仰の場が常設となり、祭司などの専門職が現れ、神学が体系化されるようになる。そして、神から直接啓示を受けたと主張する人物が登場することになるが、その点は後の章で述べることにする。
言語による高度なコミュニケーションや累積的文化を持たない他の動物が、その行動を世代を越えて大きく変化させるには、主として遺伝子の突然変異+自然淘汰+遺伝という時間のかかるプロセスが必要である。彼らに許された選択は自然選択が中心で、自由意志によって選択を行うことは少ない。
ところがヒトは、言語と文字を発明し、文化を生み出した。ヒトは直接に経験していない事柄もコミュニケーションによって共有し、それによって行動を変えることができるようになった。事前にシミュレーションを行うことも可能になった。ヒトの遺伝子は狩猟採集生活をしていた時代からほとんど変わっていないにもかかわらず、ヒトの生活様式は想像を絶するほど変化し、その変化はさらに加速しようとしている。
リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』のなかで、遺伝子の突然変異+自然選択+遺伝というプロセスを経由しない文化的な進化の担い手として、彼自身が「ミーム」と名付けた新しい自己複製子を提示している(Dawkins, 1991, p. 306)。もはやヒトの進化の担い手は、古い自己複製子である遺伝子から、新しい自己複製子ミームへと移り変わっているというのがドーキンスの主張である(Dawkins, 1991, p. 309)。
しかし本稿においては、次の第4章で述べる「自由」の概念とコミュニケーション能力が組み合わさることによって、ミームという新たな自己複製子を想定しなくても、文化的な変化(あえて進化とは呼ばない)を説明できるという立場を取りたい。
さらに、ヒトの認知の傾向や行動のパターン(=心理的形質)のうち、どこまでが進化によって形成されたもので、どこからが文化や環境によって形成されたものなのかを、はっきりと区別することは難しい。ほとんどは、両者の影響が複雑に混じり合ったものだろう。これからの章において、ヒトの認知の傾向や行動パターンをそのようなものとして考えていく。
イギリスの進化心理学者・人類学者のアレックス・メスーディも、『文化進化 ダーウィン進化論は文化を説明できるか』において、(ミームのような概念を持ち出さなくても)既存の進化の理論の枠組みのなかで文化の進化を説明できると主張している(Mesoudi, 2011, pp. 48–59)
その説明に彼が使っているのは、カヴァリ=スフォルツァ、フェルドマン、ボイドが構築した進化プロセスの数理モデルであるが、個人的な感想としては、遺伝子を進化の基本単位としたまま文化を説明するには無理があり、いったん進化の理論から離れたほうが、より柔軟に文化の伝達や変化を説明できるような気がする。
この分野でもう一冊注目されている本として、ロナルド・イングルハートの『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』が挙げられる。イングルハートは、「世界価値観調査」を世界的に拡張するのに貢献した人物であり、同書にも世界価値観調査で得られたデータがふんだんに織り込まれている。したがって、同書の内容は、理論よりも、調査による実態把握に重点が置かれている。同書には、本提言において重要な内容が含まれるので、第10章で再度取り上げることにする。
なお、誤解が生じないように付け加えると、文化の変化を「進化」として捉える試みにはいくつかの異なる系譜が存在する。すでに1.1で指摘したように、19世紀のエドワード・タイラーによる文化進化論は、アニミズムから多神教、一神教へといった単線的な発展段階を想定するものであり、現在ではその単純な進歩史観は支持されていない。一方で、この節で紹介したアレックス・メスーディの文化進化研究には、タイラーのような目的論的・単線的な発展段階の仮定は含まれていない。むしろそれは、文化の変化を変異・選択・継承といったプロセスとして記述する枠組みであり、そこには「より高度な段階へ向かう」といった価値判断は前提とされていない。同じくロナルド・イングルハートの価値観変動論も、社会経済条件に応じた価値体系の変化を統計的に記述するものであり、いずれも19世紀的な進歩史観とは区別されるべきものである。なお、本提言においては、誤解を避けるために、文化に関してはできるだけ「進化」という言葉は使わずに「変化」と表現することにしたい。
第3章では、ヒトが進化によってさまざまな心の動きを身につけてきたことと、そして最終的に、言語と文化を梃子に遺伝子の命令を乗り越えて自由意志で選択を行えるようになったことを見てきた。それはそれですばらしいことであるが、およそ1万年前から古代文明の黎明期にかけて、ヒトは、後世から見ると問題を生むことになる選択をしてしまったかもしれない。しかし、これらはほんとうに自由意志に基づく選択だったのか。第4章では、「誤作動」という概念に焦点を当ててをその答えを探ってみたい。
ヒトの祖先は何百万年もの間ずっと狩猟採集生活を続けてきたが、ある時期から集落を作って定住するようになった。どのようなきっかけで定住が始まったのだろうか。
トルコ南東部の都市シャンルウルファ(通称ウルファ)郊外の丘の上にあるギョベックリ・テペ遺跡から、巨大な神殿跡が見つかっている。丘全体の直径は300メートルほどで、神殿の囲い地は最大で直径30m、石柱の高さは5.5〜6mで重量は10〜15tに及ぶという。神殿が完成したのはおよそ1万2000年前と推定されており、今のところ、周辺から農耕や牧畜の痕跡が見つかっていないので、少なくとも農耕村落のような恒常的な定住生活ではなかったと考えられている。ということは、日常的には移動して狩猟採集をしながら、宗教的な儀式の時だけこの場所に集まったのではないだろうか。農耕が始まって余剰生産物が蓄えられるようになる前の時代に、これほど巨大な神殿が組織的に建造されたことは、従来の考古学の常識を覆すものである。このように、文字のない時代の出来事には謎の部分が多いが、今後ギョベックリ・テペ遺跡の発掘調査が進めば、もっといろいろなことが分かってくるかもしれない。
われわれが通常イメージしている先史時代の歴史は、農耕の開始とともに定住が始まり、役割分担をきっかけに社会が階層化して王や支配者階層が登場し、国家が誕生したという直線的な変化である。しかし実際に起こったのはもっと複雑かつ複線的な変化で、しかも長い年月をかけて徐々に進行したことが、最近の研究によって分かってきた。ジェームズ・スコットの『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』に沿って、その様子を見ていきたい。
スコットによれば、ヒトが定住し始めた理由は、その場所で比較的容易に食べ物や水が得られ、移動するよりも定住するメリットの方が大きい場所が存在したからである。たとえば、ティグリス川・ユーフラティス川の河口付近のメソポタミア南部の湿地帯では、季節によって魚が大量に獲れたり、野生の穀物が実ったり、渡り鳥が集まったりして、大きく移動しなくても狩猟採集ができたし、定期的な川の氾濫が土地に養分をもたらすので氾濫農法をするのにも向いていたし、水路を利用した交易も可能だった。このように、移動するよりもメリットが大きかったから、ヒトは定住し始めたのである。言い換えれば、定住は豊かな環境を利用するための一つの戦略だったのである(Scott, 2019, pp. 61-68)。さらに重要なことは、まるでフェーズが変わるように、狩猟採集から農耕や牧畜へと一気に変化したのではなく、両者は長い期間併存し、状況によってどちらかがが選択されていたと考えられる点である。
しかし、上記とは異なる説もある。進化心理学者のロビン・ダンバーは、人々が定住し始めたきっかけは外部からの襲撃に対する防御のためだったと主張している。(Dunbar, 2023, p. 198)。この時期の集落の周りには防御のための濠や塀があり、個々の住居にも防御の備えがあったという。防御目的で一カ所に定住するために農耕や牧畜が始まったというのが、ダンバーの主張である。
ただ、この2つの説はあながち相反するものではないように思える。湿地帯のなかでも、食物や水の確保に有利な場所と、そうでない場所があっただろう。集落間の争いは、少しでも有利な場所を確保するために起こったのかもしれない。
一方、日本列島の縄文時代に目を向けると、当時の人々は定住しながら狩猟採集を(一部クリやマメ類の栽培も)行っていたが、大規模な防御施設や組織的戦争の痕跡は確認されていない。おそらく当時の日本列島は食料や水が豊富で、有利な場所を巡って争う必要がなかったのだろう。このように、定住の形態は一律ではなく、気候や環境などによって多様な定住の形が存在したと考えられる。
もう一点、狩猟採集から農耕や牧畜への転換は「進歩」だと考えるヒトが多いが、必ずしもそうではないということを付け加えておきたい。主に狩猟採集生活をしていたヒトの骨と、主に農耕や牧畜をしていたヒトの骨を比べると、狩猟採集民のほうが栄養状態が良好な場合が多い。農耕や牧畜で得られる栄養には偏りがあるのだ(Scott, 2019, p. 24)。その一方で、農耕や牧畜には重労働が伴う。あくまでも想像であるが、人々は好んで農耕や牧畜を始めたのではなく、人口の急増や外部からの襲撃などの要因で、むしろそうせざるを得なかったのかもしれない。
また、ヒトや家畜が一カ所に密集して暮らすと、感染症が蔓延するリスクが高まる。当時の集落の遺跡を調べると、ある時期を境に、急に集落が衰退し、やがて放棄されている事例が見つかる。これらの事例の最も有力な理由に感染症の蔓延が挙げられている(Scott, 2019, p. 100)。
前節で定住が始まった理由を考えたが、その後に集落が拡大し、王が登場し、国家が形成されるまでには、さらに長い時間を要する。首長制や都市国家などを経て、数千年の年月をかけて広域国家が成立したのである。以下、古代メソポタミアに焦点を当てて、社会の変化を時系列に並べた(Scott, 2019, p. 20 【図1】を参考に作成)。なお、ナイル川流域や黄河流域でも、ほぼ同じような出来事があったと考えられる。
定住農耕社会の成立・首長制への準備段階
ポイント:まだ王や国家は存在しないが、後の階層化につながる条件が形成される
都市化・管理社会の成立
ポイント:単なる村落社会から、巨大な集団を管理する社会へ移行する時期。まだ「王」が中心ではなく、初期には神殿組織が管理機能を担っていた可能性が高い
都市国家形成への移行期
ポイント:首長的な指導者や管理者が存在する社会から、政治組織としての都市へ移行する段階
王権と都市国家の成立
ポイント:ここで初めて「王」が歴史上確認できるようになる(キシュ王エンメバラゲシは考古学的資料によって実在が確認される最古級の王)。ただし、まだ統一国家ではなく、複数の都市国家が並立している
広域国家・帝国の成立
ポイント:都市国家の王から、広い領域を支配する「帝国の王」へ変化する
前節でみたメソポタミアの歴史からは、集団を率いるリーダーが徐々に国家を管理・支配する王へと変化していく様子が読み取れる。それは大まかには、集団をまとめる役割を担う人物が現れる → その役割が固定化する → 権限や資源へのアクセスが世代を超えて継承されるようになる → 王権へ発展するといった変化である。ただし、「野心的な人が王になった」というよりも、「王という地位が確立すると、野心的な人がその地位を利用した」といったほうが現実に近い表現なのだろう。しかし、ひとたび王と国家が誕生すると、争いは大規模かつ組織的になる。現代的な意味での戦争システムは、階層社会・国家形成とともに拡大したといってよいだろう。
このような変化が起きるための重要な条件が「穀物生産」であると、ジェームズ・スコットの『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』は強調している。一般的に穀物は以下のような特徴を持っている(Scott, 2019, pp. 149-157 )。
結果として、穀物生産は国家がヒトと生産物を把握し、管理する仕組みと結びつきやすかったのである。スコットの主張のポイントは「管理可能性と支配」であり、国家は外敵から人々を守るためだけに生まれたのではなく、人々を管理し、徴税し、労働力を動員するための制度でもあったという点である。「国家=防衛組織」だけではなく、「国家=管理装置」という側面をスコットは強調している。
バックミンスター・フラーは、ヒトの生存を持続可能なものとするさまざまな概念(「宇宙船地球号」など)や、具体的なプロダクト(「フラードーム」「ダイマクション・マップ」など)を発明したデザイン・サイエンティストである。彼の著書『クリティカル・パス』は、ヒトの生き残りのための道筋を提案した一冊であるが、そこには次なような寓話が書かれている。少し長くなるが、そのまま引用する。
自分の民と群れの世話をしている羊飼いの王(※)がいる。そこに、ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男がやってきた。彼は羊飼いの王のところに乗りつけ、頭上から見おろして言う。「さて、羊飼いさんよ、あんたがあそこで飼っているのはとてもみごとなヒツジだからな。知っているかい、ここら荒野であんな立派なヒツジを飼うっていうのはかなり危険なんだぜ。この荒野は相当危ないんだ」。羊飼いは答える。「俺たちは何世代もこの荒野でやってきたが、困ったことなど一つも起きなかった」。
それ以来、夜ごと夜ごとヒツジがいなくなり始める。連日のように、ウマに乗った男がやってきては言う。「まことにお気の毒なことじゃないか。ここはかなり危険だって言ったろう、なあ、荒野じゃヒツジがいなくなっちまうんだ」。とうとう羊飼いはあまりに災難がつづくので、男に「保護」を受ける対価としてヒツジで支払い、その男が自分のものだと主張する土地で独占的に放牧させてもらうことに承諾する。
羊飼いが侵入している土地は自分の所有地だという男の主張にあえて疑問をさしはさむ者はいなかった。男は、自分がその場所の権力構造であることを示すために棍棒を持っていた。彼は羊飼いの背丈をはるかに越えて高く立ち、あっという間にウマで近づいて羊飼いの頭を棍棒でなぐることができた。このようにして、何千年も昔に、20世紀でいうゆすり屋の「保護」と縄張りの「所有権」とが始まったのである。小男たちはこのときはじめて、いかにして権力構造をつくり、その結果、いかにして他人の生産力に寄生して生活するかを学んだのだった。
その次に、ほかのウマに乗った連中との間で、誰が本当に「この土地を所有している」と主張できるかを決する大規模な戦いが始まった。……(Fuller, 1998, p. 135)
(※)原文は「king shepherd」。羊飼いの集団に「王(king)」がいることには違和感を感じるが、たぶん集団をまとめるリーダー的な地位を指しているのだろう。
この寓話は、先史時代の世界に王が誕生するきっかけを描いたもの、あるいは誕生した王が他国を侵略し支配する手口を描いたものとして読み取ることができないだろうか。寓話に登場する「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」は、自作自演で脅威を作り出すことによって、働かずに富を得る権力構造を手にしたのである。フリーライダー化する可能性を持った権力構造が出現したと言ってもいいだろう。
日本列島では、およそ1万6000年前から、ヒトが主に狩猟採集生活をしていた縄文時代が始まり、それが1万年以上にわたって続いた。
アフリカやヨーロッパなどにおける狩猟採集生活は、食べ物や水を求めて移動する生活が一般的だったが、当時の日本列島は食べ物や水が豊富で容易に手に入れることができたためか、ヒトは集落を作って定住していた。無数の出土品から、当時の定住の様子が詳細に分かる遺跡として、青森市の三内丸山遺跡が有名である。
その後、今から約3000年前(紀元前10世紀頃)から、稲作技術が大陸から伝わり始めて、稲作を中心とした弥生時代に徐々に移行していった。縄文時代から弥生時代に急激に移行したのではなく、両時代はかなり長い間併存したと考えられている。
私は、縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡(青森県)、下野谷遺跡(東京都)、炉畑遺跡(岐阜県)、そして弥生時代の遺跡である吉野ヶ里遺跡(佐賀県)、板付遺跡(福岡県)などを訪ねたが、その違いは一目瞭然である。
縄文時代の集落が豊かな森林に囲まれた広場に竪穴式住居が環状に並んでいるのに対し、弥生時代の集落は深い濠、高い塀、そして鋭い逆茂木(乱杭)に囲まれており、集落の中には見張りのための高見櫓がある。兵士が待機するための詰所や武器の倉庫もあり、弥生人にとって外部からの襲撃がどれほど日常的な脅威だったかを窺い知ることができる。
弥生時代の吉野ヶ里遺跡を見ると、もう一つ気づくことがある。壕と塀で守られた集落の中に、さらにもう一重の濠と塀で守られた区画があり、限られた者(巫女や有力者など)だけがその区画に立ち入ることができた点である。縄文時代の遺跡にはこのような区画は見当たらないので、弥生時代に入ると急速に社会の階層化が進んだと考えられる。
なお、吉野ヶ里遺跡よりも後の時代になる鳥取県の妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)と、島根県の西谷墳墓群を訪ねる計画を立てている。往訪後に、その様子をこのコラムに追加したい。
4.1、4.2、4.3と、定住の開始から広域国家の成立までの歴史を概観したが、これらの過程で起きた重要な出来事を以降の節で一つひとつ見ていきたい。まずは、一神教の成立である。
第3章で見てきたように、ヒトが現生人類(ホモ・サピエンス)に進化し、脳のメンタライジング・ネットワークが発達するにつれて、霊的存在を信仰する心の動きが小さな集団内で共有されて、初期の宗教(アニミズムやシャーマニズムなど)が生まれた。この間、ヒトはずっと小規模な集団で狩猟採集生活をしていたが、4.1の過程を経て大規模な集落で暮らすようになり、非血縁者がいる大きな集団で暮らすストレスを感じるようになった。これに対処するために、宗教の儀式が複雑化し、専門の聖職者も現れ、教義宗教が生まれた。
ただ、この頃はまだヒトは多くの神々を信仰しており、擬人的に表現するならば、神々の側もヒトの行動に細かく干渉して道徳を説くようなことはなかった。たとえば、ギリシア・ローマの多神教に見られるように、神々は人間的な性格を持ちながらも、人々の行動を一元的に規範づける存在ではなかった。
ロビン・ダンバーは一神教の「高みから道徳を説く神」の成立について、今から3000年ほど前(枢軸時代と呼ばれている紀元前千年紀)に、社会と政治がより一層複雑化し、都市の人口が100万人規模に増大するなかで、民衆の心を一つにして社会を安定させるために、あるいは外敵に勝つために、「高みから道徳を説く神」の信仰が形成されていったと説明している(Dunbar, 2023, p. 217)。
当時の社会は、もはや一人ひとりを直接監視できないほど大規模になっていたので、その代わりに、神による監視という観念が、人々に道徳的行動を促す仕組みとして機能するようになったのではないだろうか。
一方、国民(=信者)の側は、志向姿勢の影響を受けて、神をヒトの内面の意図までも知る存在として想像しやすい。この両面から、「高みから道徳を説く神=心を読む神」は人々の行動を道徳的に方向づける強い心理的効果を持っていたと考えられる。
ユダヤ教の聖典であるヘブライ語聖書(タナハ)の成立過程に焦点を当てて、「高みから道徳を説く神」がいつ頃どのように登場したのかを見ていきたい。以下は、現在の聖書学における有力な仮説の一つである。
古代イスラエル宗教史の研究においては、モーセが書いたと伝わる聖書の冒頭の5つ文書(いわゆる「モーセ五書」)を、「J(ヤハウィスト)資料」「E(エロヒスト)資料」「D(申命記)資料」「P(祭司)資料」に分類するのが一般的である。そして、アメリカの聖書学者リチャード・エリオット・フリードマンは、記述内容の詳細な分析に基づいて、著者はモーセではなく、次のような人物だと推測している。
まず「J資料」は、今からおよそ2800年前の紀元前848〜同722年の間に、ユダ王国の宮廷に関係の深い知識人(おそらく女性)が、民族的な伝承を物語の形にまとめたものだったのではないか(Friedman, 1987, p.110)。その根拠は、物語の細部がこの当時のユダの街や領地とよく付合すること、総じて女性に対する関心が高く心遣いも細やかなことなどである。
同様に「E資料」は、紀元前922〜同722年の間に、イスラエル王国の祭司(シロ出身のレビ人の男性)が書いたのではないか(Friedman, 1987, p.110)。その根拠は、こちらも物語の細部が当時のイスラエル王国の状況とよく符合することと、モーセの偉大さに焦点を当てていること(シロ出身のレビ人は自分たちをモーセの子孫だと自認していた)などである。
念の為に付け加えると、今から約2950年前の紀元前922年にソロモン王が亡くなった後、統一イスラエル王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂している。
ここで重要な点は、どちらの作者も、現在のような聖典の一部としてではなく、それぞれの共同体の伝承や信仰を反映する形で物語にまとめたと考えられることである。したがって作者たちは、自らの作品が後の時代にこのような大きな影響力を持つことになるとは、必ずしも考えていなかったのだろう。
一方、「申命記」を中心とする「D資料」は、他の文書とは語法が著しく異なる。フリードマンは、「D資料」が今から2600年ほど前(紀元前7世紀)のユダ王ヨシヤの宗教改革と深く関係していると指摘している(Friedman, 1987, P.173)。アッシリアの衰退、バビロニアの台頭、エジプトの影響力増大など変化の激しい近隣情勢を受けて、この宗教改革では、ヤハウェ信仰が国家宗教として強化され、宗教と政治の結びつきが強められたとされている。フリードマンは、この「D資料」を書いたのは預言者エレミアで、紀元前586年にユダ王国が滅亡する前に書かれた「Dtr1」と、滅亡後に書かれた「Dtr2」の2つの版があったと推測している。
ダンバーの言う「高みから道徳を説く神」の成立は、まさにこの「D資料」の時代の出来事だと捉えることができるだろう。そしてこの時期以降、ユダヤ教は拝一神教から唯一神教へと徐々に変化していき、バビロン捕囚や大国による支配、ディアスポラ(離散)といった民族的苦難のなかで、神の絶対性と排他性がいっそう強化されていったと考えられている。(*)。
そして、現実の不正や苦しみが最終的に正されるとする終末思想(終末における救済の観念)も、このような歴史的苦難の経験のなかで形成されていったと考えられている。
一神教は王権の正当化や社会統合のために利用された側面を持つが、それだけではなく、民族的苦難の経験のなかで世界の出来事に意味を見出そうとするヒトの心理とも結びつきながら形成されていったと考えられる。
(*)一神教の神の絶対性には次のような段階がある。
なお、フリードマンの『旧約聖書を推理する:本当は誰が書いた』を基に作成したヘブライ語聖書の成立過程を以下に載せる。D資料の行がまさに転換点だと捉えられる。
第3章でみてきたように、男性の配偶者防衛の本能がベースとして存在している。それに加えて、農耕や牧畜が始まると、それ以前の狩猟採集生活とは異なり、土地・家畜・農具などの生産手段が重要な資産となった。農耕や牧畜には重労働が伴うため、体格と体力に優る男性が生産活動の中心を担う場面が増え、生産手段を管理・所有する傾向が強まった。これが父系社会の形成を促す一つの要因になったと考えられる。
これに加えて、社会における役割分担が進むと、それによって配分に差ができ、格差が生じ、社会が階層化し始めた。これが家父長制や一夫多妻制と結びつくと、運よく高い地位につくことができた男性は多くの配偶者を得て、次世代に多くの遺伝子を残せるようになった(長谷川, 長谷川, 大槻, 2000, p. 269)。
さらに、高い地位についた男性は自分と同じ遺伝子を持つ子供や血縁者にその特権を引き継ごうとするので、高い地位が代々世襲されるようになった。こうして特権階級(=貴族)が生まれた。
また、一神教の教義も主に男性の聖職者の視点で整備されたので、父系社会の傾向を後押しすることになった。
現代では男女平等が普遍的な価値観となってはいるが、それでも世界中の多くの国々や地域で、いまだに男性優位の価値観が根強く残っている。繰り返しになるが、このような価値観の出発点は、農耕・牧畜によって、土地・家畜・財産の継承が重要になり、父系的な制度が強まりやすい条件が生まれたことである。
国の行政機関、株式会社、各種団体など、現在のほとんどの組織は、代表者を頂点とするピラミッド型の構造をしている(ピラミッド型組織は、後の章で述べる「伽藍型組織」と同義である)。
このピラミッド型組織の起源の一つは軍隊である。4.3で見た過程を経て、ヒトは大規模で組織的な戦争を可能にする社会構造を形成していった。戦争に勝つためには、王や指揮官は多数のヒトを同じ目的に向けて動かす必要があった。その最も有効な仕組みが一元的な指揮命令系統を持つピラミッド型組織だった。
ピラミッド型組織に属するヒトは、さまざまな局面において「組織人格」として振る舞う必要があり、その瞬間には一個の人格を持った自分という存在を消し去る必要がある。別の言い方をすれば、組織人格の「ペルソナ(仮面)」を被る必要がある。
その後のヒトの歴史において、戦争目的ではない他のほとんどの組織に、ピラミッド型組織が流用された。その理由は、ピラミッド型組織の構造が直感的にわかりやすかったからではないだろうか。
アメリカの電話会社の経営者であり経営学者でもあったチェスター・バーナードは、組織には「機会主義的要因」と「道徳的要因」の二面性があると述べている(Barnard, 1968, p. 210)。このうち道徳的要因とは、「信念を作り出すことによって、協働的な個人的意思決定を鼓舞するような力」のことをいう(Barnard, 1968, p. 270)。私は学生の時にこの考え方に接して強い感銘を受けたが、今考えれば、道徳的要因はピラミッド型組織の非人間性に対する苦肉の弁明と言えるかもしれない。
現代社会の生きにくさの最も大きな原因は、ヒトが組織の中では組織人格というペルソナを被る必要があることではないだろうか。
「王はなぜ国を支配できたのか?」「国と国はなぜ戦争をするようになったのか?」、その理由を以下に箇条書きにする(概ね時系列になっている)。
農耕や牧畜の開始をきっかけにヒトが採用した社会の枠組み、つまり少数の為政者が社会全体を率いる枠組みにおいては、為政者の個人的な欲望のために、社会全体が争いに巻き込まれてしまう。メンタライジング能力によって芽生えた自尊心(pride)に駆り立てられた為政者は、自らの支配力を強化するために他国への侵略を加速させていったのである。
前節4.7では、王の支配と戦争に至る道のりを示したが、ここで一つ素朴な疑問が生じる。もしこれがヒトの意志による選択ならば、もっといろいろな選択のパターンがヒトの歴史として残っているはずだが、世界中のさまざまな地域の歴史は、概ね同じようなものばかりである。これをどう考えればいいのか?
これらは、個々のヒトが自由意志に基づいて選択した結果というよりも、進化や文化の伝承によって形成された認知的傾向によるものだと考えれば、世界中で同じような歴史が同時並行的に進行してきたことに合点がいく。
それを踏まえて、この節では、4.7で列挙した各現象の背後にある究極要因(なぜ起きるのか?<2.6を参照>)を抽出してみたい。
これらの事象に共通するのは、当初は適応的であった(つまり生存と繁殖に有利だった)ヒトの形質(この論点においては主に心理的形質)が、新しい環境とのズレによって別の結果を発現しているという点である。すなわちそれは、単なる失敗や欠陥ではなく、当初は意味を持っていた性質の延長として現れている「副産物」なのである。本稿では、このような現象を「誤作動(evolutionary mismatch)」と呼ぶことにする。
ドーキンスは、とても分かりやすい誤作動の例を示してくれている。蛾は自らロウソクの炎に飛び込むといった、まるで焼身自殺のような行動をすることがある。このような破滅的行動は、実は遥か遠方の月や星以外に人工的な光がなかった時代に進化した形質の誤作動である。蛾は、このような平行に届く光をコンパスとして利用し、光に対して何度の角度で飛ぶといった経験則を無条件に適応するために、螺旋状の飛跡を描きながら火に飛び込んでしまうのだ(Dawkins, 2007, p. 254)。
この例と同じように、ヒトが狩猟採集生活をしていた頃までに形成されてきた適応的な形質が、定住を機に急激に変化した生活環境に対しては適応的でなくなって誤作動を起こしたのが、前節 4.7で示した数々の事象が起きた真の理由である。
このタイミングで、以下の各番号の節を読み返してほしい。それぞれの誤作動の内容がよく理解できるだろう。
【誤作動Ⅰ】2.9および3.13で見たように、志向姿勢は、サバンナで猛獣と遭遇した時にとっさに対応できるという点で、狩猟採集生活時代のヒトにとって適応的だった。ところが志向姿勢の副次的な作用として、自然界のありとあらゆるものに意図があると擬人的に捉える傾向をヒトにもたらした。これが誤作動を起こした結果、人格を持った神への信仰が始まった。
リチャード・ドーキンスは、『神は妄想である––宗教との決別』のなかで、「宗教的な行動は、別の状況では有益な、あるいはかつては有益だった、私たちの心理の奥底にある性向の誤作動、不幸な副産物なのかもしれない」と述べている(Dawkins, 2007, p. 256)。なおドーキンスは、宗教の起源として、後述の【誤作動Ⅴ】も重要視している。
【誤作動Ⅱ】3.4で見たように、自尊心(pride)は、当初は、集団の中で自分が他者からどれくらい受け入れられているかを測る計測器(ソシオメーター)として進化したと考えられているが、この感情の誤作動が、高い地位、集団の支配、他国の侵略、そしていじめの原動力となっている。それだけではない。自尊心の誤作動は、他の誤作動を増幅させる強い影響力を持っている。
【誤作動Ⅲ】3.5で見たように、近親者が多い小集団内での生活が何万年も続いた時代に適応的だった情動的共感が、その後の複雑化した社会において誤作動し、特定の宗教、政治イデオロギー、所属する集団の規範などに対する熱狂的な支持と、それに反対する人たちへの激しい憎悪のエネルギー源となっている。
【誤作動Ⅳ】3.8で見たように、フリーライダーが存在すると集団内の利他行動が消滅してしまうので、ヒトは集団内にフリーライダーが存在しないか、常に目を光らせるように進化した。しかし、この形質の誤作動によって、ヒトは他人の行動をこと細かくチェックし、フリーライダーだけでなく、自分や集団内の多数派とは違う行動や考え方を排除するようになった(これはいじめの引き金にもなる)。それとは逆に、他人の目を常に気にして、他人とは違う行動を自粛するようにもなった。
【誤作動Ⅴ】3.9で見たように、ヒトが狩猟採集生活をしていた頃の環境の変化は、天変地異を別にすれば、数百年、あるいは数千年単位でゆっくりと進行した。少なくとも、直接言葉で伝承することができる2〜3世代の間は同じ環境がずっと続いたので、経験豊富な年長者や有力者が言うことにはそれなりの重みがあり、それに従っていれば生き残れる確率が高かったはずである。このように、当時は年長者や有力者に従順な傾向は適応的であったが、短期間のうちに状況が刻々と変化する環境や、為政者や有力者が何らかの意図を持っている環境においては、これが誤作動を起こす確率は極めて高い。ドーキンスは、集団での宗教の信仰はこの誤作動によって広まったと指摘している(Dawkins, 2007, p. 257)。
【誤作動Ⅵ】3.10で見たように、脳はたくさんのエネルギーを消費する燃費の悪い臓器なので、エネルギー補給が十分でなかった時代には、できるだけ脳に大きな負荷をかけたくないというニーズがあった。あるいは、最も緊急かつ重要なことだけに注意を集中してそれ以外のことは深く考えないようにするのは、生き残りのために有効である場合が多かった。そのため大脳新皮質のような高度な認知資源を使った「システム2」の思考過程を使うことを控えて、素早く自動的に働く直感的な「システム1」の思考過程が多用されたと考えられる。これに加えて、幅広い状況判断を要する狩猟採集生活から、注意を限られた対象に集中できる農耕・牧畜生活に移行したことに伴って、ヒトの思考が狭い範囲に限定される傾向が強まった。
【誤作動Ⅶ】3.12や4.5で見たように、ベースにある男性の配偶者防衛の本能に加えて、配偶者獲得競争に勝つために男性の体格が女性に比べて大きくなり、犬歯が鋭くなり、性格が攻撃的に進化した。ただし、ヒトが狩猟採集生活をしていた頃には、そのことによって役割が明確に分かれることはなかったようだ。しかし、狩猟採集よりも重労働の農耕と牧畜が始まると、これらの形質が誤作動を起こし、男性が生産に必要な資源を独占して、男性優位の父系社会が広まっていった。
【誤作動Ⅷ】4.3で見たリーダーから王への変質(余剰・所有・貨幣経済という環境下での富への執着)や、現代もなお続く極端な蓄財行動は、狩猟採集時代の生存圧(飢餓や欠乏)のもとで形成された資源を確保しようとする傾向が、農耕と牧畜の開始とともに成立した「所有」の概念と結びつくことで生じた誤作動である。さらに、【誤作動Ⅱ】の自尊心(pride)がこれを増幅させている。
【プラスα】(これは誤作動とは呼べないが、)すべての生物に共通する最も根源的な傾向は、生存し、自己を維持しようとすることであり、生存のために必要であれば、それ以外の自由の放棄には目をつむることが多い。太古には集団から排除されることは死を意味したので、集団への所属欲求もこの誤作動から派生していると考えられる。そして、為政者からの理不尽な命令にも従う最大の理由も生き残るためである。この本能は、他の社会的・認知的誤作動と相互作用することで、さまざまな形態をとることになる。
なお、各誤作動の記述には、進化に関するミクロの視点と、社会・経済・文化に関するマクロの視点が混じっているように感じるかもしれないが、第3部でそれをきちんと整理する予定である。
さて、ここで現在に目を転じて、今世界中で起きているさまざまな問題を、上記の誤作動という切り口で眺めると、なぜそんなことが起きているのか納得がいくのではないだろうか。ただし、誤解のないように言っておくと、本稿で扱うのは個々の思想の正誤ではなく、それらを生み出しているヒトの認知の仕組みである。
これらを、2.11で触れた内的モデル(internal model)と自己モデル(self-model)に関係づけて整理すると以下のようになる。ただし、各誤作動は厳密に内的モデルと自己モデルのいずれか一方にのみ属するものではなく、多くは両者が相互作用した結果として現れるので、以下はあくまでもどちらがが優位かによって便宜的に整理したものである。
外界志向モデル優位型(世界理解に関する誤作動)
自己モデル優位型(自己評価・不安・地位に関する誤作動)
ハイブリッド型(複合的な誤作動)
これらに関しては、第3部でもう一度振り返ることにする。
さて、ここでもう一度、1.4で紹介したウィルソンの言葉を振り返ろう。「われわれは、石器時代からの感情と、中世からの社会システムと、神のごときテクノロジーをもつ(Wilson, 2013, p. 2)。これらの大きなギャップによって、誤作動が増幅され、より深刻化しているのである。
しかし、そんな悲観することはない。ヒトは、言語によって文化を形成することで、遺伝子の変化を経由しない新しい進化の方法を手に入れた。ヒトには自由意志があり、自らの選択によって遺伝子の束縛を振り解くことが可能である(遺伝子決定論は間違いである)。
ドーキンスは『利己的な遺伝子』の第11章に「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」と書いている(Dawkins, 1991, p. 321)。ヒトがコミュニケーションによって作り出した文化は、自己複製子の誤作動を修正できる可能性を秘めているのだ。
これから第3部で提案しようとしている内容はまさにこの「自己複製子の専制支配に対する反逆」である。これらの誤作動の背後には、ヒトの認知がどのような原理で世界を構成しているのかという問題があるが、この点については第3部で詳しく検討する。
18世紀後半の哲学者イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書において、ヒトの認識が世界をそのまま写し取るものではなく、一定の枠組みによって構成されていること、そして理性には越えられない限界があることを明らかにした(石川, 2024, p.19)。
本稿もまた、ヒトの認知が現実をそのまま反映するものではないという点において、カントの問題設定と基本的な立場を共有している。しかしカントと本稿の違いは、その「認知の枠組み」をどのように捉えるかにある。
カントにおいてそれは、時間や空間、カテゴリーといった先験的かつ普遍的な構造であったのに対し、本稿ではそれを進化の過程で形成された適応的な仕組みとして捉えている。そして重要なのは、この適応的な仕組みが、環境の変化によって必ずしも良好に機能し続けるとは限らないという点である。
すなわち、カントが理性の限界を主として論理的・構造的な問題として提示したのに対し、本稿はそれを、生物としてのヒトが置かれた環境との不適合によって生じる「誤作動」として再解釈する。この視点に立つと、現代社会におけるさまざまな対立や混乱も、理性そのものの欠陥というよりは、進化的に形成された認知の仕組みが新しい環境に適応しきれていないことの結果として理解することが可能になる。
これらの対応関係を整理したものが、以下の【図表7】である。
このように本稿は、カントが提示した理性の限界という問題を、進化論的視点から再解釈し、現代社会における具体的な現象として捉え直す試みである。
4.8では、当初は適応的だった形質の誤作動8つとプラスαを列挙した。このうち、宗教の誕生には【誤作動Ⅰ】と【誤作動Ⅴ】の2つが関係していることを指摘した。これらは、ヒトの認知の特性から自然に生じたものと考えられる。
これに加えて、【図表5】ヘブライ語聖書の成立過程で示した多神教から一神教への発展の過程においても、複数の誤作動が重なり合いながら作用していたと考えることができる。ここでは、それを一つの仮説として整理する。
【誤作動Ⅱ】の関与
王としての権威の確立、統治の安定、領土の拡大といった動機には、自尊心に関わる【誤作動Ⅱ】が関与していると考えられる。
4.4で見た約2600年前(紀元前7世紀)のイスラエル・ユダ王国において、「申命記」を中心とする「D資料」が成立した背景にも、社会の統合や統治の安定を求める要請があったとされる。「高みから道徳を説く神」という観念は、そのような状況の中で、人々の行動を方向づける強力な枠組みとして機能したと考えられる。
また、国民にとっても、「自分たちは神に選ばれた民である」という認識は、集団としての自尊心を支える要素となったと考えられる。
なお、自尊心に関わるこの傾向は、他のさまざまな心理的傾向を強める働きを持つ点で、重要な役割を果たしている。
【誤作動Ⅲ】の関与
小規模な集団での生活に適応していた情動的共感は、同じ信仰を持つ人々のあいだに強い結束を生み出す。その一方で、異なる信仰や価値観に対して距離を取り、時に対立を生み出す方向に働くこともある。
【誤作動Ⅳ】の関与
小規模な集団では互いの行動は日常的に観察されており、規範から逸脱する行動は周囲の目によって抑制されていた。しかし社会が大規模化すると、このような直接的な監視は困難になる。終末思想における「最終的な審判」や「神による全知的な監視」は、この問題を補完する形で機能し、人々の行動を内面から規律づける効果を持っていたと考えられる。
【誤作動Ⅵ】の関与
ヒトは、日常的にすべてを熟考するのではなく、直感的・経験的な判断に依拠する傾向を持っている。この傾向によって、宗教的権威や伝統的な教えが、批判的検討を経ずに受け入れられやすい状況が生まれたと考えられる。
【プラスα】の関与
生存は生物にとって最も根源的な関心事である。そのため、安心や救済が約束される枠組みが提示された場合、ヒトはそれを受け入れやすい。来世や救済に関する教えは、このようなヒトの基本的傾向と結びつくことで、強い影響力を持ったと考えられる。
これらから分かるように、一神教は単一の要因によって成立したのではなく、ヒトの認知の特性と社会的条件のもとで、複数の傾向が重なり合いながら形成されていったものと考えられる。
ここで重要なのは、こうした現象が特定の宗教や時代に固有のものではなく、ヒトそのものに備わっている認知的傾向から生じているという点である。これらは宗教の価値そのものを否定するものではなく、ヒトの認知的特性がどのように宗教の形成や発展に関わってきたかを理解するための一つの視点である。
ここで、再び【図表4】人類カレンダーを見てほしい。これまで見てきたヒトの進化過程の時間軸上の距離感を掴んでもらえるだろう。ヒトが進化してきた約700万年の歴史を1年間に見立てると、誤作動が起き始めたのは大晦日のお昼頃からであり、まだ半日しか経っていない。
第1部では、進化の道のりを辿ることによって、ヒトの本性(=認知の傾向)を明らかにしてきた。加えて、序章で提示したいくつかの「なぜヒトは〜?」という諸問題が、ヒトが適応的に獲得してきた形質の誤作動によって生じていることを明らかにした。
この第2部では、歴史を振り返ることによって、これらの誤作動がヒトの社会にどんな影響を及ぼしてきたのかを具体的に見ていきたい。ただし、誤作動の影響を評価するためには、なんらかの基準が必要である。
第5章では、その基準になるものとして、自由とは何か、そして「自由で機能する社会」とは何かという基本的な定義を明確にする。なぜなら、ヒトにとって生きやすい社会を考えるうえで、最も根本的な指標となるのが自由だからである。
太古の生物が生き延びるためにとった回避行動を起源とする自由は、ヒトだけでなくすべての生物にとって最も基本的な能力(=本能)である。したがって、ヒトの社会においても、誰もが「自分は自由だ!」と感じられることが最も優先される目標である。
さらにその社会は、単なる理念として存在するのではなく、そのなかでヒトが自分の位置と役割を持って生きることができる動的な社会でなければならない。言い換えれば、「機能する社会」でなければならない。そうでなければ、自由は現実の行動としては実現されないからである。
そのうえで、第6章と第7章では、宗教・哲学・科学といった枠組みのなかで、自由がどのように歪められてきたのかを見ていく。そして第8章では、市民革命と呼ばれる運動が「自由で機能する社会」を実現できたのかを検証し、第9章では、現代社会において誤作動がさらに深刻化している様子を見ていく。
ヒトには自由意志があるのかないのか、古代から現代に至るまで、熱い論争が繰り広げられてきた。そのような状況を踏まえつつ、本章では自由とは何かを考える。そして、本提案のタイトルにもなっている「自由で機能する社会」とは何かを提示したい。
これまでの章では、暗黙のうちに、「ヒトは自由意志に基づいて選択をすることができる」という立場をとってきた。
しかし、自由意志が存在するか否かについて、古代ギリシャの時代から激しい論争が繰り広げられてきた歴史があるので、それらを無視して、何の根拠も示さないまま「自由意志は存在する」という立場を取るのはフェアではないと思う。自由意志についてはのちの章で再び取り上げることになるので、ここでは、なぜ自由意志は存在するという立場を取るのかという点だけを述べたい。その羅針盤として、木島泰三の『自由意志の向こう側』を参考にするが、念のために付け加えると、どうやら木島は、自由意志の存在に否定的な決定論を支持する派に属するようである(木島, 2020, p. 22)。
近代になって、ニュートンに始まる古典力学が大きな成果を挙げてからは、自然法則を根拠にした決定論が強く主張されるようになった。このような決定論からは、「この宇宙が誕生した時からすべての出来事が自然法則によって決定されているのだったら、ヒトの自由意志なんて存在しないじゃないか」という不穏な帰結が出てくる。因果論的決定論に従えば、あるヒトが朝出かける前に、たまたまその日の気分で派手な色の服を選んだお蔭で、自動車の運転手がそのヒトに気づいて、交通事故で死ぬのを免れたという選択肢も、宇宙が始まった時からすでに決定されていたことになる(木島, 2020, p. 8)。
決定論と自由意志をめぐる論争をごく大雑把にまとめると次の表のようになる。本当はもっと複雑に枝分かれしているようだが、今後の展開のために大胆に分類してみた。
木島は、「決定論者たちは何を貫こうとしてきたか?」という点についてこう述べている。彼らが貫こうとしているのは『「自然主義的人間観の肯定」ではないか。「自然主義的人間観」とは、自然科学を用いて解明された知見によって、世界と人間をすべて理解しようとする立場だ。つまり人間の意志なり自由なり主体性なりが、そのようなものをあらかじめ想定できない要因によって決まってしまう、という事実こそが、貫こうとしている立場の核心にある』(木島, 2020, p. 22)
逆に「リバタリアンたちは何を守ろうとしているか?」について木島は、ロバート・ケイン<上の表の自由意志肯定論(リバタリアン)に属する>を引用しながら、次のように述べている。『単なる非決定は、宇宙の出来事の経過に「枝分かれ」がありえて、そのどちらにでも進みうる、というだけのことだが、ケインは、これは自由が成り立つために必要な条件であるとしても、十分な条件ではないと考え(Kane 1996, p. 170–171)、自由意志をより積極的に「自分自身の目標または目的の創造者(ないし創始者)でありかつその維持者であることができるという、行為者の諸能力」と規定する(Kane, 1996, p. 4)』(木島, 2020, p. 22)
このケインの主張の十分条件の箇所こそが、まさに私が言いたいことである。ヒトが新しい目標や目的を創造できるからこそ、その具体的な道筋を本稿で提言しようとしているのである。
一方、決定論者たちが貫こうとしてきたもののなかで、「自然科学を用いて解明された知見によって、世界と人間をすべて理解しようとする立場」という箇所は、まるで「自然科学を用いて解明された知見」を絶対神のような存在に祀りあげているようで強い違和感を感じる。たしかに、自然科学が発見した数々の法則がヒトに大きな恩恵をもたらしたことは否定できないだが、自然科学の法則はあくまでも、自然をある特定の角度から眺めた時に見える一面的な、あるいは断片的な像でしかない。しかも、測定機器や数学の方程式などの道具を通して眺めた像(つまり道具に依存した像)である。
特に、量子力学的な物の見方が広がる前の古典力学の線形方程式は決定論的な結果しか出てこない枠組みなので、その結果を根拠に決定論を主張するのは、たとえば「もっぱら青色の波長の光だけに反応するセンサーで測定した結果をもとに、この世界には青色の光しか存在しない」と主張するようなものである。
上の表の分類の「両立論」の立場にいる哲学者のダニエル・C・デネットは、「ライフ世界」と呼ばれるコンピュータ上のモデルの物理レベルと上位レベルを区別することによって、決定論者が自由意志を否定する根拠にしている不可避性の概念が決定論と直結しないことを説明している。すなわち、決定論か非決定論かは物理レベルでの話であり、物理レベルでの動きを機能やパターンとして捉える上位レベルでは、そのどちらであっても可避性は存在し、したがって選択は可能で、自由意志は存在する(Dennett, 2005, p. 92)。
自分にとっては、この説明がいちばん腑に落ちる。
ダニエル・C・デネットは『自由は進化する』のなかで、自由(自由意志)とは進化によって発展した「自ら選択をする能力」だと言っている(Dennett, 2005, Chaps. 1–5, 9–10)。これほど的確に自由の本質を表現している言葉は他にない。どのレベルの自由なのか、あるいは何から自由なのかといったさまざまな視点があるにしても、この言葉はそれらをすべて包括する根本的な自由の定義である。
また、同書を翻訳した山形浩生は「自由とはシミュレーションのツールである」と解説している(Dennett, 2005, p. 437)。選択を行う前にシミュレーションが可能ならば、その結果に基づいてよりよい選択を行うことができるからだ。これは、ヒトがコミュニュケーションによって文化を変化させる際に極めて有効なツールとなる。
太古の生物が生命の脅かされるような状況からの回避行動をして以来、すなわち「回避の誕生」が起こって以来、生物は自由が増える方向に進化してきた。言い換えれば、自由意志は進化の理論のなかにきちんと位置づけられているのである。
さらに、3.14で見たように、脳(特に大脳新皮質)が発達したヒトは、言語を使い文化を形成することによって、遺伝子の突然変異や自然選択を経由しなくても行動変化を起こせるようになった。ヒトが言語を発明し、他者とコミュニケーションできるようになったことは、自由の進化史においてエポックメイキングな出来事である。これによって、自分が経験していないこともシミュレーションできるようになった。
自分と他者のシミュレーション結果を比較するためには、自分と他者を並べて考えるための自分という意識が必要であり、この意識の獲得によってシミュレーションはいっそう高度化した(つまり自由が増えた)。
すでに見てきたように、自分という意識を持てるのは、大脳新皮質が関与するメンタライジング能力(志向姿勢)のおかげである。ヒト(ホモ・サピエンス)の遺伝子は狩猟採取生活をしていた先史時代からほとんど変化していないにもかかわらず、言語、コミュニケーション、そして文化を獲得したことによって、ヒトの自由は加速度的に増大したのである。
ただし、自由を行使し選択したことの結果は、自らが負う責任がある。責任を支える道徳的な心の動きは、3.11で見てきたように自由と共に進化してきたのである。
1789年のフランス人権宣言の第4条にはこのように書かれていた。
自由とは他者を害しないすべてをなしうるということである。したがって、すべての人の自然的諸権利の行使は、同じ諸権利の享有を社会の他の構成員にも確保するということ以外には、限界をもたない。この限界は法によってのみ決定されうる。
ここでは、自由の限界は法によってのみ決定されうるとしており、法治主義の原則が述べられているが、これについてはちょっと違和感がある。当時の人たちも、このままではよくないと思ったのだろう。1793年には以下のように修正されており、こちらの方は違和感なく受け入れることができる。
自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利である。それは自然を原則とし、正義を規則とし、法を防壁とする。その倫理的な限界はこの格言にある通りである――己の欲せざる所は人に施すなかれ。
この条文は、自由の本質をきちんと表現していると言える。
次は、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルが1859年に出版した『自由論』に沿って、社会と個人の自由や幸福の関係を考える。
彼の父のジェームズ・ミルが功利主義の始祖ジェレミ・ベンサムの盟友だったことから、ジョン・スチュアート・ミル自身も功利主義の継承者に分類されることが多いが、彼の考え方はベンサム流の功利主義とはかなり違うことをまず指摘しておきたい。『自由論』をよく読むと、考え方のベクトルがまったく逆であることに気づく。
すなわち、ベンサムの功利主義が社会全体として幸福を最大限にしようとしている(ときには個人の自由を制限することもある)のに対して、ミルは一人ひとりの自由や個性(すなわち多様性)を尊重し、社会はできる限り個人に干渉しないことが望ましいとしている点が決定的に異なっている。
まずミルは、自由を次のように定義している。
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害しないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。人が良いと思う生き方を他の人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。(Mill, 2012, p. 36)
また、次のようにも言っている。
人間が不完全な存在である限り、さまざまな意見があることは有益である。同様に、さまざまな生活スタイルが試されることも有益である。他人の害にならない限り、さまざまの性格の人間が最大限に自己表現できるとよい。誰もが、さまざまな生活スタイルのうち、自分に合いそうなスタイルをじっさいに試してみて、その価値を確かめることができるとよい。(Mill, 2012, p. 138)
これらの言葉から分かるように、自由や幸福の追求は、多様性の容認と同義である。これは進化の理論において、淘汰圧がかかる単位はあくまでも個体であり、その一方で進化の単位は集団(集団における遺伝子頻度、つまり集団内で特定の遺伝子を持つ個体の割合が変化したかどうか)だという点と似ている。
またミルは、民主主義がある程度発達すると、「多数派の専制」に陥る危険があると、下のように指摘している。
支配者はもちろん、同じ市民の立場であっても、人間は自分の意見や好みを、行動のルールとして人におしつけたがるものだ。この性向は、人間の本性に付随する感情の最良の部分と、そして最悪の部分とによって、きわめて強く支えられているので、それを抑制するには権力を弱めるしかない。ところが、権力はいま弱まるどころか、逆に強まっている。(Mill, 2012, p. 39)
ミルは、社会が個人の自由に干渉できるのは、次の原理に従う場合だけであると言っている。
その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。(Mill, 2012, p. 29)
これらの主張はとても先進的で、現代においてもますますその重要性が高まっている。
自由の概念がはっきりしてきたので、いよいよ本稿のタイトルにもなっている「自由で機能する社会」について説明する。
これは、ピーター・ドラッカーの言葉である。ドラッカーは「マネジメントの父」、あるいは「マネジメントの発明者」と呼ばれ、経営学者として広く知られているが、それはドラッカーの多彩な活動の一部にすぎない。
ドラッカーの出発点は、第二次世界大戦前夜の1939年春に出版された『「経済人」の終わり』と、第二次世界大戦中の1942年に出版された『産業人の未来』の2冊である。この2冊のなかで彼は、「なぜ全体主義は台頭したのか?」、そして「産業を中心としたこれからの社会はどのよう姿になるのか?」という社会的なテーマについて深く考えている。ドラッカーの関心は常に「社会的存在としての人間」に向かっており、彼は自らのことを「社会生態学者」と呼んでいる。
この節では、「自由で機能する社会」という概念を理解するために、上記の2冊を通じてドラッカーが社会について考えたことを駆け足で振り返りたい。
ヒトラーが率いたナチスは、武力によって権力を奪い取ったのではない。ワイマール憲法の下で、民主的な手続きを経て、合法的に権力を手にしている。それが可能となった背景には、当時のヨーロッパの精神的秩序と社会的秩序の崩壊によって生じた一般大衆の絶望があったとドラッカーは分析している(Drucker, 1997, p. 28)。
これを理解するためには、もう少し歴史を遡る必要がある。18世紀半ばの産業革命を機に資本主義が発達した。資本主義の基盤となったのは、「ヒトはもっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する」という「経済人」の人間モデルである。このモデルは、近代経済学がさまざまな経済理論を構築するために必要な前提となった。
しかし、実際には、「経済人」を前提とした経済的自由は、ヒトに自由と平等をもたらすことなく、その代わりにブルジョワ階級という新しい階級を生み出した。また、資本主義に対抗して生まれた社会主義も失敗し、資本主義と社会主義の両方の基盤であった「経済人」の概念が合理性を失ったのである(Drucker, 1997, p. 56)。
このときに、「経済人」に代わる新しい概念が何一つ用意されていなかったと、ドラッカーは振り返っている。「一人ひとりの人間は秩序を奪われ、世界は合理を奪われた」。言い換えれば、ヒトは社会における「位置」と「役割」を失ったのである(Drucker, 1997, p. 57)。
そしてそこに、「魔物たち」が再来する。第一次大戦と大恐慌である。絶望した大衆は、世界に合理をもたらすことを約束してくれるのであれば、自由の放棄もやむを得ないと覚悟し、ナチスの全体主義を受け入れたのである(Drucker, 1997, p. 81)。
こういった体験を踏まえて、ドラッカーは2冊目の『産業人の未来』で、来るべき産業社会におけるヒトと社会のあり方についてこう言っている。
われわれは社会を定義することはできなくとも、その機能の面から社会を理解することはできる。社会というものは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、重要な社会権力が「正統性」をもちえなければ機能しない。(Drucker, 1998, p. 22)
私は、後半の権力の正統性については異議がある(後の章で詳しく述べる)が、社会が機能する条件としてのヒトの位置と役割の重要性には大いに賛同する。この提言のタイトルに採用した「自由で機能する社会」とは、各個人が位置と役割を持つ社会である。
また、ドラッカーは「自由は楽しいか?」という問いも発している。「自由は楽しいなどという考えは、ほとんど自由の放棄に等しい」と断定し、それに続けてこう述べているが、まさにその通りである。
自由とは責任を伴う選択である。権利というよりもむしろ義務である。自由とは、何かを行うか行わないかの選択、ある方法で行うか他の方法で行うかの選択、ある信条を信奉するか逆の信条を信奉するかの選択である。楽しいどころか、一人一人の人間にとって重い負担である。自ら意思決定を行うことであり、それらの意思決定に責任を負うことである。(Drucker, 1998, p. 125)
ただし、ここで一つ注意を要することがある。ドラッカー自身は敬虔なキリスト教徒であり、したがって、彼が考える自由は、5.2でデネットが定義した自由とは本質的に異なる。
そのことは、ドラッカーの初期の著作『もう一人のキルケゴール––人間の実存はいかにして可能か』を読むとよく分かる。
ドラッカーは、人間の実存(主体としての存在)」はいかにして可能かという問いに対して、次のように言っている。
キルケゴールは、もう一つの答えを出す。人間の実存は、絶望のなかではない実存、悲劇のなかではない実存として可能であるとする。それは、信仰における実存として可能である(Drucker, 2012, p. 311)。
つまり、ドラッカーが考える自由は、あくまでも信仰を前提とする自由(神から与えられた自由)である点には注意を要する。
第5章で見てきたような自由も、「自由で機能する社会」も、未だ実現できていない。それはどうしてなのか。
少し回り道になるが、第6章から第9章にかけて、ヒトが宗教的・哲学的・科学思想的に迷走してきた歴史を見ていく(時間がない読者は、歴史的内容が中心の第6章〜第8章は飛ばして、現代社会について述べている第9章に進んでも構わない)。
まずこの第6章では、宗教(特に一神教)がヒトの自由を制限し、社会のあり方を歪めてきた歴史を見る。
4.4で述べたように、枢軸時代(およそ3000年前)に、巨大な都市で暮らす民衆の心を一つにし、他国との戦争に勝つために、そして王が自らの権力の正統性を主張するために、「高みから道徳を説く一神教の神」が考え出された。一神教は内集団の結束を強める統合装置として機能する一方で、その副作用として外集団を排除する方向に働く。
ユダヤ教のヘブライ語聖書(キリスト教の旧約聖書、イスラム教の啓典)において、神は最初の預言者アブラハムとその子孫に「約束の地」を与えると約束するが、該当する場所にはすでに別の民が住んでいた。「出エジプト」の後、イスラエルの民は約束の地を目指し、やがて城壁で囲まれたエリコの街に辿り着くと、彼らは街を焼き尽くし、協力者ラハブとその一族を除き、エリコの住民を皆殺しにしてしまう。
このエリコの街の物語は、4.4で述べた「D資料(=申命記)」の思想に基づいた「ヨシュア記」に書かれている。つまり、イスラエルの歴史そのものが「神への忠誠か否か」という観点から再解釈されたものであり、このような物語が正当化の根拠として機能してきた点が重要である。一般的な倫理観からすれば許されない行為であるが、約束の地を手に入れるためには正当化され、むしろ、異教徒の排除として肯定的に捉えられているからだ(聖書が言うところの「聖絶」)。4.4で見てきた通り、このような排他的な思想は、聖書の成立初期から一貫して存在していたわけではなく、「D資料」の時代以降に強まっていったと考えられる。
ユダヤ教から派生したキリスト教も、異教徒の排除という点では、ユダヤ教の教えを継承している。ドーキンスは、ハートゥングの論文を引用して、「イエスは自分によって救われる内集団を厳密にユダヤ人に限定しており、その点で彼は『旧約聖書』の伝統を継承している」と指摘している(Dawkins, 2007, p. 371)。「汝殺すべからず」という戒めも、当時の文脈では主に内集団に適用される規範であったと解釈される。
その後キリスト教は、使徒や教父たちによる教義の一般化と積極的な布教活動によって世界宗教へと発展していったが、クリスチャンとは、「ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者」であり、そうでない者は異教徒として扱われる。
イスラム教もユダヤ教の聖書を源流としているが、井筒俊彦は、著書『イスラーム文化––その根底にあるもの』のなかで預言者ムハンマドが元々はメッカの商人だったことに着目している。「クルアーン(コーラン)」には商人の言葉や商業の専門用語が多用されており、当初から砂漠の遊牧民(ユダヤ人)とは相容れない世界観・価値観に基づいて成立したのだという(井筒, 2017, p. 16–19)。現在も続くイスラエルとアラブ諸国の対立には政治的・歴史的・経済的な要因が複雑に絡み合っているが、その一部には、このような宗教的起源に由来する側面も見いだすことができるだろう。
ここで、一神教の信者でない私から見ると、一神教の神の概念そのものについても疑問が生じる。もし神が全知全能であるなら、その神が自分の姿に似せて創造したとされるヒトが、どうして他の神を信じるような過ちを犯すのだろうか、あるいはどうしていくつかの宗派に分かれて争い合うのだろうか、という点である。
この点については哲学的にもさまざまな議論があるが、その一つとして、「全知」と「全能」は両立しないのではないかという指摘がある。ドーキンスは、全知であるなら将来自分が考えを変えることを知らないはずがないのだが、逆にその考えを変更できないのなら全能とは言えないと論じている(Dawkins, 2006, p.118)。
3.12および4.5で見たように、狩猟採集よりも重労働の農耕や牧畜がおよそ1万年前に始まったことを契機に、体格と体力に勝る男性が主に生産を担うようになり、男性優位の父系社会が始まった。
一神教の聖典であるヘブライ語聖書が書かれたのは、今から3200年〜2200年ほど前と考えられるが、この頃にはすでに男性優位の価値観がしっかりと確立されていた。したがって、『聖書』も当時の価値観を反映し、男性優位の視点で書かれたと言ってよいだろう。そして、現在に至るまで、男性優位の社会の価値観を反映するとともに、それを正当化・補強する役割を果たしてきたと考えられる。
『聖書』の「創世記」第2章には、男性についてこう書かれている。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。
一方、女性についてはこう書かれている。「……、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取った肋骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた」。
つまり、最初に神が造ったのは男性であり、その助け手として、男性のあばら骨から女性を造ったというのである。
「創世記」第3章においては、狡猾な蛇が女に、神が食べることを禁じた「善悪を知る木の実」を食べるように勧めると、女は実を取って食べ、共にいた男にも与えた。これを見た神は2人を咎めたが、女に対して言った言葉が非常に印象的である。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
「創世記」の第2章および第3章からは、次のような解釈が可能であり、これらが女性差別の根拠として用いられてきたと考えられる。
中村敏子著『女性差別はどう作られてきたか』によると、キリスト教世界において女性差別的な考えに最も大きな影響力を与えたのは、教父のひとりアウグスティヌスだったいう(中村, 2021, p. 16)。アウグスティヌスは原罪の解釈として、単に神が禁止した命令に背いたことが問題なのではなく、ヒトが自分の意志に基づいて判断してしまったことが罪なのだと言っている(これは本稿の自由意志に対する考え方と真っ向から対立する)。そして、男性を罪に引き込んだ女性は、道徳的に劣る存在であって誘惑されやすいので、男性が支配下に置き、押さえつけなければいけないと、現代の価値観からすれば受け入れ難い主張をしている。
また中村は、宗教改革によってカトリックから枝分かれしたプロテスタントにおいても、女性差別の考え方は変わっていないと指摘している。ルターは、『聖書』における神から女性への命令は歴史的事実であり、女性は自分の意志に従ってはいけない、すべて夫に従うべきだと説いている(中村, 2021, p. 18)。
このような考え方が、男性優位の父系社会を後押ししたと言えるだろう。
プロテスタント(ないしはプロテスタンティズム)は、ルターの宗教改革以降にカトリック教会(または西方教会)から分離したキリスト教の新しい教派である。改革というと、古いものを新しく刷新するイメージがあるが、宗教改革の場合は、むしろ聖書に書かれているイエスの教えに回帰するという側面が強い(「福音主義」と呼ばれる)。
プロテスタンティズムの教義は信者に対して禁欲的な生活を求めているが、そのプロテスタンティズムの職業(天職)倫理が、利益を追求する近代資本主義のバックボーンになったという逆説的な主張をしているのが、マックス・ヴェーバーが1905年に出版した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。教育現場では「プロ倫」と呼ばれ、長く読まれ続けている有名な論文である。
この論文の冒頭に、職業統計から見出される現象として、次のようなことが書かれている。「近代的企業における資本所有や企業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業員たちについてみても、彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象だ」(Weber, 1989, p. 16)。
これに関しては、資料引用の恣意性や手抜きを指摘する論者がいて論争になっているが、ここでは深入りしないことにする。
それでは、本来は禁欲的であるはずのプロテスタンティズムがどうして近代資本主義の精神と結びつくのか、その論理構成を駆け足で見ていく。
この論理の根底にあるのは、宗教改革の指導者のひとりジャン・カルヴァンが唱えた「予定説」である。すなわち、「人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことでそれを変えることはできない」という絶望的な論理が根底にある。これはすでに見てきた5.1の分類に当てはめると、「運命論」に基づく「決定論」の範疇に入る。
神による救済が受けられず地獄に落ちることは耐え難い恐怖なので、ヒトは自分が救済される側にいることの確信が欲しくて仕方がない。ここで登場するのが「天職(=神が定めた職業)」という概念である。天職で成功することは、神の意に沿っていることを意味するので、ヒトは自分が救済される側にいることを確信するために、ますます禁欲的になってすべてのエネルギーを信仰と神が定めた天職に集中させたのである。
このような論理の実践の結果として、プロテスタントは多くの利潤を得ることになるが、利潤は神の御心に適っていることの証、ひいては救済される側にいることの証として、肯定的に捉えられるようになる。これによって、禁欲的なプロテスタンティズムの倫理が、利潤を肯定的に捉える資本主義の精神へとつながり、近代資本主義を生み出したというのが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の主張である。
この主張は理論整然として綺麗すぎるので、ほんとうにそうだったのか?という疑問が残るが、プロテスタントでない私には、それを検証することは難しい。
この説とは異なり、ユダヤ教の教えこそが近代資本主義を生み出したという説を唱える論者がいるので、次節で紹介したい。
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に影響を受けたドイツの経済学者・社会学者のヴェルナー・ゾンバルトは、1911年に『ユダヤ人の経済生活』という論文を発表している。前節の6.3では禁欲的なプロテスタンティズムの倫理が近代資本主義の精神を生んだとするヴェーバーの主張を紹介したが、ゾンバルトはユダヤ教の教えとユダヤ人の特性こそが近代資本主義の精神を生んだと主張している(Sombart, 2015, Chaps. 11–12)。
その概要は以下の通りである。
要するに、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで述べたような特性は、ユダヤ教では一層厳しく、はるか早期に形成されていたというのが、ゾンバルトの主張である。
6.3と本節では、プロテスタンティズムあるいはユダヤ教が近代資本主義の成立に重要な役割を果たしたという2つの主張を見てきた。これらの主張のなかには一部納得できる点もあるが、個人的には、利潤追求の動機となっている心の動きを、影響の大きい順に並べると次のようになるのではないかと考えている。ただし、私は一神教の信者ではないので、3.の影響を過小評価しているかもしれないが……。
次の第7章では近代科学が社会に与えた影響を見ていく予定であるが、その前に、近代科学の先駆者であるデカルトやニュートンでさえ一神教の教えに縛られていたという事実に触れておきたい。
ルネ・デカルトは、1596年に、フランスのトゥレーヌ州ラ・エーの医師の家系に生まれた。彼が通ったラ・フレーシュ学院は、カトリック教団イエズス会によって運営されている中高一貫の寄宿学校だった。彼は学校の教育内容に、総じて不満を抱いていたようである。
親の意向に従ってポアティエ大学で法学の学士号を取得したが、21歳になると、親の意に反して軍隊に入り、オランダのブレダにある軍事学校に入学した。そこで、自然学者イサーク・ベーグマンと出会って大きな影響を受けることになる。その後は、最晩年にスウェーデンに渡るまで、20年あまりオランダに住み、『方法序説』『省察』『哲学の原理』などを出版した。
デカルトは「近代合理主義の祖」、あるいは「近代哲学の祖」などと呼ばれおり、「我思う、ゆえに我あり」という哲学的命題や、後に解析幾何学の基礎となった「デカルト座標」などがよく知られている。しかし、彼が後世に与えた影響のなかで最も大きいものは、還元主義的な方法論だろう。
デカルトは次の4つの規則を定めている(Descartes, 1997, Part. 2)。
このような方法論が近代科学を推進する大きな力になったことは疑いのない事実だが、それに伴う副作用もあり、後の章で検討ことにする。
さて、このように合理主義を徹底した一方で、彼は信仰を捨てておらず、『方法序説』では、むしろ積極的に「神の存在証明」を試みている。
ただし、「パスカルの定理」で有名なパスカルは、デカルトの考える神は信仰の対象としての神ではなく、科学上の条件の一部にすぎないと批判している。この辺りからも、神学と科学の狭間にいるデカルトの立ち位置を窺い知ることができる。
また、デカルトは、ヒトも含めたあらゆる身体を機械論的に捉えていたにもかかわらず、人間精神だけは特別扱いし、精神と物体の二元論を展開している。そして、精神と物質を結びつける器官は脳の松果腺であると主張している。これは現代の知見からすると、微笑ましいくらいの見当はずれな説であるが、ここからも神学に片足を乗せたデカルトの立ち位置を垣間見ることができる。もしデカルトが、2.10と2.11で見てきたようなヒトの意識の本質を知ったら、どんな顔をするだろうか?
一方、「ニュートン力学」によって近代科学史上に大きな足跡を残したアイザック・ニュートンは、1642年にイギリスのリンカンシャーの小さな村に生まれた。1661年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し、そこで恩師のアイザック・バローと出会う。バローの援助のおかげで才能を開花させることができたばかりか、後にバローは自らのケンブリッジ大学ルーカス教授職(数学関連分野の教授のポスト)をニュートンに譲っている。ニュートンはルーカス教授職の在任中に、ニュートン力学の入門書として知られる『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』などを出版している。
ニュートン力学の方程式は、天体の運行などの自然現象を正確に記述することができ、自然現象の予測・計算・検証を可能にした。それは、相対性理論や量子力学が発見された後においても、近似的・実用的レベルでは十分通用している。
このように科学の分野で輝かしい業績を残した一方で、生涯を通じてプロテスタントの立場でキリスト教の研究を続けている。彼は、ニュートン力学とキリスト教の教義とが矛盾するとは考えなかったようだ。
5.1で引用した木島泰三の『自由意志の向こう側―決定論をめぐる哲学史』によると、ニュートンは、重力を純粋に物理的な原理ではなく、「神のデザインを実現する目的論的な原理」であると考えており、さらに、「太陽系のような秩序が最初に成立するためには、神の奇跡的介入が必要」とも考えていたようである(木島, 2020, p. 156)。
また、ニュートンは、一時期、科学とは言えないような、かなり怪しげな錬金術に没頭していた。ニュートンの死後、遺体から水銀が検出されたが、錬金術の研究が原因だったと考えられている。
後に経済学者のケインズがニュートンの蔵書を詳しく研究しており、ケインズはニュートンのことを「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」と評している。ケインズのこの言葉が、ニュートンの立ち位置をうまく表している。
デカルトやニュートンのこのような立場について、私は当初は、神学から科学へのパラダイムシフトの過渡期の時代背景によるものだと思っていた。しかしいろいろ資料を読むうちに、彼らの信仰心はとても厚く、むしろ科学の法則によって神の絶対性を強化しようと考えていたのではないかと思うようになってきた。そして、現代においても、特に西洋においては、神学と科学が矛盾しないと考えている科学者が多いようだ。それほどに一神教の影響力は強いのである。
近代科学はヒトの生活に大きな恩恵をもたらしたが、その一方で、ヒトの視野を狭めたり歪めたりしたことも事実である。第7章では、近代科学の負の側面を見ていく。
数学的手法を駆使し、仮説を立て、実験によってそれを検証するという近代科学の手法を最初に確立したのはイタリアの自然哲学者ガリレオ・ガリレイで、この成果によって彼は「近代科学の父」と呼ばれている。
16世紀半ばにヨーロッパで始まった近代科学は、数多くの自然現象を数学によって定式化し、予測可能性や再現性を飛躍的に高めた。これによってヒトの生活の質が飛躍的に向上したのは言うまでもない。
近代科学には2つの大きな潮流がある。その一つはヨーロッパの大陸側の考え方という意味で、「大陸合理論」と呼ばれる。古代ギリシャのアリストテレスをルーツとし、近代においては6.5で取り上げたデカルトがこれを先導した。
ヒトには生得的に「理性」が与えられており、経験によらずとも、理性の能力によって原理を捉えて、演繹的に真理を探求できるという立場をとる。そして、理性の力をもってすれば理解できないものは何もないと考えた。
しかし、なぜヒトには生得的に理性が与えられているのかという点については、はっきりとした根拠が示されていないのではないか。もしかすると、ここで「ヒトは神が自分の姿に似せて創造したものだから」という神学の教えが登場するのかもしれない。
また、経験によらず頭の中だけで理論化を突き進めると、現実を無視した独断に陥るのではないかという批判もなされている。5.5で紹介したドラッカーは、理性万能主義から生まれた「経済人」の人間モデルの崩壊がナチスの台頭につながったとして、理性万能主義に対しては終始批判的だった(Drucker, 1998, p. 162)。
もう一つは、イギリスを中心としていることから「イギリス経験論」と呼ばれる一派である。古代ギリシャのイオニア学派やエピクロス派などをルーツとし、中世から近代にかけてフランシス・ベーコンが先導した。
「イギリス経験論の父」と呼ばれる哲学者ジョン・ロックは、ヒトは生まれた時には白紙の状態で、経験によって知識が書き込まれると主張しており、生得的な理性を主張する大陸合理論とは真っ向から対立した。
しかし、私自身は、ヒトの知性が生得的なものか経験によるものかは二者択一ではなく、両者が総合されたものだと考えている。生得的なものは、もちろん神から授かったのではなく、過去の進化によって得られたものである(これには直感も含まれる)。また、方法論としては、論理的・合理的な思考と経験や事実に基づいた検証を交互に繰り返しながら理論を構築していく姿勢が望ましい。
これは、カントが理性主義と経験主義の対立を統合し、ヒトの認識は生得的な枠組み(認識の形式)と経験内容の相互作用によって成立すると考えたことにも通じる。ただし本稿では、その生得的な枠組みを超越的なものではなく、進化の過程で形成された認知の構造として捉えている。すなわち、ヒトは世界をそのまま認識しているのではなく、自らの認知の枠組みを通して世界を構成しているのであり、これは4.8で述べた誤作動を理解するうえでも重要である。
6.5で紹介したデカルトの4つの規則の2番目は「考える問題をできるだけ小さい部分にわけること(分析)」である。この方法は、「要素還元主義」とも言われており、近代科学における基本的な方法論の一つである。
ただ、あらゆる事物は、他のものから完全に独立して存在することはできず、常になんらかの相互依然関係を持ちながら存在している。より重要で本質的な性質はこの相互依存関係によって生じている場合が多いが、要素還元的な方法によって小さい部分に分けていくと、これらの相互依存関係が捨象されてしまう可能性が高い。
もちろん分析的な視点も必要ではあるが、それと並行して、対象および対象を取り巻く環境をそのまま全体として観察する視点も必要である。
さらに観察にあたっては、直感も重要である。直感はけっして曖昧で漠然とした感覚ではなく、生物としての何億年にもわたる進化によって形成された「生き残るための知恵」に基づいた感覚だからである。
もう一つ、大きな落とし穴がある。ニュートン力学があまりに精緻に自然現象を記述できたので、研究者たちは、実際の自然現象よりも科学の方程式の方に自然の本質があると錯覚するようになった。
ここで注意すべきなのは、数理的なモデルが現実をそのまま写し取ったものではなく、特定の側面を取り出して単純化したものであるという点である。すなわち、数理化とは、現象の一部を抽出し、それ以外の要素を意図的に捨象する操作でもある。
この方法は、対象が単純である場合や、捨象された要素が本質に大きく影響しない場合には有効である。しかし、ヒトや社会のように、多数の要素が相互依存的に関係し合い、その相互作用そのものから性質が立ち現れるような対象においては、捨象された部分こそが本質に深く関わっている可能性がある。
にもかかわらず、数理モデルの整合性や美しさが強調されると、あたかもそのモデルが現実そのものを表しているかのような錯覚が生じやすい。この点に、要素還元主義と決定論が陥りやすい共通の落とし穴がある。
すでに5.1で触れたが、もう一度述べておきたい。木島泰三は『自由意志の向こう側−決定論をめぐる哲学史』のなかで、決定論者たちが貫こうとしているのは、「自然科学を用いて解明された知見によって、世界と人間をすべて理解しようとする立場だ。つまり人間の意志なり自由なり主体性なりが、そのようなものをあらかじめ想定できない要因によって決まってしまう、という事実こそが、貫こうとしている立場の核心にある」と主張している。
この主張は、次の2点を見落としている。
5.1で紹介したデネットの主張を繰り返すと、決定論か非決定論かは「原子レベル」での話で、それらが集まってシステムとして構成された「上位レベル」では、決定論か非決定論かに関係なく選択は可能で、自由意志は存在する。
これらを踏まえると、ヒトや社会を理解するためには、分析的な視点に加えて、全体としての相互作用や文脈を重視する視点も不可欠である。
物理学や化学などの自然科学だけでなく、社会科学の一分野である近代経済学も、18世紀以降の社会に大きな影響を与えた。
この分野ではイギリスの経済学者アダム・スミスが「経済学の父」と呼ばれ、彼が1776年に発表した『国富論』(正式名は、『諸国民の富の性質と原因に関する研究』)は「経済学の出発点」と位置付けられている。
しかし、これより60年以上前の1714年に、精神科医で思想家のバーナード・デ・マンデヴィルが『蜂の寓話–私悪すなわち公益』のなかで示した逆説的で斬新な考え方が、スミスの『国富論』に登場する有名な「見えざる手」の喩えや、さらには近代経済学の前提となる「経済人」の人間モデルへとつながっていったと言われている。
バーナード・デ・マンデヴィルは、1670年にオランダ・ロッテルダムの名門の家に生まれた。ライデン大学で医学を修め、医学博士の学位を取得して神経系統の医者として開業した。この時期に哲学も学んでいる。その後、英語を学ぶためにロンドンに渡り永住した。
『蜂の寓話–私悪すなわち公益』の「一 緒言」にマンデヴィルはこう書いている。
人間を社会的動物たらしめているものは、人間の交際への愛好、気立ての良さ、憐憫の情、人付き合いの良さ、あるいは、公正を装う外見上の高潔さなどではなく、人間の最も卑劣で、最も嫌悪すべき性質が人間を偉大な社会に、世間流に言えば、最も幸福で最も繁栄している社会に相応しい存在にするためにも最も必要な資質であることを理解されるであろう(Mandeville, 2019, p. 1)。
彼の言う最も嫌悪すべき性質とは、強欲、虚栄、放蕩、自己顕示欲といった悪徳である。つまり悪徳こそがヒトの本性であり、それが消費を衝き動かす原動力であると彼は考えたのである。当時、この主張に対して多くの批判がなされた。私自身も、あまりに一面的な解釈だと感じる。
しかし、ここで重要なのは、神からのトップダウンではなく、ヒトの情動からのボトムアップが経済の原動力であると明確に宣言している点である。この点は、6.3の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や、6.4の『ユダヤ人の経済生活』とは決定的に異なっている。
また、「悪徳」の一つである「虚栄」や「自己顕示欲」を、3.4で見てきた自尊心(pride)の表れとして捉えると、ヒトの進化と関連づけて考える糸口にもなる。
ところが、マンデヴィルは、最終的に「私悪は老練な政治家の卓越した管理によって公益に変えられるであろう」と結論づけてしまっている(Mandeville,2019, p. 306)。
この点は、個々人の悪徳が積み重なった結果、社会全体では公益が増大するという、(現代的な言い方をすれば)複雑系的な相互依存関係、あるいは創発的な考え方の萌芽があるにもかかわらず、政治家による管理というトップダウン的な結論に帰着しているのがとても惜しいと思う。
マンデヴィルの『蜂の寓話』から62年後の1776年に出版されたアダム・スミスの『国富論(正式名は、『諸国民の富の性質と原因に関する研究』)』にも、功利主義のジェレミ・ベンサムや限界効用理論のウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズなどを経て、後に「経済人」と呼ばれるようになる人間モデルの発端となる一節がある(と言われている)。
アダム・スミスは、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者で、倫理学における主著は『道徳感情論』、経済学における主著は『国富論』である。
『国富論』は、経済理論、経済史、経済思想史、経済政策論、財政学などを網羅した全5編からなる大著で、「経済学の出発点」と位置づけられている。
「経済人」という概念の発端と見られている一節は、『国富論』の第1編第2章に登場する。
われわれが食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、利己心に訴えるのであり、自分が何を必要としているのかではなく、相手にとって何が利益になるのかを説明するのだ(Smith, 2023, p. 36)。
しかし、この一節で、ほんとうにスミスは、「利益の追求こそが経済活動の動機」だと言っているのだろうか。それは次節で詳しく検討することにして、本節では「経済人」の人間モデルについて考える。
「経済人」の人間モデルとは、「ヒトはもっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する」という仮定である。ここで言う「合理性」とは、「所与の欲望体系のもとで満足もしくは効用を最大にすること」を言う。
近代経済学が社会科学の一分野として成立するためには、科学的な手法、とりわけ数学の方程式を用いた定式化が必要だったが、この定式化のためには「経済人」の仮定が必要だった。
たとえば、経済学の教科書を開くと最初に出てくる「限界効用」や「無差別曲線」は、ヒトは所与の欲望体系のもとで満足もしくは効用を最大にするという仮定を数学的に表現したものである。
しかし「経済人」の人間モデルは、あくまでも、定式化のために採用した一面的な人間像にすぎず、複雑で多面的なヒトの実像を表してはいない。実際に被験者を実験室に集めて行う心理実験では、被験者が「経済人」とは異なる行動パターンを示す場合が多い。
たとえば、公平性のためなら自分が損をしてもかまわないという気持ちになるかどうかを確かめる「最後通牒ゲーム」という心理実験の例がこれに当てはまる。この実験は提案者と応答者の2名で行われ、提案者には一定額(例:1000円)が実験者から渡される。提案者はこの1000円をどのように二人で分けるかを応答者と相談なしに決定し、応答者はそれを受諾するか拒否するかを決定する。
ヒトは常に自らの利益を最大化するはずだという「経済人」の前提に立つと、利益の最大化を目指す応答者は、1円以上持って帰れる方が1円も持って帰れないよりは望ましいと考えて、どんなオファーでも受諾するはずである。そして、このように考える提案者は自らの利益を最大にするために、提案者が999円を取り応答者が1円をとる分配提案を提示し、応答者はこれを受諾するだろうという予測が成り立つ。しかし、実際にはこのような結果にはならない。
応答者は自分の取り分が少ない提案ほど拒否する傾向が見られ、提案者もそれを見越して、提案する額の割合は40〜50%程度になる。不公平な分配提案に対して、受諾すれば得られる利益を捨ててまで拒否するのはなぜだろう?
参加者の関係が継続的な場合は「妥協しない応答者」という評判を獲得できるという理由も考えられるが、この実験は一回限りの関係である。それでも拒否するのは、不公平忌避の心理が働いた、あるいは強欲な提案者に対する怒りの感情が働いたなどの理由が考えられる。
この心理実験は一つの例であるが、ヒトは必ずしも経済的合理性だけに基づいて、「経済人」としての行動をするとは限らないことを示している。また、「経済人」以外にもヒトの本性を定義している言葉がたくさんあるが、いずれもヒトのある一面を切り取ったもので、自由意志を持つヒトの全体像を表してはいない。
それではヒトの本性はどのようなものだろうか。その手がかりとして、アダム・スミスが、『国富論』よりも前に著した『道徳感情論』を見ていく。
7.4で触れたように、アダム・スミスの経済学における主著は『国富論』であるが、彼の倫理学における主著は1759年に出版された『道徳感情論』である。『国富論』のほうが圧倒的に有名であるが、アダム・スミスの思想の原点は最初に書かれた『道徳感情論』であり、その考えは『国富論』にも受け継がれている。
『国富論』において利己的に振る舞う人間像を提起した(とされている)スミスが、それよりも前に発表した『道徳感情論』おいては、ヒトに本源的に備わっている道徳感情としての共感を論じているのはとても意外に感じられる。なぜそんなふうに感じられるようになったのかをこれから見ていく。
『道徳感情論』は、「ヒトはもっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する」とする「経済人」の仮定とはまったく正反対の次の一節から始まる。
人間というものをどれほど利己的と見なすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に掛けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる(Smith, 2024, p. 57)。
また、こんなふうにも言っている。
私たちは、他人が感じていることを直接体験するわけではない。<中略>仲間の感じ方をいくらかでも知ることができるとしたら、それは想像によるほかはない。その想像にしても、自分がその立場だったらどう感じるだろうかと思い描く方法でしか、役には立たない。<中略>想像こそが他人の不幸をわがことのように思いやる気持ちの源なのであって、不幸な人の思いを身にしみて感じたり、それに心動かされたりするのは、想像の中でその人と立場を取り替えているからである(Smith, 2024, p. 58)。
これらの文章から、スミスがいかに共感という心の動きを重要視していたかが分かる。
もう一つ重要なものは「中立な観察者」という概念である。スミスはこう書いている。
私たちは、言わば自分本来の立場を離れ、自分の感情や動機をある程度離れたところから見るように努めない限り、自分の感情や動機を仔細に検討することはできないし、それについて判断を下すこともできない。<中略>私たちは公正で中立な観察者のやり方を想像し、そのとおりに自分の行動を吟味しようと努める(Smith, 2024, p. 272)。
中立な観察者は、ヒトが自己を客観的に見るために自らの胸中に持つ利害関係を持たないもう一人のヒトであり、これによって自分自身と中立な観察者とを分割して、是認か否認かの裁決を下すのである。これこそが道徳感情の原点だとスミスは考えていた。
ダーヴィンの『種の起源』が発刊されたのは『道徳感情論』の発刊のちょうど100年後の1859年であり、進化心理学の発達によって志向姿勢やメンタライジング能力といった心の動きが分かってきたのは、さらにその100年以上後なので、スミスはこれらを知る由もなかった訳だが、引用した文章に書かれている内容は、まさにわれわれが2.9で見てきた志向姿勢そのものである。さらにスミスが言う共感は、3.6で見たクールな認知的共感に該当すると言っていいだろう。
ヒトの意識は、ヒトが他人の考えていることを推測するのと同じように、自分の考えていることを把握しようとするメンタライジング機能に支えられている。スミスの言う「中立な観察者」は、この仕組みとよく付合する。
それではこのような先進的な考え方を、『国富論』ではあっさりと捨て去ってしまったのだろうか?そうではない。スミスの考えは終始一貫しているにもかかわらず、『国富論』のなかのごく短い一節が、大きな文脈から切り離されて独立して引用された結果、とんでもない誤解が生じたと考えられる。
誤解の一箇所目は、前節7.4でも挙げた『国富論』第一編第二章のこの一節である。
われわれが食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、利己心に訴えるのであり、自分が何を必要としているのかではなく、相手にとって何が利益になるのかを説明するのだ。(Smith, 2023, p. 36)
この第一編第二章のタイトルは「分業の起源」である。ヒトは「生産」「販売」「分配」「貯蓄」「設備投資」などさまざまな経済活動をおこなっているが、ここで論じられている動機は、そのなかの「交換」を促す動機だけある。つまり、物を交換するときには相手が欲しいものを提示する(相手の利己心に訴える)のが通常だと言っているにすぎない。直前の文章にも、「誰でも、取引をもちかけるときにはそのように提案している」と書かれている。
この交換を促す動機が、あたかもヒトのすべての経済活動の動機であるかのように取り上げられてしまったのは、経済学にとっても、人類全体にとっても不幸なことであった。
誤解の2箇所目は第4編 第2章に書かれている有名な「見えざる手(invisible hand)」の喩えである。この喩えは、『国富論』のなかでは、ここにたった一度だけ登場する(太文字は本稿著者による)。
各人が社会全体の利益のために努力しようと考えているわけではないし、自分の努力がどれほど社会のためになっているかを知っているわけでもない。外国の労働よりも自国の労働を支えるのを選ぶのは、自分が安全に利益をあげられるようにするためにすぎない。生産物の価値がもっとも高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。だがそれによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進することになる。(Smith, 2023, p. 529)
この「見えざる手」は、キリスト教の終末思想のなかの「信徒は『神の見えざる手』により救済され天国に行くことができる」という一節から取った喩えだと思われるが、スミスは「神の」とは言っていない。この「見えざる手」の喩えが、すべてを市場に委ねる「自由放任主義」の文脈で語られて、スミスが自由放任主義の基礎を築いたと紹介されることが多いが、スミス自身は「自由放任」という言葉は使っていない。
ここでも「経済人」の仮定と同じようなことが起きている。「見えざる手」の喩えが登場する第4編第2章のタイトルは、「国内で生産できる商品の輸入規制」である。この時期、名誉革命はすでに起きていたが、フランス革命(1789〜1795年)はまだ起きておらず、ヨーロッパは絶対王政の国が多かった。スミスがこの章で言いたかったのは、王政による貿易の独占や輸入規制はやめて、国民にもっと自由に海外との取引をさせたほうがいいということであり、そのなかで資本と労働をどこに振り向けるかという文脈おいて「見えざる手」の喩えが登場するのである。
これはあくまでも私の想像だが、スミスは、輸入規制などせずにもっと自由に貿易取引をさせたほうがいいと言いたかったあまり、つい筆の勢いが余って「見えざる手」と書いてしまったのではないだろうか。限られた文脈のなかで使われた喩えが、のちに、あたかも経済全般に対する喩えであるかのように独り歩きして、スミスは自由放任主義の創始者として扱われるようになったのである。近代経済学の理論は大きな誤解の上に構築されていると言ってもいいだろう。
イギリスの作家・思想家・政治家であるジェシー・ノーマンは著書『共感の経済学』のなかで、スミスの思想を経済理論の前史としてではなく、むしろ「共感に基づく社会理論」として再構成している。この視点に立てば、スミスの理論体系は道徳と経済の分離ではなく、むしろ両者の連続性の上に成立していたと理解できる。
また、次の第8章で紹介するアマルティア・センは、『道徳感情論』発行から255年後の2014年に日経BPクラシックスから出された新訳版の序文にこう書いている。
スミスは、広くは経済のシステム、狭くは市場の機能が利己心以外の動機にいかに大きく依存するかを論じている。<中略>事実、スミスは「思慮」を「自分にとって最も役立つ徳」とみなす一方で、「他人にとってたいへん有用なのは、慈悲、正義、寛容、公共心といった資質」だと述べている。これら二点をはっきりと主張しているにもかかわらず、残念ながら現代の経済学の大半は、スミスの解釈においてどちらも正しく理解していない。(Smith, 2024, アルマティア・センによる序文, P. 11)
まったく同感である。
前節7.5で見たように近代経済学の理論は「経済人」という現実離れした仮定の上に構築されているが、このことをうまく表現している喩え話がある(この喩え話にはさまざまなバージョンがあるので、基本形と思われるものを紹介する)。
ある公園の街灯の下で、何かを探している男がいた。そこに通りかかった人が、その男に「何を探しているのか」と尋ねた。すると、その男は、「家の鍵を失くしたので探している」と言った。通りかかりの人は、それを気の毒に思って、しばらく一緒に探したが、鍵は見つからなかった。そこで、通りかかりの人は、男に「本当にここで鍵を失くしたのか」と訊いた。すると、男は、平然としてこう応えた。「いや、鍵を失くしたのは、あっちの暗いほうなんですが、あそこは暗くて何も見えないから、光の当たっているこっちを探しているんです」
近代経済学は、「経済人」という仮定をすることによって数学を使って定式化できるようになった範囲(つまり街灯の光が当たっている範囲)だけを研究しているのであって、もっと多様で複雑な動機を持つヒトの経済活動全体を範囲としては研究していないと言える。
7.3以降、近代経済学の批判ばかりしてきたので、再び、近代科学全般へと視野を広げたい。構造人類学者の北沢方邦は、『近代科学の終焉』という刺激的な題名の本を著している。
北沢は本の冒頭で、近代のリアリティの特徴について、これまで宗教が語ってきた超越的な世界が次第に抽象的な概念となり世俗化していった代わりに、言語に依拠する理性が登場し、目に見える三次元の空間と一次元の時間がこの世界のすべてになった点がその特徴であると述べている(北沢, 1998, p. 21)。
まず、デカルトが「我思う」という主観性と、「故に我在り」という存在の客観性の二元論を主張し、これに続いてニュートンが確立した古典力学の微積分方程式が、近代のリアリティを完璧に記述する言語になった。その状況を、北沢は次のように表現している。
我々は知性や意識の作用する側面では、近代の認識といういわば限りなく透明なガラス箱の内に閉じ込められ、そこから抜け出ることはできない。ガラス箱の存在にすら気づかず、脱出しようとする意志さえもつことはない。箱の中で我々は自由であると感じ、外の世界を正確に客観的に認識し、把握していると信じている。(北沢, 1998, p. 28)
この「限りなく透明なガラス箱」の内側の壁面に書かれているのが、数式や論理式といった近代科学の言語である。いつしかヒトは、ガラスの壁面に書かれた文字ばかり見るようになり、ガラス箱の外側に広がる世界を見ようともしなくなった。つまり、外の景色に目もくれずに、ひたすら筆談をしているのが近代人の姿である。
さらに言えば、一度ガラスの壁面に書かれた文字は、後から間違っているとわかっても、簡単には書き換えることができなくなってしまった。
しかしやがて、熱力学の第二法則や量子力学が、近代のリアリティに大きな打撃を与える。線型方程式の決定論的な世界に代わって、不確実で確率論的な世界がヒトの前に現れたのである。これはのちの章で紹介するイリヤ・プリゴジンの考え方ともよく付合する。
そして北沢は、解体した近代のリアリティに代わる「異端な危険な道」、すなわち「日常的経験を遥かに超えた奇怪にして魅惑的な新しいリアリティを確立しようとする道」こそが、文明の転換を保証する唯一の道だと主張している(北沢, 1998, p. 25)。
北沢が言っているように、近代科学はわれわれの視野を極端に狭め、歪めてしまった。近代科学の一分野である社会科学においても同じである。
前章では近代科学の功罪を見てきたが、この第8章では、そのような近代科学がまだ支配的だった時代に起きた市民革命に目を向ける。市民革命は、はたして「自由で機能する社会」を実現できたのだろうか?
まずは、主要な市民革命を時代順に列挙する。
このようにみると、市民革命後に議会こそ開かれてはいるが、限られた少数の者が国を支配する権力構造はそのままで、立憲君主制も含めて、ただ権力者が絶対君主から革命の中心人物へと代わっただけのように思える。
また、しばらくすると王が権力を取り返すケースも散見されるし、新政権の中でも内紛が多発している。つまり、市民革命の本質は、自由を獲得する戦いというよりは、権力を巡る抗争と言ってよいのではないだろうか。
ジャン=ジャック・ルソーが唱えた「社会契約」という概念は、アメリカ革命やフランス革命に大きな影響を与えたと言われている。
ルソーの祖先は元々パリに住んでいたが、プロテスタントの信仰を守るためスイスのジュネーブに移住した。ルソーの父は腕のいい時計職人だった。しかし、ある事件で父が告発され追放されたのを境に、ルソー自身は波乱の人生を送ることになる。放浪生活のなかで、嘘をついたり、盗みを働いたりもしたが、サヴォワの助任司祭ゲーム氏の援助によって、健全な道徳の教訓や正しい理性の準則を見出したと言われている。
彼の著書のなかで、まず『人間不平等起源論』で述べられている部分を以下にまとめてみた(Rousseau,2008)。なお、これをまとめるにあたって、中里良二著『ルソー(人と思想14)』も参考にしている(中里, 1969, pp. 137–140)。
ここまでのルソーの主張は、不平等が始まった起点を狩猟採集生活だと言っている点や、契約という言葉を盛んに使っている点には引っかかるものの、本稿の第3章と第4章で見てきた内容と一致する部分も多く、特に自尊心に着目している点は注目に値する。そして、社会が階層化し、国と王が誕生した時代の様子をかなり的確に描写している。すでに第4章を読んできた読者は、これらの原因は、当初は適応的に獲得されたヒトの形質の誤作動だということを知っている。
ここまではすんなりと納得できるのだが、問題はその後に書かれた『社会契約論』である。ルソーは、不平等のない状態を実現し、真に人間らしく生きることができるようにするためにはどうしたらいいかを、『社会契約論』のなかで次のように述べている(Rousseau, 2013) (中里, 1969, pp. 209–227)。
以上が、ルソーの社会契約論の概要であるが、私は次の3点において強い違和感を覚える。
これらの点には強い違和感がある一方で、ルソーは『エミール、または教育について』において、道徳の根拠ヒトの内面にある「良心」に見出している。この点は本稿の議論において重要な意味を持つので、後に改めて取り上げることにする。
5.5で述べたように、ドラッカーは「社会というものは、一人ひとりの人間に対して『位置』と『役割』を与え、重要な社会権力が『正統性』をもちえなければ機能しない」を言っている。私は、前半部分はその通りだと思うが、後半部分には納得がいかない。
また、前節8.2でルソーは、「社会が存続し続けるためには、障害の力に勝つことができる力の総和を、集合することによってつくり、ただ一つの動力によってそれを動かし、そして、一致してその力を動かす以外に方法はない。」と言っているが、これにも納得がいかない。
そもそも「権力」とは、ヒトから自由を奪い取って自分だけ利益を得ようと目論む暴力(「権力」=「権益」を奪い取る「暴力」)であり、その定義からして正統なものではありえない。
また、3.8で直接互恵性にとって脅威となるフリーライダーの存在について触れたが、権力者こそ最強最大のフリーライダーである。
ヒトの歴史のなかで、権力者(=王)が登場したのはおよそ5000年前のことだが、それでは、なぜヒトはたった一人の為政者に権力を集中させることが社会を維持する唯一の方法だと思うになったのだろうか?どうして他の方法を思いつかないのだろうか?
その答えは第4章ですでに見つかっている。もう一度箇条書きで列挙する。
以上のような理由から、5000年もの長きに渡って、権力なる魔物が温存されてきたのである。
一方、本稿が目指している「自由で機能する社会」の理想形は、フラットで、そこで生活する各主体を隔てる壁がなく、各主体が自由意志に基づいて活動できるような構造を持ち、そして何よりも重要なのは、そこに権力が存在しないということである。
ピューリタン革命は1640年に、アメリカ独立戦争は1775年に、フランス革命は1789年に起きたが、ダーウィンが『種の起源』を発表したのはその後の1859年である。
ジェームズ・ワトソンやフランシス・クリックらが遺伝子の実体がDNAの二重らせんであることを発見したのはさらに百年後の1953年であり、進化心理学によってヒトの心の動きの背後に潜む進化の影響が明らかになってきたのは、ほんのここ数十年のことである。
当然のことながら、革命の担い手となった市民たちは、本稿の4.8で列挙した「当初は適応的だった形質の誤作動」のことなど知るよしもなかった。ここでもう一度4.8を読み返してほしい。誤作動によって引き起こされたものは、王による支配とそれに対する民衆の服従、一神教の成立、繰り返される戦争、際限のない蓄財行動、分断と対立、女性差別、いじめなどである。
革命の担い手となった市民たちは絶対王政を打倒したが、誤作動によって形成されてきた歪んだ仕組みはそのままにして、ただ、ピラミッド型組織の頂点に立つ為政者たちを挿げ替えただけだったのである。
もちろん、一見民主的に見える選挙によって為政者たちが選ばれ、一見民主的に見える多数決によって社会的決定が行われるようになったのであるが、社会の仕組みは何も変わらなかった。したがって、新しい為政者たちが行ったことは、絶対王政の時代とほとんど同じような権力の行使と、その権力を握るための闘争だった。このようにして、21世紀の現在に至っても誤作動は続いているのである。
第8章では市民革命によって市民たちが民主主義らしきものを獲得してきた様子を見てきたが、前節8.4に選挙や多数決という言葉が出てきたので、この節では民主主義の基本と言われるこれらの社会的決定方式自体にも大きな落とし穴があることを付け加えておく。
認知心理学者の佐伯胖は、著書『「決め方」の論理−社会的決定理論への招待−』で、社会的決定方法が抱えているパラドックスや、社会的決定と個人の自由や社会的倫理性との関係を、たくさんの事例や研究結果を踏まえて分析している。以下、同書に沿って、社会的決定方式の落とし穴について見ていく。
まず、ひと口に投票と言っても、多数決方式、単記投票方式、上位二者決戦投票方式、複数記名投票方式、順位評点方式など、さまざまな方式があって、どの方式を採用するかによって勝者の意味が大きく変わってくる(佐伯, 1980, pp. 49–53 )。
しかし、世の中の大多数のヒトは、投票によって決定された結果には強い関心を示すが、その「決め方」にはさほど関心を示さない。おそらく、投票方法や集計方法が変われば、結果がまったく変わってしまうという事実に気づいていないからか、気づいていても「それはそれで投票前に決まっていたことだから仕方がない」と思っているからだろう。
各投票方式にはそれぞれ違う「決め方の論理」があるので、ヒトの間で意見の不一致があるのはどういう観点についてなのか、あるいはどういう観点で勝者を選ぶべきなのかを十分吟味して投票方式を決めないと、投票結果が受け入れ難いものになってしまう危険性がある。
しかし、たとえ投票方式を十分吟味したとしても、社会的決定には深刻なパラドックス(正しそうな前提と、妥当に思える推論から、受け入れがたい結論が得られること)が存在するという指摘がいくつもなされている。
1785年に社会学者のコンドルセが発見した「投票のパラドックス」は、各投票者が理性的に投票を行ったとしても、その結果が理解不能な非合理的な結果になってしまうというものである(佐伯, 1980, p. 17)。
さらに、ノーベル経済学賞を受賞したケネス・アローの「一般可能性定理(または不可能性定理)」からは、「どんな投票方式を採用したとしても、たった一人の独裁者の選好順序が社会全体の選好順序として採用されてしまう」という、民主主義を真っ向から否定するような深刻な帰結が導き出されている(佐伯, 1980, pp. 55-82)。
パラドックスはこれにとどまらない。7.5でも紹介したアマルティア・センが1970年に発表した「自由主義のパラドックス」は、ごくわずかな条件だけから、「何人もいかなる行動の自由も与えられない」という結論が導き出される極めて深刻なパラドックスである(のちにセン自身がパラドックスの解決策を発表している)(佐伯, 1980, pp. 111-156)。
それにしても、どうしてこんなに次々と深刻なパラドックスが現れるのだろうか? その原因は、それぞれの定理が前提としている仮定自体が現実と乖離しているからではないかという疑問が湧いてくる。たとえば、前述のアローの「一般可能性定理」で満たされるべきだとされていた条件のうち、「パレート最適性」と「無関係対象からの独立性」は、ほんとうに満たさなければならない条件なのだろうか?
「パレート最適性」は近代経済学(特に厚生経済学)ではおなじみの概念で、「集団内の誰かの効用を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態」、つまりこれ以上は「パレート改善」ができない状態のことをいう。この概念に疑問をはさむ経済学者は少ないが、パレート最適性は社会全体の効用を問題にしているので、社会内部にどんな不平等が生じていても関知しない。誰かからパンを奪って別の誰かに与えても、パレート最適性には影響しない。
前述のセンは、「無関係対象からの独立性」の仮定は捨てるべきだと主張している(佐伯, 1980, P. 139)。これは、「xとyとについての社会的選好順序は、この2つについての判断だけを反映すべき」という考え方であるが、複雑系的な視点に立てば、世の中のすべての事物は互いに複雑に関係しあっており、それぞれがまったく無関係ということはない。xとy以外の無数の要因がxとyに関係していると考えるのが自然である。
けっきょくのところ、社会科学が科学としての合理性(計算可能性)を主張しようとして、現実から乖離したかなり無理な仮定をしているために、そこから綻びが生じて深刻なパラドックスが発生しているのではないだろうか。ヒトの本性に関わる「経済人」の仮定も然りである。
前節8.5では佐伯胖の『「決め方」の論理−社会的決定理論への招待−』に沿って、現行の社会的決定が持つ問題点を考えてきた。
しかし、もっと原点に立ち返ると、そもそも社会全体の進路をたった一つの方向に決める社会的決定という行為自体が、ほんとうに正しいのだろうか?という疑問が湧いてくる。ひとたび社会的決定によって何かが決められれば、全員がその決定に従わなければならないというのは、正しい社会のあり方なのだろうか?
5.4で紹介したジョン・スチュアート・ミルのこの言葉を思い出してほしい。
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害しないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。人が良いと思う生き方を他の人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。(Mill, 2012, p. 36)
最近では「リベラル」という言葉が、政治的・イデオロギー的な立ち位置(右派なのか左派なのか)という意味で使われることが多いが、本来は、ミルが言うような意味での一人ひとりの自由を尊重する立場を指しているはずである。ということで、本来のリベラルの立ち位置を図で示すと、下の【図表9】のようになる。
そのうえで、各人がそれぞれ自分の好きな生き方をすれば、そこに多少の衝突は起きるだろうが、それを無理やりひとつの生き方に統一させるよりも、それぞれの生き方を互いに認め合って、衝突しないように調整していくのが、ほんとうの意味で自由な社会のあり方ではないだろうか。
市民革命、そしてそれ以降の政治や経済の根本的な間違いは、個人よりも国のほうが優先されるという思い込み、社会全体が一つの方向に向かわなければならないという思い込み、社会を運営する仕組みは一つでなければならないという思い込みである。
自由の基準は個々人の心のなかにある。 自由な社会であるか否かの尺度は、社会のなかで自分は自由だと感じているヒトの割合である。これは進化において、自然淘汰を受ける単位は個人、進化の単位は集団における遺伝子頻度という原理と同じである。
第8章では、近代社会で起きたさまざまな誤作動を指摘した。誤作動はどれも修正されることなく現代へと引き継がれ、さらに深刻さを増している。その様子を、この第9章で見ていく。
ミヒャエル・エンデはドイツの児童文学作家で、小説、絵本、詩集などの作品を多数残している。代表作の一つ『はてしない物語』は映画化され、日本では『ネバーエンディング・ストーリー』というタイトルで上映されたので、記憶に残っているヒトも多いだろう(ただし、まったくの余談ながら、エンデは、自分に無断でこの映画の脚本が書き直されたことが不満で訴訟を起こしている)。
1974年にドイツ児童文学賞を受賞した『モモ』は、本国ドイツに次いで日本でよく読まれているエンデの代表作である。児童向けファンタジー小説の形を取っているが、物語のいたるところに現代社会への風刺が散りばめられている。
モモという名前の少女(年齢は明記されていないが、8歳から12歳くらい)が、町の人々から時間を盗んだ灰色の男たちに、勇気を振り絞って立ち向かう物語である。
灰色の男たちは「時間貯蓄銀行」という謎の組織に属していて、時間を節約するように言葉巧みに町の人々を勧誘する。床屋のフージー氏への勧誘は、こんな具合だ。
たとえばですよ、仕事をさっさとやって、よけいなことはすっかりやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですな。そうすれば一日丸一時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい! ダリア嬢の訪問は、どうしてもというのなら、せめて二週間に一度にすればいい。寝るまえに十五分もその日のことを考えるのもやめる。とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だちづきあいだのに、貴重な時間をつかうことのはいけませんね。 (Ende, 2005, p. 98)
節約した時間を「時間貯蓄銀行」に長年預けると2倍になって戻ってくるというので、フージー氏は勧誘にのって時間を節約し始めた。母親を養老院に入れ、セキセイインコはペット屋に売り払い、ダリア嬢には「暇がないからもう行けない」という事務的な手紙を書いた。
こうして時間の節約を始めたフージー氏は、だんだんと怒りっぽい落ち着きのない人物になっていった。そして、時間が経つのがどんどん早くなり、あっという間に1年が飛びさっていった。さらに不思議なことに、フ―ジー氏は灰色の男とのやり取りの記憶をすっかり無くしてしまった。それでもフージー氏は時間の節約をやめようとはしなかった。
実は、灰色の男たちは自分の時間を持っておらず、町の人々から盗んだ時間を使うことによってしか生きられない。だから、もし盗んだ時間の蓄えがなくなってしまったら、その瞬間に消えてなくなる運命にある。
町の人々が灰色の男たちのことを忘れてしまったなかで、モモだけがそれに気づき、時間を司るマイスター・ホラ(正式にはマイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ)や、カメのカシオペイアの力を借りて、灰色の男たちに立ち向かう。そのワクワクする物語をここに書くわけにはいかないので、ぜひ小説『モモ』を読んでほしい。
ところで、エンデ自身は、『モモ』は単に時間に追われる現代人に警鐘を鳴らしているだけでなく、「もう少しさきのところまで言っているつもりなのです」と対談で語っている(子安, 1986, P. 126)。
ドイツの経済学者ヴェルナー・オンケンは、『モモ』の物語の背後に、お金が商品として売買されている現代の経済システムに対する疑問に加えて、「減価する貨幣」や「老化するお金」という概念が隠されていることに気づき、「経済学者のための『モモ』」という論文を書いたうえで、エンデに書簡で確認を取っている。エンデは、大いに喜んで、「老化するお金という概念が私の本『モモ』の背景にあることに気づいたのはあなたが最初でした」と回答している(河邑厚徳・グループ現代, 2011, p. 45)。
また、編集工学研究所の松岡正剛も、『千夜千冊』のなかで、時間は貨幣と同義であり、「『時は金なり』の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせたのだ」と、同様の指摘をしている(松岡, 2010)。
「時間と共に価値が減るお金」という概念はドイツの思想家シルビオ・ゲゼルが、そして「老化するお金」という概念は哲学者であり教育者でもあるルドルフ・シュタイナーが提唱した概念である。
世の中に存在するあらゆる物は、出来上がったその瞬間から経年劣化が始まる。劣化を防ぐためには保守が必要で、それなりに費用がかかる。しかし、唯一の例外はお金で、お金は劣化しないどころか、銀行に預ければ逆に利子がついて増える。
このようなお金の特異な性質に疑問を持ったのが、ゲゼルであり、シュタイナーであり、そしてエンデであった。
お金は利子を生むだけでなく、株式などを短期的に売買して差益を稼ぐことにも使われる。最新のIT技術を駆使すれば、1秒間に数えきれない程の売買を繰り返えす高速売買で差益を稼ぐことも可能になってきた。現在世界中で流通しているお金の90%以上は、このような歪んだ取引に使われている。
エンデはこのように言っている。「重要なポイントは、たとえばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、2つのまったく異なった種類のお金であるという認識です」(河邑厚徳&グループ現代, 2011, p. 3)。
これらのことを理解したうえでもう一度『モモ』を読み直すと、モモとマイスター・ホラとのこんな会話にドキッとさせられる。
モモ「あの人たち、いったいどうしてあんな灰色の顔をしているの?」
マイスター・ホラ「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう、彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうに自分のものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」(Ende, 2005, p. 225)
この会話の「時間」を「お金」に換えてみると、エンデが言いたいことが見えてくる。本来の目的から逸脱して暴走するお金は、死んだお金と言ってよい。
これに対して、他のあらゆる物と同じように、お金も時間とともに価値が減っていくべきだという主張が、先に挙げた「減価する貨幣」や「老化するお金」である。実際に、地域限定で使われている地域通貨のなかには、使わないと価値が減っていく(つまりマイナスの金利がつく)ものも存在する。
これはあくまでも私見ながら、銀行は預金金利をゼロにして、口座維持手数料をもっと取ればいい。また、株式や土地などの短期的な売買で得られた利益に対しては、懲罰的に高い課税をすればいい。たとえば、得られた利益の95%を税金として徴収すれば、誰もばかばかしくて投機的行動などしなくなるだろう。私の感覚では、短期とは3年、あるいは5年以内である。もちろん、真にやむをえない理由が認められれば、一般的な税率を課すことになる。
4.8で述べたように、あくなき利益の追求は、飢餓と欠乏という淘汰圧によって形成された形質が所有の概念と結びついたことによる誤作動である。この誤作動が極限まで増幅された結果、ごく一握りの大富豪が世界の富に大部分を占有することになってしまった。世界不平等データベース(World Inequality Database: WID)が公表した「World Inequality Report 2026」によると、上位0.001%(6万人未満の富裕層)が、世界人口全体の下位半数の資産の3倍を保有、そしてほぼ全地域で上位1%が下位90%を合わせた資産を上回る資産を持つという。つまり、わずか1%の勝者が利益を総取りして、それ以外の99%のヒトの生活を圧迫しているのである。
インターネットの普及は、ヒトの歴史のなかでも、言語の発明に匹敵するほどのエポックメイキングな出来事であるが、残念ながら、その運用形態がかなり歪な形になってしまっている。
その原因の一つは、前節と同じくお金に絡む問題点である。そもそも、インターネットの前身の「ARPANET」は、米国防総省・高等研究計画局の資金提供により、大学や研究機関を繋ぐネットワークとして誕生し、主に学術研究用のネットワークとして発達した。その流れを受けて、当初はインターネットの商用利用が禁止されていたのだが、米国では1990年に、日本では1993年に、商用利用が解禁された。
この解禁を境に、まさにかつてのゴールドラッシュのように、多くのIT企業がインターネット空間に殺到した。このような企業が提供するサービスの大半が、「広告料収入によって提供されている無料サービス」である(Google、Facebook、YouTubeなど)。
これらの無料サービスの特徴は、ユーザー属性やWebサイトの閲覧履歴などを基にユーザーが関心を持っていると思われる広告を掲載する「ターゲティング・マーケティング」の手法を駆使していることだ。ピンポイントに的を絞った広告を流すことができれば、それだけ高い広告料を請求できるので、これらのサービス提供会社はユーザーの情報を収集することに極めて熱心である。民間放送のテレビ局と同様に、GoogleやFacebookやYouTubeの本業は、無料サービスを提供することではなく、広告料収入を稼ぐことである。
近年特に問題になってきたのは、どんなに問題のあるコンテンツ、あるいは虚偽情報のコンテンツでも、それを掲載することによって閲覧回数を増やせるならばどんどん公開してしまおうという風潮である。ここにも、9.1で述べたような本来の姿から逸脱したお金の暴走がみられる。
少し観点が変わるが、著名なスポーツ選手やアーティストなどは、コマーシャルに出演することによって巨額の報酬を得ている。それは一般人の金銭感覚では考えられないほど巨額である。広告主がそれほど巨額の出演料を払うのは、彼らが登場するコマーシャルには支払った出演料以上の効果が期待できるからだ。同様のことは、YouTubeなどで閲覧回数が多いコンテンツに対しても言える。
「広告料収入によって提供されている無料サービス」は、極端な商業主義をよりいっそう加速させて、世の中を不健全な方向へと歪めているような気がしてならない。
このようなビジネスモデルにおいては、(1)プラットフォームやコンテンツを提供することと、(2)広告料収入を稼ぐことという2つの目的が併存し、どちらが主たる目的で、どちらが従たる目的なのか不明確になる。それに伴って倫理的な感覚の麻痺が生じやすい。またSNSにおいては、プラットフォーマーだけでなく、ユーザー自身も広告料収入を稼ぐ機会が得られるので、その傾向がますます加速される。
SNS上では、有益な情報も、誤った情報も、あるいは悪意や犯罪性のある情報も同じように交わされる。しかし、それは従来のコミュニケーション手段でも同じことである。ただ、情報交換の頻度と密度が高いので、それぞれの情報が世の中に与える影響が格段に大きくなったことは確かである。
現在のSNSに対するマスコミの批判的な報道をグーテンベルクの時代に置き換えて喩えてみると、「活版印刷は犯罪を助長するような情報を大量に世の中に広めるから実にけしからん!」というような感じになるのだろう。マスコミがSNSをはじめとする新しいメディアに対して総じて批判的な立場を取るのは、メディアの主役の地位を奪われそうだという危機感があるからかもしれない。
また、選挙戦に勝つためや、国民を思想的に操作する目的で、SNSが為政者たちに悪用されることがあるが、過去の歴史を振り返ると、それはマスメディアに共通する現象である。第二次世界大戦中の日本のメディアのことを思い出してほしい。
問題の根っこは、SNSにあるのではなくて、多様性を尊重する意識が十分に浸透していないからとか、勝ち組・負け組といったall or nothing的な思考が支配的だからとか、金儲け第一主義が横行しているからとか、教育の内容が画一的で受験予備校的だからとか、そういった社会のあり方のほうにある。SNSはあくまでもメディア(媒体)なのである。
私たちは、同じ検索エンジンに同じキーワードを入力して検索すれば、誰にも同じ検索結果が表示されると思いがちであるが、実はそうではない。検索アルゴリズムはたくさんの要素を総合的に考慮するように設計されているが、そのなかに検索者の過去の閲覧履歴なども含まれていて、検索者のニーズや関心などが反映される。こういったアルゴリズムの設計は、前述の「ターゲティング・マーケティング」の考え方を応用したものだろう。
しかしこの影響で、類似した傾向のサイトばかりが上位に表示され、利用者の視野が狭くなってしまう「フィルターバブル」と呼ばれる現象が起きやすい。
検索エンジンよりもよりいっそう偏りが生じやすいのは、SNSのタイムラインである。前述のフィルターバブルに加えて、そもそもSNSのタイムラインは自分が友達登録したり、フォローしたり、「いいね」をしたりした相手の記事が優先的に表示されるようになっている。したがって、自分と同じような意見や嗜好の記事がたくさん表示されるのは避けられない。これを「エコーチャンバー現象」という。
実際に見比べたわけではないのであくまでも推測であるが、アメリカの共和党支持者と民主党支持者のタイムラインには、まったく異なる世界が展開されているのだろう。これでは分断と対立がますます深まる一方である。いろいろな条件下で、表示されるタイムラインを比較してみる研究には意義があると考えている。
これは上記3点とは少し違って構造的基盤に関わる問題であるが、インターネット上のサービスの環境負荷や持続可能性に関して、無視できない問題が忍び寄っている。特に顕著なのは、人工知能(AI)の急速な普及に伴って世界中で建設ラッシュが起こっているデータセンターが大量の電力を消費する問題である。
国際エネルギー機関(IEA)が2025年4月に発表した報告書「Energy and AI」によると、データセンター全体の電力消費が2030年までにほぼ2倍の約945 TWhに達し、その増加の主要因として 人工知能(AI)の需要拡大が挙げられている。2030年のデータセンター消費電力は、日本の年間消費電力に匹敵する可能性もあるという。
われわれがAI活用のメリットを享受するためには、この問題を避けては通れない。現在の情報社会は、そのエネルギー基盤との関係において、ひとつの分岐点に差しかかっているのかもしれない。
4.2で見たように、大規模で組織的な戦争(=為政者たちによる侵略行為)が始まったのはおよそ5000年前からである。侵略行為の本質は昔も今も変わっていないが、19世紀以前と20世紀以降とで大きく変わったことがひとつある。それは科学技術の発達に伴って殺戮がより大規模で残酷になったことであり、その最終形が核兵器である。為政者たちが核兵器を手にするに至って、人類の滅亡という最悪のシナリオがより現実味を帯びてきたと言わざるを得ない。
「相手が核攻撃を仕掛けてきたら、こちらも核で報復するぞ」という能力と意思を示すことによって核戦争は防止できるという考え方を「核抑止」と言う。この考え方は2つの楽観的な前提の上に成り立っており、実質的に「机上の空論」と言わざるを得ない。
第1の楽観的な前提は、為政者たちが常に合理的な判断をしてくれるだろうというものである。ところが、歴史を振り返れば、敗色濃厚となった為政者が自暴自棄となって破れかぶれの行動に出た例はたくさんある。
たとえば、首都ベルリンが陥落するまでのヒトラーとその周りの人たちの様子を描いたドキュメンタリー作品『ヒトラー 最期の12日間』を読むと、ヒトラーがすでに正気を失っていたことは明らかである。
追い詰められたヒトラーは、間断なく部下に質問し、先入観を持って自分に都合よく解釈し、命令を下してはすぐにそれを取り消した。怒りを爆発させ、処刑を命じ、最後に最も信頼していた部下の裏切りを知ると深く絶望し、結婚式を挙げたばかりの妻と一緒に死を選んだ。
ヒトラーは「われわれは滅亡するかもしれぬ。だがその時は一つの世界を道連れにしてやる」と宣言している(Fest, 2004, まえがき)。彼が核のボタンを押さなかったたった一つの理由は、幸いにして、彼がまだ核を手に入れていなかったからである。
この例から分かるように、今すぐに、世界中の為政者たちから核兵器を取り上げて、未来永劫に封印してしまわないと、取り返しのつかないことになる。
第2の楽観的な前提は、人為ミスやシステムの誤作動、あるいは不慮の事故といった偶発的事象は核兵器に関しては起きないだろうというものである。しかし、偶発的な事象によって、あわや核戦争が起きそうになったり、核爆発が起こりそうになったりした事例が多数報告されている。
最も有名なものは、冷戦真っ只中の1983年9月26日に起きた「スタニスラフ・ペトロフ中佐の決断」と呼ばれる事例である。この日、モスクワ近郊の軍事拠点でスタニスラフ・ペトロフ中佐が当直勤務をしていると、人工衛星による監視システムが米国から合計5発の大陸間弾道ミサイルが飛来しているとの警告を発した。しかし、スタニスラフ・ペトロフ中佐は、(1)本当に米国からの先制攻撃だったらソ連側の反撃能力を一気に殲滅するために同時に無数のミサイルを発射してくるはずであること、(2)当時の人工衛星システムの信頼性はそれほど高くないと彼自身が感じていたこと、(3)数分経過しても地上のレーダーには反応がなかったことなどから、これはシステム・エラーだと自ら判断し、上官に報告しなかった(とされている)。これはソ連の軍服務規程に違反する行為だったが、もし彼が規程通り上官に報告していたら、米国に対する報復攻撃が命じられて、核戦争が勃発していたかもしれない。
後の調査によると、この警告は、上空の雲に反射した太陽光をシステムが誤ってミサイルだと判別したものだったようだ。なお、軍服務規程に違反したスタニスラフ・ペトロフ中佐は懲戒処分を受け、閑職に左遷された後に早期退役し、神経衰弱に陥ったと伝えられている。
「スタニスラフ・ペトロフ中佐の決断」は、実際の軍の意思決定に係る事案であるが、いわゆる不慮の事故によって核兵器があわや爆発しそうになった事例は複数発生している。いずれも米空軍で起きた事例だが、以下に時系列で追ってみる。
1961年1月24日、米南部ノースカロライナ州ゴールズボロ上空を飛行していた米空軍爆撃機B-52が、空中給油に係る偶発的な事象がもとで制御を失って空中分解した。搭載していた水素爆弾2発が地上に落下し、このうち1発はあとわずかな要因が加わっていれば核爆発する可能性が十分あったとされている。2発の水爆は、それぞれが広島型原爆の250倍以上の威力だったと言われている。
1966年1月17日、スペイン南部の上空で米軍機同士が衝突し、アンダルシア州アルメリア県クエバス・デル・アルマンソーラのパロマレス集落に水素爆弾3発が、近くの海中に水素爆弾1発が落下した。地上に落下した3発のうち1発は無傷だったが、残りの2発は、核爆発こそしなかったものの、起爆用の火薬の爆発によって破損し、飛散した大量のウランとプルトニウムが土壌を汚染した。海中に落下した1発は80日後に発見されサルベージされた。
1968年1月21日、核武装したB-52爆撃機をソ連国境沿いに空中待機させる「クロームドーム作戦」の任務のために、4発の水素爆弾を搭載し飛行していた米空軍爆撃機B-52が火災を起こし、グリーンランドのチューレ空軍基地付近の海氷上に墜落した。核爆発は起きなかったが、起爆用の火薬の爆発によって爆弾が破損し、大規模な放射能汚染を引き起こした。後に、水素爆弾4発のうち1発が未回収であることが報道されて大きな問題となった。
これらの事例が示しているように、核抑止の概念は非常に危うい基盤の上に構築された机上の空論であり、抑止どころか、逆に最も危険な導火線だと言える。
宗教と政治の関係は、どの社会においても単純ではない。宗教は人々に道徳的な指針や共同体の一体感を与える一方で、政治と結びついたときには、社会に新たな緊張や対立を生むこともある。現代のアメリカは、その一つの事例として考えることができる。
アメリカでは、キリスト教プロテスタントの一派である福音派が、近年とくに政治的な影響力を強めてきたと指摘されている。とりわけ共和党との結びつきが強く、保守的な政策に対する重要な支持基盤の一つとなっている。
福音派の特徴は、加藤喜之著『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』によると、聖書の記述を重視しそれを可能な限り文字通りに理解しようとする傾向や、終末論的な世界観を持つことなどが挙げられる(加藤, 2025, pp. 19–21)。また、アメリカの歴史や社会のあり方を宗教的な使命と結びつけて理解する考え方も見られる(加藤, 2025, pp. 80–87)。
こうした宗教的信念は、それが政治的な意思決定と強く結びつく場合には、異なる価値観を持つ人々とのあいだに緊張が生じやすくなる側面がある。近年のアメリカ社会における分断は、経済的格差、文化的変化、移民問題、メディア環境の変容など、さまざまな要因が複雑に絡み合って生じているが、そのなかで宗教は、人々の価値観や政治的選択に強い影響を与える要素の一つになっている。
したがって問題は、宗教そのものの是非というよりも、宗教的信念と政治的意思決定がどのように関係づけられるかという点にあると言えるだろう。
アメリカにおける福音派の政治的関与は、時代ごとの社会状況や政治課題に応じて複雑に変化してきた。加藤喜之著『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』に沿って、以下にその主な流れを示す。なお、これは特定の立場を批判するものではなく、宗教と政治の関係を理解するための一例として整理したものである。
このように見ていくと、福音派とアメリカ政治の関係は、単純な支持・被支持の関係ではなく、相互に影響を与え合いながら形成されてきたことが分かる。重要なのは、この現象を特定の宗教集団の問題として捉えるのではなく、宗教・政治・社会が交差する場面で生じるダイナミクスの一例として理解することである。
前節ではアメリカの事例について触れたが、近年世界各国で、移民制限・治安維持強化・自国優先主義を唱える政党が台頭している。ヨーロッパでは、ドイツの「ドイツのための選択肢」、フランスの「国民連合」、イタリアの「イタリアの同胞」、ポルトガルの「シェーガ」などが、日本では「参政党」や「日本保守党」がこれに該当するだろう。
3.15で紹介した、ロナルド・イングルハートの『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』は、こういった政党の支持者には伝統的な文化的価値観(=物質主義)を持つ年長者が多いと分析している。グローバリズムの進展によってこういった層の経済的地位が相対的に低くなったこと(端的には所得の減少)がその理由だと言う(Inglehart, 2018, p. 186)。ただ、最近の傾向を見ると、年長者だけでなく、若い層にもこういった傾向が出ているように感じる。
もっと根深い原因としては、4.8で列挙した誤作動があるのだろう。そして、政党側はこれらの誤作動を巧みに利用しているのではないだろうか。
移民制限も治安維持の強化も自国優先主義も、「自由で機能する社会」とはまったくベクトルの異なる価値観であるが、のちに述べるように、これらを社会が変わっていく過程で発生するゆらぎだと捉えることもできる。ゆらぎをよい変化に変えるには、私たち一人ひとりが誤作動の存在に気づくことが必要である。
第1部で見てきたように、すべての生物はその時々の環境に適応するように進化してきた。その環境のことを適応進化環境(Environment for Evolutionary Adaptation=EEA)と言う。
およそ20万年前にアフリカに出現した現生人類(ホモ・サピエンス)は、約7万年前にアフリカを出て、熱帯から寒帯まで地球上のあらゆる場所に広がったので、気候に関しては、これがヒトの適応進化環境だと特定できなくなった。それでも、概ね以下のような環境が、ヒトの適応進化環境だと言える。そして現代のヒトの遺伝子は当時からほとんど変化していない。
しかし、従来の突然変異+自然淘汰+遺伝による進化に代わり、言語を駆使し、直接経験していないことも知り、新しい文化を生み出すことによって、ヒトは進化のスピードを一気に加速させた。
その結果、現代社会の生活環境は、元々の適応進化環境から大きく乖離してしまった。これほど大きく急激な変化にヒトの適応が追いついていない事実が、現代人が抱える「生きづらさ」の根底にある。4.8で列挙した誤作動も、これらの不適応から生じている。
我々はもはや狩猟採集生活に戻ることはできないが、ヒトが適応してきた元々の環境がどんなものであったかを理解しそれに配慮することが、生きやすい社会、ひいては「自由で機能する社会」をつくるうえで重要である。
以上、第2部では、ヒトの過去の歴史において、「自由で機能する社会」を実現できなかった迷走ぶりを見てきた。これらの反省に立って、第3部では「自由で機能する社会」への道筋を考えていきたい。
第1部ではヒトが適応的に獲得した本性(=認知の傾向)が誤作動を起こしていることを、そして第2部では、過去の歴史における誤作動の具体例を見てきた。
それでは、われわれは、どうすれば「自由で機能する社会」に近づけるのだろうか。誤作動の影響がますます強まっている現代において、このままの延長線上にそのような社会が自然に実現するとは考えにくい。では、これから何を始めたらいいのだろうか。その道筋を示すのが第3部のテーマである。
まず第10章において「自由で機能する社会」の姿が垣間見られる具体的事例を、第11章においてそこに至る道筋のヒントとなる考え方を提示する。
そして第12章では、それらを踏まえた具体的な提言を行う。
社会全体が一つの方向に向かうのではなく、各人がそれぞれ自分なりの生き方をしていても、全体として秩序が保たれている社会とはどんな社会だろうか。第4章でヒトが国家という管理システムを作り上げていく過程を概観した時に参照したジェームズ・スコットは、国家や組織による上からの指示がなくても、ヒトには、互いに協力しながら秩序を形成する能力があり、このような秩序は、誰かが全体を設計して作り出すものではなく、一人ひとりの判断と行動が相互作用することによって自然に形成されると論じている(Scott, 2023, chs. 2, 6)。第10章では、このようなボトムアップの過程のヒントとなるような事例を取り上げながら、徐々に「自由で機能する社会」の姿を浮かび上がらせていく。
私たちが従来思い描いていたコンピューターシステムのイメージは、システムの中央に置かれた大型(汎用)コンピューターがすべての演算処理を担い、それ以外の機器はその指示に従ってあらかじめ決められた単一の処理(たとえば演算結果の出力など)を行うというものだったが、インターネットはそのイメージを覆した。
インターネットは、中央に司令塔のような機器がなくても、ネットワークに繋がったルーターやサーバーなどの各機器(ノードと呼ぶ)が相互に協調しながら個々の役割を果たすことによって機能している。膨大な数のユーザーが各端末からまったく異なる要求をしても、目的に適った応答が素早く返されている。
インターネット上で我々が普段よく利用しているのは、ブラウザで何か特定のサイトを閲覧することだろう。ブラウザのアドレスバーに、「https://www.kantei.go.jp/」と入力してenterキーを押せば、日本の首相官邸のWebサイトが表示される。これはどのような仕組みによって実現されているのだろうか。
「kantei.go.jp」というアドレス(ドメイン名)には、「kantei」という文字があるので、これは首相官邸のサイトだと分かるし、「go」は「government」の略、「jp」は日本のことだと想像がつく。このように、サイトのドメイン名には直感的に分かりやすい単語が使われているが、実はこのドメイン名はインターネット上の正式なアドレスではない。インターネット上で通信相手を識別する一意の(重複していない)アドレスはIPアドレスと呼ばれている。IPv4(※)の場合、IPアドレスは「123.456.789.123」といったように数字とピリオッドの組み合わせで表される。しかし、このような意味のない数字を暗記するのは難しいので、各IPアドレスに対応したもっと分かりやすいドメイン名が使われているのだ。
しかし、この場合、ブラウザのアドレスバーに入力したドメイン名に対応するIPアドレスを調べなければ、交信相手が見つからない。これを調べることを「名前解決(Name Resolution)」と呼んでいる。各端末からの要求に応えてIPアドレスを教えてくれるのは、インターネット上に無数に点在する「DNS(Domain Name System)サーバー」と呼ばれるサーバーである。
DNSサーバーはドメイン名とIPアドレスの対応表を持っていて、問い合わせがあったドメイン名がこの対応表にあれば、対応するIPアドレスを問い合わせ先に返信する。
しかし、インターネット上には膨大な数のサーバーがあるので、世界中の全てのサーバーが載った対応表を各DNSサーバーが持つのは不可能である。したがって、各DNSサーバーにはそれぞれが担当する範囲の対応表が保管されている。それでは、知りたいドメイン名の対応表を持っているDNSサーバーがどこにあるかは、どうやって探すのだろうか。
ドメイン名はいくつかの「.」で区切られているが、これによってドメインの階層が表現されている。「kantei.go.jp」の場合は、「jp」が最も上位の階層(トップ・レベル・ドメイン)で、その下位の階層が「go」、さらにその下の階層が「kantei」である。もう一つ、通常はドメイン名には書かないが、トップ・レベル・ドメインのさらに上位に「ルート・ドメイン」と呼ばれるドメインが存在する。
ルート・ドメインには全世界で13台のDNSサーバーがあり、そこにはトップ・レベル・ドメインにあるすべてのDNSサーバーが登録されている。そして、次の階層のDNSサーバーにはもう一つ下の階層のDNSサーバーが登録されており、このように下位のDNSサーバーを上位のDNSサーバーに登録することで、ルートドメインから順に下の方へ辿っていって、知りたいドメイン名が載った対応表を持っているDNSサーバーに辿り着くことができる。
見つかったDNSサーバーは、目的のドメイン名に対応するIPアドレスを問い合わせ先に返信し、これでようやく名前解決が完了する。とても面倒な作業のように感じるが、各DNSサーバーの協調によって、これらの作業はほとんど瞬時と言っていいスピードで行われる。
さて、名前解決によって相手サーバーの正式なアドレス(=IPアドレス)が分かったので、ここからようやく目的のWebサイトのHTMLデータの返信をリクエストする本来の交信が始まるが、それを細かく説明すると長くなるので、そのイメージをごく簡単に説明する。
送信されるデータはパケットと呼ばれる小さな単位に分割されたうえで、ルーターなどの機器を中継して、目的のサーバーへと送られていく。各ルーターは、インターネットの地図ともいうべき経路表(ルーティングテーブル)を持っていて、それに従って次のルーターへとパケットを転送する。この様子は、火事を消すためのバケツリレーをイメージするとよい。
当然のことながら、このルーティングテーブルが常に最新の状態でなければ役割を果たせない。テーブルを更新する方法には、手動で設定するスタティックルーティングと、ルーター間で情報を交換して自動的に更新するダイナミックルーティングがある。ダイナミックルーティングは各ルーターの協調によって実現されている。これらの内容を詳しく知りたい読者は、戸根勤著『ネットワークはなぜつながるのか 第2版』を読んでほしい(戸根, 2017)。
これまで見てきたように、インターネットに繋がったすべてのノードはIPアドレスという位置を持ち、別のノードからのリクエストに応じて最適な処理(転送や返信など)を行うという役割を持っている。
これらは電子的な情報の流れなので、これをすぐにリアルな人間社会に当てはめて考えることは難しいかもしれないが、人間社会においても本質は同じである。重要なことは、トップダウンの指示がなくても、ヒトは自律的に協力できるということである。「自由で機能する社会」とは、ヒトが自由な選択によって互いに協力しながら社会の問題を解決できる社会である。
(※)IPv4は、Internet Protocol version 4の略で、インターネットを利用してデータが正しい宛先に届けられるように、データが通るルートや住所を指定するための通信規約の4番目のバージョン。32ビット=約43億個のIPアドレスを指定できるが、IPアドレスの枯渇が問題となり、128ビット=約340澗のIPアドレスを指定できるIPv6が制定されている。
Linuxは、パソコンをはじめさまざまなハードウエアで稼働するオープンソースのオペレーティングシステム(狭義にはそのカーネル<=中核部分>)である。ワークステーションなどのオペレーティングシステムとして使われてきたUNIXをベースに開発されている(「UNIX互換」と呼ばれている)。
このLinuxカーネル開発の中心人物は、フィンランド出身のプログラマーのリーナス・トーバルズである。彼はヘルシンキ大学在学中の1991年頃から開発を始めて、インターネットで繋がる多くのプログラマーたちと共にLinuxカーネルの開発を進めてきた。
このような開発方法を目の当たりにしたプラグラマーのエリック・レイモンドは、これを「バザール方式」と名づけ、彼自身もFetchmailというオープンソースのソフトウエアの開発で、このバザール方式を試してみた。
従来のプログラム開発の常識は、レイモンドが「伽藍方式」と名づけた手法だったが、バザール方式は、その常識を覆したのである。その様子を詳細に著した彼の論文『伽藍とバザール』は、実際の開発の経験を基にした新しい協働スタイルに関した考察である(Raymond, 2000)。
当初彼は、「大規模で重要なソフトは、集権的でアプリオリなアプローチで伽藍のように組み立てなければダメであり、完成するまではベータ版も出さないようにしなければダメだ」と考えていたが、Linuxの開発スタイルはまったく逆であった。
リーナス・トーヴァルズの開発スタイルは、
であり、それは「まるで、いろんな作業やアプローチが渦を巻くでかい騒がしいバザールに似ている。そのような騒がしい場所から一貫した安定したシステムが生み出されてきた」のである(Raymond, 2000)。
それがどれほど違うのか?
【Linux以前の開発モデル】
初期バージョンはバグだらけで、それを使わされるユーザにも我慢の限界があり、そんなものはとうていリリースできないと考えていた。その場合、リリースは半年に一度(あるいはもっと間をおいて)になり、開発者はリリースの間はひたすらバグ取りに専念することになる(Raymond, 2000)。
【Linux開発モデル】
上記とは対照的に、「はやめにしょっちゅうリリース、そして顧客の話を聞くこと」がLinux開発モデルの最も重要な部分である。ベータテスタと共同開発者の基盤さえ十分大きければ、ほとんどすべての問題はすぐに見つけだされて、その直し方もだれかにはすぐ分かる。もっとくだけた表現をすれば「目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない」。これが「リーヌスの法則」である(Raymond, 2000)。
また、Linux開発モデルには、主体的に参加するメンバーのモチベーションを高める工夫もビルトインされている。レイモンドは次のように表現している。
リーヌスは、ハッカーやユーザたちをたえず刺激してごほうびを与え続けた。刺激は全体の動きの中で一員となることでエゴを満足させられるということ、ごほうびは自分たちの仕事がたえず(まさに毎日のように)進歩している様子である。
このようにも言っている。
オープンソース開発者たちはボランティアであり、自分のかかわるプロジェクトに興味を持ち、自薦により貢献することなった人たちであり、自主的に自分のリソースを提供してくれる。そして伝統的な意味で、マネージャが制御する必要性は、ほとんど、いやまったくない(Raymond, 2000)。
これはあくまでもプログラム開発の事例であり、一般的な協働には当てはまらないと考えるヒトがいるかもしれないが、これらの事例で示された合理性やモチベーションは、ヒトのあらゆる協働に当てはまり、「自由で機能する社会」を支える重要な基盤になりうる。さらに、この第10章の後の節で紹介する「交換様式D」や「アソシエーショニズム」とも、自己組織化という文脈で通じる概念である。
10.1、10.2とIT関連の話が続いたので、本節では話題を変えて、音楽に関する例を紹介したい。
オーケストラの演奏では、前列中央に指揮者が立ち、タクトを振るのが普通である。もし指揮者がいなければ、オーケストラ全体の統合がとれず、ヒトを感動させるような演奏はできないと思う読者が多いだろうが、これもそうではない。
ニューヨークのカーネギー・ホールを本拠とする「オルフェウス室内管弦楽団」は、指揮者のいない楽団である。音楽の殿堂ともいわれるカーネギー・ホールで定期的に演奏会を開催する一方、数多くの名演奏を音源として残し、グラミー賞を2度受賞している。
指揮者がいない代わりに楽員一人ひとりがリーダーの役割を果たしている独特の運営手法は、「オルフェウス・プロセス」と呼ばれている。その詳細は、2002年まで同楽団のエクゼクティヴ・ディレクターだったハーヴェイ・セイフターと編集者・ライターのピーター・エコノミーが著した『Leadership Ensemble(邦訳:オルフェウス・プロセス)』に詳しく紹介されている (Seifter & Economy, 2002 )。
オルフェウス・プロセスについて説明する前に、一般的なオーケストラの楽員の満足度について、とても意外な調査結果が同書に書かれているので、まずそれを紹介する。
一流オーケストラの楽員は音楽家として芸術的かつ創造的な仕事に携わっているのだから、さぞかし高いモチベーションを持ち、大きな満足感を味わっているのだろうと思われるが、ハーバード大学のJ・リチャード・ハックマン教授の調査によると、どうやらそうでもないらしい。独奏家(ソリスト)などごく一部のヒトを除くと、オーケーストラの楽員の仕事に対する満足度はとても低い。
その理由は、指揮者を頂点とした強固で融通のきかないヒエラルヒーと、そのなかで一つの駒として演奏することを余儀なくされる職場環境にあるという。何かを提案する機会も、自らのキャリアを伸ばす機会もほとんどなく、そのような環境下で楽員は欲求不満と失意を感じているという。
コントラバス奏者でオルフェウス創立メンバーの一人であるドナルド・パルマは、指揮者のいる別のオーケストラで1年間演奏した体験を次のように語っている。「私の唯一の価値は、そこに腰をおろして優秀な兵士になることだというような扱いを受けた」(Seifter & Economy, 2002, p. 46)。
このような従来型の運営方針の対極にあるのがオルフェウス・プロセスである。プロセスの概略は以下の通りである(Seifter & Economy, 2002, p. 28)。
演奏する楽曲ごとに「コア」と呼ばれる5人から10人のメンバーを選出し、リーダー・チームを形成する。
コア集団は、選んだ楽曲をどう演奏するかを決めるために集まり、能動的にさまざまな演奏法を試みて、その曲の全般的な演奏法を検討する。
その作品の演奏法について合意が成立すると、コア集団はそれをオーケストラ全体に伝え、そこからさらにリハーサルを重ねて仕上げの段階に入る。演奏家から、曲の解釈に関する意見や、同僚の演奏に対する意見などが出される。時には、オーケストラの各パートに分かれ、表現法、テンポ、バランスなどの音楽的ニュアンスについて話し合うこともある。
どんな演奏会でも、その直前にごく一部のメンバーが代表して、ステージの自分の席から客席に降りる。オーケストラ全体による実際の演奏を聴いたうえで、最後の調整と仕上げを行う。
最終段階の演奏会が終わった後に、メンバーはその曲のさらなる改良点について話し合う。
オルフェウス・プロセスでは、指揮者がいる場合に比べると、とても長い時間をかけて民主的に演奏法が決められているのがよく分かる。このようなプロセスを進めるにあたって、次の8つの原則が守られているという(Seifter & Economy, 2002, p. 32)。
ヴァイオリニストのロニー・パウチは、オルフェウスの成功ついて、「その秘訣は、多様な考え方や意見をすべてうまく調整できることにある」と述べている(Seifter & Economy, 2002, p. 45)。権力の分散によって生まれる多様性こそが、オルフェウスの基盤なのである。
オルフェウス・プロセスは、民主主義の代表的なプロセスと言われている投票とも本質的に違っている。投票の場合は一票を投じたらそれで役割が終わるのに対して、オルフェウス・プロセスでは最終的な演奏の出来栄えに一人ひとりが責任を負っている。
なお、指揮者のいないオーケストラは日本にもある。それは、東京を拠点に活動する「東京アカデミーオーケストラ(TAO)」であり、この楽団でもオルフェウス・プロセスが採用されている。
インターネット上で世界中のヒトが利用している無料の百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」は、ジミー・ウェールズ、ラリー・サンガーらによって2001年に設立された。ウィキペディアを運営する費用は、9.2で取り上げたような広告料収入によってではなく、多くのヒトからの寄付によって賄われている。
ウィキペディアの前身はヌーペディア(Nupedia)という営利目的の百科事典だったが、記事を厳格に審査していたために、記事の数があまり増えなかった。こうした局面を打開するために、不特定多数のユーザーがブラウザから共同で編集できる「ウィキ(Wiki)」と呼ばれる編集システムを採用したところ、これを契機に活動が活発化し、多言語で大規模な百科事典へと発展していった。
ウィキペディアに中央集権的な仕組みにはなく、編集長もいない。そのかわりに、ボランティアたちのコミュニティが形成され、互いに協力し合って記事が編集されている。
その理念やルールは、「自由で機能する社会」の姿を考えるうえで示唆に富んでおり、特に、意見や立場の違いを乗り越えて協力する仕組みは、現代社会において深刻化する分断と対立を回避するためのヒントになる。
誰でも自由に記事を作成し編集できるということを裏返せば、対立が表面化する危険を孕んでいるということである(意見や立場の違いが生じやすい分野においては特に)。最悪の場合、いわゆる「編集合戦」に陥ることもありうる。「Wikipedia:編集合戦」によると、編集合戦とは「ノートでの話し合いによらず、他者の編集について互いに取り消しや差し戻しを繰り返し、自分の編集を押し通そうとすること」である(Wikipedia, 2025)。
編集合戦は、信頼される良質な記事を協力して作り上げようという目的にとっては、非常に深刻な事態であり、いち早く編集者の間に合意を形成し、このような事態を避けなければならない。ウィキペディアの共同創始者ジミー・ウェールズは、「合意は共通の目的のために積極的に作業する関係者間の協力です」と言っている(Wikipedia, 2025)。
ウィキペディアには方針とガイドラインが定められているが、特に重要なものは以下の「五本の柱」と呼ばれる基本原則である。(Wikipedia, 2025)
まず、ウィキペディアは何であって、何でないかを明確にしているのが1.である。これが明確でないと、無意味な対立が起きる危険がある。
ウィキペディアは百科事典であって、以下のようなものではないと明確に記載されている。
また、ウィキペディアという「場」は、次のようなものでもないと言っている。
次に、記事の内容に対して複数の観点が存在する場合には、どれかに偏った記述はせず、できればその背景も含めて複数の視点を併記するなど、中立な観点に基づいて編集することを求めているのが2.である。
3.は権利に関する項目なので省略するとして、編集合戦を避けるために最も重要な項目は4.である。たとえ意見の対立があっても、相手に敬意を払い、個人攻撃や抽象論を振り回すことは避け、冷静さを維持することが求められている。
日本語版のガイドラインには、無益な編集合戦を避けるための「スリー・リバート・ルール(three-revert rule)」というのもある。これは「利用者は24時間以内に3度を超えて同じページ上で差し戻し(リバート)をしてはならない」というものである。
そして5.では、上記以外にルールはないので、大胆に編集を行ってくださいと締めくくっている。
編集者たちは、このような基本原則を理解したうえで、「ノートページ」あるいは「ノート」と呼ばれる管理ページを使って、「記事内容への質問や感想の投稿、加筆や修正についての提案・議論、編集内容の要約の補足説明、スタイルに関する記事固有のルールについての相談」(Wikipedia, 2025)などを行っている。
第10章のここまでの節で、トップダウンではない協働の進め方を見てきたが、実は自然界には、トップダウンの力が働かなくても、要素間の相互作用によって自己組織化(self-organization)が起こる事例がたくさん存在する。たとえば、渡り鳥の群れがきれいな隊列を組んで飛んでいく様子を目にすることがあるだろう。隊列を組んで飛ぶことによって、空気抵抗や気流の乱れを避け、単独で飛ぶよりも少ないエネルギーで飛ぶことができるのだそうだ。この場合、群れのなかにリーダー的な存在の鳥がいて、他の鳥に指令を出しているわけではない。各々の鳥が隣を飛ぶ仲間との位置を随時調整しながら飛んでいる結果、きれいな隊列が自己組織的にできるのである。
第10章で見てきたこれらすべての事例において、次の10.5で紹介する「動的情報」の交換が交わされていると言ってよい。
金子郁容は慶応義塾大学の名誉教授で、情報組織論やネットワーク論が専門の工学博士(Ph.D.)である。しかし、彼の活動範囲はもっと広く、慶應幼稚舎の舎長(校長)を務めたことがあったり、ボランティアという言葉がまだ広まっていない頃から積極的にボランティア活動に参加していたりもする。
金子が1992年に著した『ボランティアーもう一つの情報社会―』は、もちろんボランティアに関する著述であるが、この本で彼が言いたかったことの核心部分は、ネットワーク上で交わされる情報の特徴と、それによって形成されるつながり(関係性)である。
ボランティアの本質を、金子は次のように述べている。
ボランティアとは、困難な状況に立たされた人に遭遇した時、自分とその人の問題を切り離して考えるのではなく、相互依存のタペストリーを通じて、自分自身も広い意味ではその問題の一部として存在しているのだという、相手へのかかわり方を自ら選択する人である(金子, 1992, p. 111)。
ボランティアは、誰かに指図されてするのではなく、自らすすんで行うものであるから、その結果が自分自身にふりかかってくるという「つらさ」を伴う。これを金子は「自発性のパラドックス」と呼んでいる。
「ボランティアとしてのかかわり方」を選択するということは、自発性パラドックスの渦中に自分自身を投げ込むこと、つまり、自分自身をひ弱い立場に立たせることを意味する。この「ひ弱い」、「他から攻撃を受けやすい」ないし「傷つきやすい」状態というのをぴったりと表わす「バルネラブル=vulnerable(名詞は「バルネラビリティ=vulnerability」)という英語の単語がある(金子, 1992, p. 112)。
そして、このバルネラビリティこそが、ボランティアの可能性の源であると述べている。ボランティアがあえて自分をバルネラブルにする理由を金子は以下のように説明している。
それは、問題を自分から切り離さないことで「窓」が開かれ、頬に風が感じられ、<中略>意外な展開や、不思議な魅力のある関係性がプレゼントされることを、ボランティアは経験的に知っているからだ(金子, 1992, p. 112)。
さらに同書は「動的情報」について説明しているが、これは「自由で機能する社会」にとってきわめて重要な鍵となる概念なので、以下に、原文のまま列挙する。
- 情報というものはすでにどこかに「あるもの」と考えるのが、静的情報の考え方である。それに対して、情報とは相互作用のプロセスの中から「生まれてくるもの」とするのが、動的情報の考え方である(金子, 1992, p. 122)。
- 静的情報の考え方に準拠すれば、情報は、どこからか手に入れてくるものであり、それには、対価を支払うなどのコストがかかることになる。したがって、手に入れた情報はなるべく人に見せないように隠し、情報を独占しようとすることが重要であるということになる。<中略>静的情報は、既存の枠組みの中で、効率的にことを処理するには寄与する。しかし、既存の枠組みを変化させる力にはならない(金子, 1992, p. 122)。
- それに対して、動的情報に関して重要なことは、隠すことではなくて、進んで人に提示し、それに対して意見を言ってもらい、つまり、相手から情報をもらい、相手から提示されたその情報に対して、今度はこちらから自分の考えを提示する……というやりとりの循環プロセスを作り出すことであるというのが、動的情報の考え方だ。<中略>世の中の既成の枠組みを動かし、新しい関係を切り開き、新しい秩序を作ってゆくのは動的情報である(金子, 1992, p. 122)。
- その人がそれを自分にとって「価値がある」と思い、しかも、それを自分一人で得たのではなく、誰か他の人の力によって与えられたものだと感じるとき、その「与えられた価値あるもの」がボランティアの「報酬」である(金子, 1992, p. 150)。
- 人が何かに価値を見出すかは、その人が自分で決めるものである。他人に言われて、規則できまっているから、はやっているからという「外にある権威」に従うのではなく、何が自分にとって価値があるかは、自分の「内にある権威」に従って、独自の体験と論理と直感によってきめるものだ。その意味で、価値を認知する源は「閉じて」いる(金子, 1992, p. 151)。
- ボランティアが、相手から助けてもらったと感じたり、相手から何かを学んだと思ったり、誰かの役に立っていると感じてうれしく思ったりするとき、ボランティアは、かならずや相手との相互依存関係の中で価値を見つけている。つまり、開いていなければ「報酬」は入ってこない(金子, 1992, p. 151)。
- ボランティアの「報酬」は、それを価値ありと判断するのは自分だという意味で「閉じて」いるが、それが相手から与えられたものだという意味で「開いて」いる。<中略>新しい価値は「閉じている」ことと「開いている」ことが交差する一瞬に開花する(金子, 1992, p. 152)。
- 分断され、巨大システムによって支配されている人々を、現代社会において新たにつなぎ直すための一つの有力なアプローチが、動的情報の発生を支援するネットワークであると思う(金子, 1992, p. 198)。
開かれたネットワークで交わされる動的情報が新たな関係性を作り出し、そこから新たな価値が生み出される。「自由で機能する社会」は、このような動的情報が活発に交わされる社会である。
3.11で紹介した「トロッコ問題」を最初に考案したフィリッパ・フットは、美徳や道徳的性格を主要な主題として扱う「徳倫理学」の礎を築いた一人と言われている哲学者である。
フットの考える「自然的な善さ」とは、ある生物種において、進化によって形成された「生のあり方」が、その生息環境条件のもとでうまく機能している状態を差す。つまり、その生物の本性に根差した生のあり方が実践されていることを言う。もちろんこれは、ヒトについても当てはまる(Foot, 2014, pp. 56–75)。本稿の言葉で言えば、適応的に形成されたヒトの心理が慢性的な「誤作動」を起こしていない状態に近いと言えるだろう。
また、幸福と自然的な善さの関係については、幸福は快楽や満足だけを意味しているのではなく、幸福の深さが「善さとしての幸福」と関係していると言っている。つまり幸福とは、善いものを楽しむこと、正しい目的を成就し追及することを楽しむことなのである(Foot, 2014, p. 180)。
このようなフットの主張を、本稿の文脈に沿って整理してみよう。
これらは扇動や同調でも増え、誤作動を増長する可能性がある
つまり、ヒトという種の生のかたちをよく実現している状態である。
誤作動が慢性化している社会では、人々の幸福は短期的な快楽や一時的な満足に偏りやすくなる。一方、誤作動が修正された社会では幸福は深くなりやすく、深い幸福を実感しているヒトの割合も増える。
「自由で機能する社会」は、ヒトという種の主な形質が、現在の情報環境のもとで慢性的誤作動を起こしにくい社会のフェーズであり、言い換えれば、深いところで無理をしていない社会である。
そのような社会では、個体レベルで「自然的な善さ」を感じているヒトの割合が増加する。これは、社会レベルでの自然的な善さの増大と捉えることもできる。
8.2で予告したように、ルソーは『エミール、または教育について』において、道徳の根拠をヒトの内面にある「良心」に見出している。また、前節10.6でみたフリッパ・フットの「自然的な善さ」は、生物としての機能に根ざしたものである。本コラムでは、ルソー、フット、そして本稿の立場を比較し、その関係を整理する。
ルソーの「良心」は主体の内面に現れる道徳的感覚であり、道徳の根拠を主観に求める立場である。なお、このようなルソーの思想は、【コラム4】で触れたイマヌエル・カントにも強い影響を与えたことが知られている。一方でフットの「自然的な善さ」は、生物の機能に基づく客観的評価であり、道徳を自然的機能の観点から捉える試みである。両者は、主観(内面)と客観(機能)という異なるレベルに位置しながら道徳の自然化を試みているが、その前提とする人間観は大きく異なる。
本稿の立場からすれば、ルソーの「良心」もフットのいう「自然的な善さ」も、いずれも進化の過程で形成された認知的・行動的機能として統一的に理解される。そして現代社会における道徳的混乱は、これらの機能が現在の環境において適切に働いていないこと、すなわち進化的ミスマッチの一例として捉えることができる。そのうえで本稿は、自由の制約要因となっている「誤作動」の存在を認識し、それを更新することで自由を拡張することを目指している。
この関係を整理したものが【図表10】である。
3.4の最後に少し触れように、チンパンジーが自尊心に起因する凶暴性を持っているのに対して、ごく近縁のボノボにはまったく凶暴性がない。
ボノボはピグミー・チンパンジーとも呼ばれ、チンパンジーより体が小さい以外は、ほとんど区別がつかないないほど両者はよく似ている。ヒトとチンパンジーが共通祖先から分岐した後、今から150万年〜300万年前にチンパンジーとボノボが分岐した(再度【図表3】大型類人猿の系統樹 を参照)。
チンパンジーとボノボはごく近縁な種だが、それぞれの社会には下の表のような大きな違いがある。
上記のような違いが生じた根本的な理由は、メスたちの同盟関係にある。チンパンジー(オラウータンやゴリラも同じ)のメスたちは、オスの暴力に対して効果的な対抗策を進化させることができなかったのに対して、ボノボのメスたちは同盟(相互支援のネットワーク)を作ることによってこれに対抗し、かつては父権制だった社会を、オスとメスが対等で寛容さを持つ社会に変えていった。
ヒトとチンパンジーとボノボは、遺伝子型はほとんど同じなのに、それぞれの表現型は大きく異なる。このことからも遺伝子決定論が間違いであることが分かるが、逆に、自らの選択によって遺伝子の誤作動を修正し、社会を変えていけることも示している。ボノボの平等で平和な社会と対比しながら、ヒトの社会がどこでどう道を誤ったのかを考えることが重要である。
前節のボノボの例から、遺伝子による進化のプロセスを経由せずに、ヒトも社会を変えていけることが分かる。ここでもう一度、3.15で触れたイングルハートの『文化的進化論』の内容に立ち返りたい。イングルハートは、100カ国以上を対象とした「世界価値観調査」に先立って、次の5つの仮説を立てている。(Inglehart, 2018, p. 25)。このなかで 4. が特に重要である(太字は本稿著者による)。
(*「コーホート」とは、共通した因子を持ち、観察対象となる集団のこと)
ここで特に注目したいのは、価値観の変化がある閾値を超えると新しい価値観が一気に世の中の主流となる顕著な事例として、「ジェンダー間の平等や離婚、中絶、同性愛をめぐる規範」を挙げている点である(Inglehart, 2018, p. 89)。
「ジャンダー間の平等」は、私自身が企業に40年以上勤務したなかで見てきた女性の社会進出の実感とも合致する。1982年に私がある会社に就職した時には、管理職や役員へのキャリアパスがある「総合職」は男性、定型的な事務に携わる「一般職」は女性という区分けが明確になされていたが、その数年後に初めて女性が総合職として採用された。その後いろいろな紆余曲折があったと想像するが、現在では女性の管理職が千名近くになり、女性の役員も複数誕生している。
新しい価値観が世の中に広まるには長い時間がかかるが、ある閾値(のちの節で述べる「分岐点」)を超えると、変化は一気に進行する。
第10章のこれまでの節によって、「自由で機能する社会」の姿が徐々に浮かび上がってきたのではないだろうか。いよいよこの節では、「自由で機能する社会」の具体的な姿を予測してみたいと思う。誤解のないように言っておくが、これは設計図ではない。当初は適応的だった形質の誤作動が修正されるような社会のあり方を、現在の視点から仮に描いたものである。
【多様な自由が尊重される社会】
5.4で引用したジョン・スチュアート・ミルの『自由論』のなかの言葉をもう一度引用する。
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害しないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。人が良いと思う生き方を他の人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。(Mill, 2012, p. 36)
人間が不完全な存在である限り、さまざまな意見があることは有益である。同様に、さまざまな生活スタイルが試されることも有益である。他人の害にならない限り、さまざまの性格の人間が最大限に自己表現できるとよい。誰もが、さまざまな生活スタイルのうち、自分に合いそうなスタイルをじっさいに試してみて、その価値を確かめることができるとよい。(Mill, 2012, p. 138)
ここで重要なことは、自由は個別的・属人的で多様なものであり、各人が自分なりに「これこそが自由だ!」と感じるものであるという考え方である。したがって、「自由一般」なるものはどこにもなく、社会全体が一つの方向を目指す必要はどこにもない。大切なことは、「私は自由だ!」と感じるヒトの割合(仮に「自由頻度」と呼ぶことにしよう)が増えていくことである。これは進化の定義が「集団中の遺伝子頻度の時間的変化」だという考え方を当てはめれば、社会が進化するとは自由頻度が変化することである。
【国境がなく為政者もいない社会】
宇宙から地球を見ると、地球儀に描かれているような国境のラインはどこにもない。国境は約5000年前に始まった為政者たちの勢力争いの結果引かれたものであり、一般の民とはなんの関係のない境界である。しかし実際には、国境によって隔てられた2つの国の民は、違う為政者によって統治され、権利や義務の内容に大きな差がある場合が多い。まったく偶然に、ある国の地下には有用な資源が埋蔵されていたり、あるいは農作物の栽培に適した気候や土壌の条件が備わっていたりするが、本来地球上の資源はすべての生物(ヒトだけではない)が平等に利用できるものであるはずだ。
8.3では、権力とは、ヒトから自由を奪い取って自分だけ利益を得ようと目論む暴力(「権力」=「権益」を奪い取る「暴力」)だと述べた。権力は本質的に悪であり、正統な権力など存在しない。われわれは「主権」という言葉の意味を取り違えているのではないだろうか。本来の主権とは一人ひとりが自分なりの自由を追求する権利であり、「国家主権」のような言い方は誤った主権の解釈に基づくものである。
来るべき「自由で機能する社会」においては、すべての権力者がその座から降り、すべての国境が消滅するのではないだろうか。
【伽藍構造がヒトを苦しめないバザール型の社会】
現状、すべてのヒトがなんらかの伽藍型組織(=ピラミッド型組織)に所属するか、あるいはなんらかの伽藍型組織の影響の下で生きている。伽藍型組織は内集団の一種であり、集団外部との間にさまざまな垣根を作ることによって、その存在が維持継続されている。
伽藍型組織に所属する者は、自分自身の人格とは別に、組織人格を持つことを要求される。これにはペルソナ(仮面)を付け変えるという難易度の高い作業が必要であり、ヒトを精神的に追いつめることがある。最も深刻な事態に至ると、組織人格と自身の倫理的規範との葛藤に耐えられずに、自ら死を選ぶもある。
これに対して、バザール型組織と外部とを隔てる垣根はなく、参加するかしないかは本人次第であり、いくつものバザール型組織に同時に参加することも可能である。バザール型組織は参加者に組織人格を要求しない。参加者は、一個の主体として、あるがままの自分として参加可能である。ヒトは小規模な集団で狩猟採集生活をしていた時代に進化した認知の枠組みによって何らかの集団に所属したいという欲求を持つが、バザール型組織はその欲求も満たしてくれるだろう。また、このような場でやり取りされる情報は、すでにどこかに書かれている静的情報ではなく、生きた動的情報である。
「自由で機能する社会」は、無数のバザール型組織が百花撩乱するバザール型の社会になるだろう。「伽藍から抜け出してバザールを開こう!」がその合言葉である。
【すべてのヒトが位置と役割をもつ社会】
もう一度10.1で紹介したインターネットの相互依存的な仕組みを思い出してほしい。インターネット空間における各ノードの位置はIPアドレスとして一意に決まっている。これは、クローズドな内集団における位置ではなく、グローバルでオープンな空間における位置である。
そして、上からの指示に従うのではなく、各ノードが近くのノードと自律的に協調しながらその役割を果たしている。各ノードは対等であり、それを支えているのは信頼関係である。
「自由で機能する社会」に暮らす独立した主体としての個人は、国や会社や団体といった閉鎖的な組織における位置ではなく、地球上のグローバルな空間に、唯一無二の存在としての位置を持つ。「私」という存在は、地球上に「私」だけなのである。
そのうえで、ヒトは複数のオープンなバザール型組織に主体的かつ自由に参加し、それぞれの組織において自分の役割を果たす。第5章で触れたように、こうした自由には責任が伴う。
従来われわれは、○○株式会社、○○団体、○○省、○○軍といった固定的で排他的な組織の一員となることに慣らされてきた。それゆえ、バザール型組織のような、柔らかくゆるやかに幾重にも重なって繋がる組織をイメージしづらいかもしれないが、「自由で機能する社会」においては、ヒトの位置と役割が従来型の組織の上に固定されることはないだろう。
【「限りなく透明なガラス箱」の外に広がる本当の社会】
7.7では、北沢方邦の言葉を借りて、ヒトの意識の実体が「限りなく透明なガラス箱」の内側に映し出された像や、あるいは科学の文字であることを示した。ヒトは外部環境を直接知覚することはできず、知覚器官が「限りなく透明なガラス箱」の内側に映し出した像や文字を通じてしか、外界を知ることはできない。
それは認知の特性として仕方がないことであるが、本当の世界は限りなく透明なガラス箱の外に広がっているのだということを、イメージして忘れないことが重要である。
哲学や科学の過去数千年の歴史において、ヒトは、透明なガラス箱の内側に書かれた像や文字を見て、これが世界の本当の姿であると勘違いしてきた。
「自由で機能する社会」に住む人たちは、社会やそれを取り巻く自然の実体が「限りなく透明なガラス箱」の外側に広がっていることを正しく認識しているだろう。もちろん、学問もその前提に立っているだろう。
【投機的行動や富の偏在が生じにくい社会】
9.1や9.2で見たように、ヒトには貪欲に蓄財しょうとする傾向があるが、地球上に流通しているお金の90%以上が投機マネーだという状況、そして、1秒間に数えきれない程の売買を行って利鞘を稼ごうとする状況は、もはや常軌を逸していると言わざるを得ない。
経営者が桁外れに高い報酬を受け取る事例が散見されるが、その報酬額の根拠が不明確である。あくまでも個人的な感覚であるが、ある組織において、最も重要な役割を担っているヒトと、一般的なヒトとの報酬の差は、2倍以内が妥当ではないだろうか。それでは経済活動の意欲が削がれてしまうではないかという意見もあるだろうが、それはまったく筋違いである。本来、経済活動の原動力は社会的ニーズを実現したいという使命感であり、それこそが今まで述べてきた各個人の役割である。
一方で、役割を果たしたくても、さまざまな事情によって、それができないヒトもいる。そのような場合でも生存権が保障されるように、セーフティネット的な仕組み(たとえばベーシックインカムなど)も必要だろう。それでは、その財源はどうするのか?世界中に極端に偏在する富を平準化すれば、十分すぎる財源が得られるのではないだろうか。
こうした社会像を安定的に維持する条件として、トマ・ピケティによる資本収益率と経済成長率の不均衡に関する議論や、アンソニー・アトキンソンによる不平等是正のための累進課税・相続課税の強化といった提案がある。これらは、資本の集中が自然に進行する傾向を前提としたうえで、その累積を制度的に調整しようとする試みである。
ただし本稿の関心は制度設計そのものではなく、社会が長期的にどのような「力学」によって安定した状態へと移行しうるかという点にある。その観点から見ると、富の極端な集中を緩和する仕組みは、意図的な統制としてではなく、長期的な循環過程の一部として理解することができる。すなわち、世代をまたぐ時間スケールにおいて富が一定程度再分配される構造が、社会が自己組織化するための条件の一つとして位置づけられる。
【ヒトの適応進化環境(EEA)に合った社会】
ヒト(ホモ・サピエンス)の遺伝子は、狩猟採集生活をしていた数万年前からほとんど変化していない。にもかかわらず、およそ1万年前を起点に、ヒトの生活様式や社会のあり方があまりに急激に変化したので、今の社会はヒトの適応進化環境(EEA)から大きく乖離してしまった。
今から狩猟採集生活に回帰することはもちろんできないが、ヒトの適応進化環境(EEA)がどのようなものだったかに思いを巡らせて、ヒトの本能に優しい生活様式を心がけることが、現代社会の生きにくさを和らげる最も有効な手立てとなるだろう。
【必要最低限のルールしかない社会】
10.4で見たように、ウィキペディア(Wikipedia)の基本原則「5本の柱」の5番目は、「上の4つの原則の他には、ウィキペディアには、確固としたルールはありません」である。
同様に、「自由で機能する社会」には必要最低限のルールしかない。それは、ヒトを殺したり、ヒトを傷つけたり、ヒトの自由や権利を奪ったりしないというルールであり、言い換えれば、「己の欲せざる所は人に施すなかれ」ということである。
しかし、ヒトがそれぞれ自由を追求すれば、そこに衝突が生じるのは不可避である。それを回避する方法は、あらかじめ明文化されている一律の法律によってではなく、当事者同士の(ときには仲介者も加えた)対話に基づいて、ケース・バイ・ケースで行われる調整である。この対話こそが、動的情報のやり取りである。「自由で機能する社会」は、最低限のルールしかない社会になるだろう。
「自由で機能する社会」の姿をいろいろと予測してきたが、このような社会においては、自由・自然的な善さ・深い幸福を感じるヒトの割合が増えるだろう。何度も繰り返し言ってきたことであるが、これは、「集団中の遺伝子頻度の時間的変化」という進化の定義とよく似ている。
ただ、トップダウンによる統制が効いていない、こんな行き当たりばったりの社会がうまく機能するはずがないと考える読者が多いかもしれない。また、これだけ大きな社会変革をトップダウンの力によって行おうとすると、かなり大きな摩擦が生じ、分断と対立が激化することは必至だろう。
次の第11章で、トップダウンの力によらない別の道筋を提示していきたい。
この第11章では、新しい「自由で機能する社会」が立ち上げる可能性とその根拠について述べる。その足がかりとして、ヒトが世界をどのように「予測」しながら行動しているかという認知的メカニズムについて検討し、さらに、それらが「ゆらぎ」となってマクロな社会を更新していく動的なメカニズムを検討する。
10.9では、「自由で機能する社会」がどのような形で成立しうるかについて、いくつかの大胆な見通しを示した。こうした社会像は、外的な力によって設計され構築されるのではなく、ヒトの認知の働き方(特に予測)を出発点として自然に立ち現れるのではないだろうか。それを、認知哲学者アンディ・クラークの『経験する機械』を参照しながら徐々に明らかにしていく。
近年の認知科学では、ヒトの認知は外界からの情報を受動的に受け取るのではなく、むしろ世界に対する「予測」をあらかじめ構築し、その予測と実際の感覚情報との予測誤差(prediction error)を通じて知覚や行動を調整していると考えられている(Clark, 2025, pp. 26-27 )。このような枠組みは「予測処理(=Predictive processing)」として知られており、近年の認知科学における有力な理論の一つである。2.11と4.8の図表で示した内的モデルは、まさにこのような認知の前提となる基本構造である。
この枠組みにおいて重要なのは、知覚や思考が「感覚情報の処理」ではなく、「予測の検証過程」として理解される点である。すなわちヒトの脳は、世界の状態について確率的なモデルを持ち、それに基づいて次に起こる出来事を事前に予測している。そして実際に得られた感覚情報は、その予測との差異として処理される。この過程には、どの予測誤差がどの程度重要なものとして扱われるかという評価の枠組みが存在し、脳は単に誤差を検出するだけでなく、それをどのように更新信号として扱うかを調整しながら働いているのである。この考え方に立てば、脳は「予測する機械」だと捉えられる(Clark, 2025, p. 20 )。
このとき、予測と現実の間に生じる予測誤差は単なるノイズではなく、むしろモデルを更新するための重要な信号として働く。ヒトの認知システムは、この誤差を最小化する方向へと継続的に調整されることで、環境との整合性を維持している。
それでは、このような予測処理の枠組みと、4.8で列挙した誤作動(evolutionary mismatch)の概念とは、どのように関連しているのだろうか。それを2.11でみた内的モデルと関連づけながら説明したいが、その前に少し立ち止まって、予測誤差の制御の失敗がさまざまな精神疾患を発症する事例を見ておきたい。
11.1で述べた予測処理の枠組みが不安定化すると、臨床的には、機能性障害、自閉スペクトラム症、統合失調症などの精神疾患を発症することがある。次節に進む前に、予測誤差の制御が破綻したときに何が起きるのかを、『経験する機械』(アンディ・クラーク)に基づいて概観しておきたい。
クラークは、これらの精神疾患の本質は「精度(precision:予測誤差の重みづけ)の問題」であるとしている。症例ごとに、その状態を見ていきたい。
従来「痛み」は、侵害受容性疼痛(傷を負ったときなどに生じる適応的な痛み)と精神障害性疼痛(痛覚情報を処理する感覚系に影響を及ぼす損傷や疾患によって引き起こされる痛み)に分類されていたが、これに加えて、痛覚変調性疼痛(対応する組織の損傷や病理の存在を示す明らかな証拠がないにも関わらず、痛覚シグナルの異常な処理によって生じる痛み)という第3のカテゴリの痛みが注目されるようになってきた(Clark, 2025, p. 62 )。
この第3の痛みにおいては、痛みに関する予想によって経験される痛みの程度が大幅に変わる。これは、患者や被験者が何を予測するかと、自分自身の身体にいかに注意を向けるかの両方に依存する。そして、その精度(precision)に関する脳の見積もりが経験の構築に統合的な役割を果たし、脳が信頼に足ると見積もった予測だけが、感覚に強力な影響を及ぼすのである。さらに、痛みの強さに対する予想が長期にわたる一種の自己充足的予言と化して、別の自己強化の悪循環をもたらすことがある。誤った予想はひとたび根づくと、ますます変わりにくくなって慢性化するのである。
予測処理が機能不全に陥る場合、次の2つのパターンが考えられる(Clark, 2025, p. 87 )。
従来、自閉スペクトラム症(ASD)の原因は前者だと考えられていたが、最近では、到来する感覚的証拠の能動的な過大評価が関与していると考えられるようになってきた。患者は、自己の身体と外界の両方から到来する非常に突出して感じられる感覚情報の嵐に四六時中見舞われており、このために、より日常的で包括的な感覚情報の特定が妨げられるのである。
うつ病は、予測処理の観点から見ると、ネガティブな予測が強く固定され、それを修正するための予測エラーシグナルが十分に機能しない状態として理解することができる。本来であれば、予測と異なるポジティブな結果が得られた場合には、その予測エラーシグナルを介して予測モデルは更新されるはずである。しかしこの更新が適切に行われないことで、悲観的な予測が維持され続けると考えられる。さらにこの状態では、行動そのものが抑制されるため、新たな予測エラーシグナルを獲得する機会自体が減少し、その結果として予測モデルの修正可能性がさらに低下するという悪循環が生じる(Clark, 2025, p. 148 )。
統合失調症の特徴的な症状である幻覚と妄想は、誤って生み出された予測エラーシグナルから生じると考えられている。このシグナルは脳の奥深くへと伝播され、そこで重要なニュースを伝えるものとして扱われる。これは車のダッシュボード上の故障した警告灯と似ていて、注意を向けるべきものは何もないにもかかわらず、「すぐに行動しろ」と声高に叫ぶのである(Clark, 2025, p. 94 )。
現実との区別が困難なフラッシュバック、過度の不安、回避行動などの症状は、生命を脅かす突然のできごとが予期される特定の引き金に対する過敏さ、言い換えれば、予測エラーシグナルの精度に基づく重みづけの異常な増大によって起きると考えられている(Clark, 2025, p. 97 )。
これらの事例は、精神疾患が「誤った知覚」ではなく、「予測誤差の重みづけ構造の異常」として理解できることを示している。ヒトは外部や身体からの情報をありのままに知覚しているのではない。私たちの経験は、予測と感覚的証拠のあいだの精度に基づく重みづけのバランスの変化を反映しており、その意味では、意識的・無意識的な予測の産物だと言える。
11.1の最後に予告したように、4.8で列挙した誤作動を予測処理の枠組みに沿って説明していきたい。それは、単なる機能不全ではなく、環境の変化や複雑化に対して、既存の予測モデルの更新が十分に行われず、予測誤差が適切な更新信号として利用されない状態だと捉えることができる。言い換えれば、「精度(precision:予測誤差の重みづけ)」の推定が状況に応じて適切に更新されず、特定の誤差が過大または過小に評価され続ける状態を指す。そして、このような精度の偏りは、誤差が更新信号として機能するか、あるいは固定的な信念やノイズとして処理されるかを左右する。
たとえばヒトは、相手がヒトでなくても、擬人的に意図や評価を仮定してしまう強固で持続的な傾向を持っている(4.8で述べた【誤作動Ⅰ】)。感情を持たないAIとの対話においても、「しつこいと思われるのではないか」「無視すると関係が悪化するのではないか」といった反応が自動的に生じることがあるが、これは対人関係を予測する認知モデルがAIに対しても過剰に作動しているためである。このような傾向は、社会的相互作用を前提として形成されたヒトの認知の特性として、更新されることなく常に存在している。
それでは、予測モデルがすぐに更新されないのはなぜだろうか。その理由を2.11や4.8で述べた内的モデルの理論を参照しながら段階的にみていきたい。
まず第1段階として、予測誤差の更新は、予測のズレとして認識されるような感覚信号を受信するところから始動する。ところが、外部との動的情報のやり取りが少ない集団(たとえば、排他的で閉鎖的な伽藍型組織や、フィルターバブルやエコーチェンバー現象が生じているインターネット空間など)では、実態的には予測のズレが発生しているにもかかわらず、それが誤差として感覚信号にのぼってこない可能性がある。これでは、予測誤差の更新プロセスが始動しない。
第2段階として、人は一度ある予測モデルを形成すると、そのモデルを前提として再帰的に世界を知覚するようになる。つまり、一度強力な予測モデルが根づくと、それ以前と同じように世界を見ることは困難になるのである。このことは、アンディ・クラークが『経験する機械』で紹介しているFIFAワールドカップブラジル大会のロゴの例からも理解できる(Clark, 2025, p.186 )このロゴは「手のひらで顔を覆っているように見える」と批判されたが、一度そのような見方をすると、もはやそのようにしか見えなくなってしまうのである。これは単に「考え方が変わる」という意味ではない。予測モデルは、感覚情報を解釈する枠組みそのものとして機能するため、モデルと一致しない情報が入力された場合でも、その情報をモデルの誤りとして認識するとは限らない。むしろ、既存のモデルを維持するように情報を解釈することがある。
第3段階は、内的モデルの種類に関わっている。4.8の【図表6】では、どの内的モデルが優位に立っているかによって、誤作動を「外界志向モデル優位型(世界理解に関する誤作動)」「自己モデル優位型(自己評価・不安・地位に関する誤作動)」「ハイブリッド型(複合的な誤作動)」に分類した。
ここで問題となるのは、主体性や帰属感の基盤となる「自己モデル」が関与している「自己モデル優位型(自己評価・不安・地位に関する誤作動)」と「ハイブリッド型(複合的な誤作動)」である。この場合には、自分の思考や行動が再び自分自身の入力として再帰(フィードバック)される。こうした再帰構造の中では、予測の精度(precision:予測誤差の重みづけ)の推定そのものもまた自己参照的となり、その評価は身体状態・情動・経験・文脈に依存して形成されることになる。つまり、自らの予測を前提として次の行動が決定されるため、一度生じた「予測のズレ」は認知されにくく、固定化・構造化されてしまう可能性が高くなる。再帰構造が固定化すると、予測誤差は外部からの更新信号ではなく、自己モデルを維持する情報として処理される。その結果、誤作動は内面化される。
この階層的な再帰構造を理解する上で重要なのが、2.11でグラツィアーノが指摘している「注意スキーマ(attention schema)」である。注意スキーマとは、注意の対象やその変化を単純化して表象する内的モデルであり、実際の複雑な情報処理過程とは異なる「要約された注意の物語」を生成する。このモデルは、注意そのもののメタ表現として機能し、われわれが「何かに気づいている」という感覚を生み出す基盤の一部を形成している。
さらにこの観点から見ると、社会的混乱や価値観の衝突といった現象は、各人の認知システムが持つ予測モデルが、それぞれ異なる環境経験に基づいて形成されていることの帰結だと理解できる。つまり、同一の現実に対して、複数の異なる予測モデルが並立することで、ズレが構造化されて分断と対立が生じているのである。
以上を踏まえると、誤作動の発生には複数の階層が関与していることが分かる。ここまでの分析を総合して再定義すると、誤作動(evolutionary mismatch)は、「内的モデル(internal model)および自己モデル(self-model)に基づく予測構造と、環境との間に生じる持続的なズレ」として理解できる。以下の【図表12】に、これらの関係を俯瞰的に示す。この図は、2.11で提示した【図表2】と4.8で提示した【図表6】を、予測処理理論に基づいて統合した最終形である。
しかし、これらのズレは必ずしも否定的なものではない。予測誤差は更新の契機であり、新しい環境への適応可能性を生み出す源でもある。この意味で、誤作動は単なる障害ではなく、システムの再構成を促す条件でもある。この提言の目的に関連づけて考えると、誤作動(=予測誤差の慢性的な蓄積)は、それを解消して社会を更新する引き金であると捉えることができる。この更新に必要な「気づき」という心の動きについては、次の11.3で述べることにする。
さらに、次々節11.4で扱う「散逸構造」は、このようなミクロレベルの予測と誤差のダイナミクスが、いかにしてマクロな社会秩序や自己組織化された構造を生み出すのかを考えるためのものである。すなわち、個々の認知的予測のゆらぎが、どのようにして安定した秩序の生成へと転化しうるのかという観点である。
11.1では、ヒトの脳が世界に対する予測をあらかじめ構築し、その予測と実際の感覚情報との誤差を通じて知覚や行動を調整しているという予測処理理論を紹介した。また、11.2では、予測誤差と誤作動の関係、および誤作動が「構造化されてしまう」理由を考えた。
重要なのは、このとき誤差は「存在していない」のではなく、「存在しているにもかかわらず、処理の対象として顕在化していない」という点である。すなわち、誤差は認知システムの内部で吸収され続けることで、意識的な対象としては立ち上がらないのである。それでは、このような状態から「気づき」はどのように生じるのだろうか。
予測処理理論の観点から見ると、「気づき」とは単なる誤差検出ではなく、誤差を一段上位のモデルが「観察対象として表象する」現象である。このとき重要なのは、誤差そのものではなく、誤差の処理過程を含めてモデル化するメタ的な視点の生成である。すなわち、気づきとは「誤差の存在」ではなく、「誤差の処理過程そのものを対象化する、注意スキーマと自己モデルの協調的なモデル更新」を意味する。
この「気づき」と類似した構造は、他者認知においては「認知的共感」として現れる。すなわち、他者の行動や感情を単に観察するのではなく、他者の内部状態を内的モデルとして再構成し、その予測誤差を含めてシミュレーションする能力である。この意味で認知的共感とは、自己モデルにおける気づきの構造を、他者モデルへと拡張したものとみなすことができる。
しかしこのようなメタ的視点は、常に容易に成立するわけではない。予測処理システムは本質的に効率的であり、誤差は可能な限り迅速に吸収されるよう設計されている。そのため、誤差が持続的に観察対象となるためには、通常の誤差処理ループから離れ、誤差が再評価の対象となる契機が必要となる。
この契機とは、予測モデルの更新が一時的に停止するのではなく、更新すべき対象として誤差が上位モデルに取り込まれる状態である。この状態において初めて、誤差は単なるノイズではなく、「意味を持つもの」として経験されうる。
このように考えると、「気づき」とは、予測誤差が単なる補正対象から逸脱し、システム自身の構造を対象化する臨界的な転換点であると捉えることができる。
そしてこの臨界点を超えたとき、システムは安定した予測状態を維持できなくなり、より大きな再編成、すなわち次節で扱う「ゆらぎ」の段階へと移行することになる。
3.14で触れたヒトの心や行動の変化はミクロの視点に立っている。また、11.1、11.2、11.3で導入した予測処理の枠組みも、個々人の認識というミクロなレベルに立脚している。その一方で、3.15と10.8で紹介した『文化的進化論』は、国単位の価値観の変化の測定というマクロの視点に立っている。では、ミクロとマクロをつなぐ理論的枠組みがないだろうか。この両者の橋渡しをするものとして、イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造(dissipative structure)」に着目したい。
散逸構造とは、熱力学的に平衡ではない(釣り合っていない)開放系に現れる構造である。そこではエネルギーが外部から供給され、同時に散逸していく。その流れのなかで、要素間の相互作用によって自己組織化(self-organization)が生じ、一定の秩序が保たれる。散逸構造の要件は以下の通りである。
散逸構造においては、ゆらぎの大きさがある閾値(分岐点)を超えると、これまでの構造を維持できなくなり、新しい安定な定常解(=新しい秩序)が生まれる。これは、今まで存在できなかったあり方が、現実的な選択肢として立ち現れることを意味している。
プリゴジンは、不可逆過程には、構造のあるものは壊れて一様化に向かうという消極的な面だけでなく、マクロな状態に一定の持続性を与えるという積極的な面があり、むしろエントロピー増大が構造を生み出すと言っている(Prigogine, 1997, p. 56)
プリゴジンは生命現象も散逸構造であると言っており、彼から直接指導を受けた北原和夫も著書『プリゴジンの考えてきたこと』のなかで、身の回りで起きている大部分の現象は、物質やエネルギーの移動が維持されている非平衡現象であり、我々自身のような生命現象も非平衡系における散逸構造とみなすことができると説明している(北原, 1999, p. 95)
さらに、マサチューセッツ工科大学の物理学部准教授ジェレミー・イングランドは、外部からエネルギーを受け取っている非平衡系ではエネルギー散逸をより多く生み出す配置が統計的に優勢になりうるという理論に基づいて、生命や進化の物理的基盤を説明しようと試みている(England, 2020, P. 181)。
ヒトの社会も、情報とエネルギーが絶えず流入・散逸している開放系である。上記のように進化を非平衡物理の枠組みから再解釈しようとする試みがあるならば、生命活動の延長として生まれた社会も同様の力学のもとにあると考えることができないだろうか。
抽象的に見える散逸構造の概念も、文化進化(cultural evolution)と対応させることで、ミクロとマクロを繋ぐ構造として理解することができる。
10.8では、特に「世代間の価値観変化がついにある閾値に達すると、新たな規範が社会的に優勢となる……」という4番目の仮説に着目した。
これは散逸構造の分岐点付近での振る舞いととても似ている。下記の【図表14】散逸構造と文化進化の対比表は、社会が変容していく様子を、散逸構造と文化進化において、それぞれの用語で説明している。
結局のところ、社会は誰かの設計物ではなく、自己組織化する非平衡系だと見なすことができる。各人の気づきから生まれる微小なゆらぎは、通常は減衰するが、それがある分岐点を超えると、ゆらぎは増幅へと転じる。そこから自己組織化が始まり、新しい秩序が形成され、やがて社会全体が変容する。社会変革は設計の産物ではない。非平衡状態にある社会に生じたゆらぎが、閾値を超えたときに起こる自己組織化の結果である。
ここで過去に目を向けて、ヒトの歴史上の大きな転換点である「王の誕生と戦争の始まり」を、散逸構造の理論に沿って説明してみよう。4.8で列挙した誤作動はどれも、狩猟採集生活時代に獲得された適応的な形質が、定住や農耕・牧畜の開始を機に起こった急激な環境変化に適応できずに引き起こされたものである。これらの誤作動は、当初は各人の認知のゆらぎにすぎなかったが、ヒトとヒトとの相互作用によってそれが徐々に大きくなり、ゆらぎが分岐点を超えた時に新しい秩序としての社会構造が出現したのである。その様子を下の【図表15】にまとめた。
過去にこのような大きな転換が起こった事実を裏返せば、現在の社会構造は固定されたものではなく、別のゆらぎによって新しい社会構造が出現しうると考えても、あながち論理の飛躍とは言えないだろう。今存在している誤作動に対する各人の気づきは、それ自体が社会の変化の契機となりうるのである。
散逸構造の最も単純な例である「ピッチフォーク分岐(熊手型分岐)」について以下に説明する。この例は、今まで一通りしかなかった安定な状態が、ある限界を超えると、2つ(またはそれ以上)の安定な状態に分かれてしまう現象である。
「ピッチフォーク分岐」を、最も単純で標準的な数式で表すと、以下のような非線形常微分方程式になる。
\[\frac{dx}{dt} = \mu x - x^3\]
左辺の \(\frac{dx}{dt}\) は、時間の経過(\(t\))に伴う、\(x\)の時間微分(時間の経過とともに \(x\)どれだけ速く増減するか)を示している。
右辺の\(\mu x - x^3\)のうち、\(\mu x\)は「線形項」である。\(\mu \)は比例的な成長の定数であるが、単なる数学的定数ではなく、系に外部から与えられる負荷や流れの強さ(例えば、温度差、エネルギー流、社会的圧力など)を表している。
一方、\(- x^3\)は\(x\)値が大きくなるにつれて成長を抑制する方向に働く「非線形項」である。
したがって、上記の方程式の意味は「\(x\)の変化率は、ある成長要因と、成長に伴って強まる抑制要因の差によって決まる」というものである。
「定常解(固定点)」とは、時間が経っても変化しない(つまり\(\frac{dx}{dt} = 0\) になる)解のことを言い、ピッチフォーク分岐においては定常解に関して次のような現象が現れる。
分岐前:パラメーターがある値より小さい(または大きい)場合、1つの安定な定常解(しばしば自明解\(x = 0\))のみが存在する。
分岐点::パラメーターが臨界値に達すると、この定常解の安定性が変化し始める。
分岐後: パラメーターが臨界値を超えると、元の定常解は不安定化し、その代わりに、元の解から枝分かれするように2つの新しい安定な定常解(非自明解)が対称的に出現する(この形がピッチフォークに似ている)。ここで現れる秩序構造は、外部からのエネルギー供給(\(\mu \))がある限り維持されるが、それが失われれば再び消滅する。この意味で、これは「静的な平衡構造ではなく、散逸によって支えられた構造(散逸構造)」だと言える。
このことの物理的意味は、
\(\mu < 0 \):\[x = 0 (無秩序・一様状態) \]
\(\mu > 0 \):\[x = \pm\sqrt{\mu} (秩序構造の出現) \]
この時、ゆらぎは以下のように表現できる。
\[\delta x(t) \sim e^{\mu t} \quad (\mu > 0)\]
\(\delta x(t)\)は、\(x \)の時間平均値からの瞬間的な変動成分(ずれ)を表す表現。\( \sim e^{\mu t} \quad\)は、それが時間の経過とともに予測不可能なほど急激に拡大していくことを示している。
つまり分岐点を超えると、それまで無視できた微小なゆらぎが増幅され、どの秩序が実現するかを事後的に決定する(法則は結果を一意には定めない)。
<まとめ>
11.4では、散逸構造の理論に基づいて、トップダウンではなく要素間の相互作用(=ゆらぎ)によって新しい秩序が自己組織化する過程について述べた。これと同じように、国家を単位としたトップダウンの統治とは異なる形で秩序を構想する試みは、近代以前からあった。
たとえばカントは、法と公共性に基づく「世界市民(コスモポリタン)」という概念を提示し、国家の枠組みを越えた関係性のなかで秩序が成立しうる可能性を構想している。(Kant, 2013)。
現代おいては、哲学者で思想家の柄谷行人が、社会のあり方、交換様式、その問題点を次のようにまとめている(柄谷, 2006, pp. 20–23)。
(*「互酬」とは原始共同体や部族社会に見られる「贈与と返礼」に基づく人間関係)
そして、現代社会は「資本=ネーション=国家」が相互に補完し合っているので、そのどれかを改革しても社会は根本的に変わらないというのが柄谷の指摘である。
そのうえで、これらを超えるものとして、無償的で非排他的な互酬を原理とする「交換様式D」と、そうした原理に基づく自発的・機能的結合の形態である「アソシエーショニズム」を構想している(柄谷, 2006, pp. 38–39)。これは、国家や市場に回収されることはなく、共同体内に閉じてもいないという。
ただし、柄谷自身は、交換様式Dは制度として設計できるものではないとしているので、具体的な生成プロセスについては必ずしも詳述していない。
もう一つ、誤解を避けるために付け加えておく。柄谷は交換様式Dを「普遍宗教」と関連づけて論じているが、本稿は宗教的信仰や超越的存在を前提とする立場ではない。本稿では、交換様式Dを超越的根拠に依拠しない世俗的プロセスとして理解する。
交換様式Dは、その底流において、ボランティアとも、動的情報のやり取りとも、さらにはバザール型組織とも通じる概念である。いずれも、トップダウンの統治ではなく、要素間の相互作用から秩序が立ち上がるという意味で、自己組織化の原理に基づく社会のあり方を示唆している。ただし、バザール型組織が主として個々の協働の実践モデルであるのに対し、アソシエーショニズムは社会全体の構造を構想するものである。本稿の目的は社会理論の体系化ではなく、ミクロな認知過程とマクロな社会構造の間にある力学的枠組みの提示にある。その意味でこの交換様式Dは、本稿の理論を補強する思想的参照例の一つとして位置づけられる。
これまで述べてきた気づきとそこから始まる小さな行動変化を交換様式Dと関連づけて考えると、気づきや行動変化が社会の中で芽生え、伝播していく過程を考えるための一つの手がかりと捉えることができる。社会の変化は、構想として提示されるのではなく、人々の考え方や行動の変化として、局所的に立ち上がるのである。
下の【図表16】は、既存の交換様式のもとで生じる「小さな気づき」が、SNSを媒介として可視化・共有され、累積して、やがて社会的分岐へと進む過程を模式化したものである。「普遍的互酬の断片」とは、交換様式Dの原理が制度化以前の形で局所的に現れている状態を指す。
いよいよ提言を述べるが、それが有効に機能するためには、もう少し準備が必要である。本章の12.1と12.2がその準備であり、12.3と12.4が提言の本体である。
提言の前に、重要な事柄を振り返りたい。それは、4.8で列挙した当初は適応的だった形質の誤作動である。「自由で機能する社会」が自己組織化によって出現するためには、これらの誤作動に気づくことが何よりも重要であるので、もう一度確認したい。
これらの誤作動は非平衡系(散逸構造)に現れるゆらぎであり、それに気づくことによってゆらぎが増幅され、やがて分岐点を超えていく原動力となるはずである。
ヒトは、言語によって文化を形成することにで、遺伝子の変化を経由しない新しい進化の方法を手にしている。ヒトには自由意志があり、自らの選択によって遺伝子の束縛を振り解くことが可能である。ドーキンスは著書『利己的な遺伝子』の第11章の末尾に「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」と書いている(Dawkins, 1991, p. 256)。これから述べる提言は、この「自己複製子の専制支配に対する反逆」にほかならない。
すでに9.2で見てきたように、インターネット上で提供されているサービスは、その運用形態がかなり歪な形になってしまっている。提言の内容を有効に機能させるためには、それを早急に修正する必要がある。この件に関してだけは、既存の仕組みの設計変更が必要だと言える。
本来SNSは10.5で触れたような動的情報が交わされる場であり、気づきのような緩慢で、多方向で、可逆性を持った低エネルギーの情報が交わされる場として期待されていた。しかし、現在のSNSでは、分断・敵意・恐怖・排外主義を煽るような、急激で、二分化され、不可逆的結果を生みやすい高エネルギーの情報ばかりが増幅され拡散されている。
この原因の一つは、「広告料収入によって提供されている無料サービス」に伴う極端な商業主義だと考えられるが、誤解のないように付け加えると、インターネット上で金儲けをしてはならないと言っているのではない。正々堂々と料金を徴収するビジネスのほうがシンプルで健全だと言いたいのである。最近は定額制料金(サブスクリプション)が、さほど抵抗なく受け入れられるようになってきている。
インターネット空間がささらに拡張していく領域として、メタバースが期待されている。メタバース上に「自由で機能する社会」のモデルを構築できれば、多くのヒトに具体的なイメージを伝えることができるのではないかと思う。そのためにも、メタバースが「広告料収入によって提供されている無料サービス」というビジネスモデルに毒されないことを願ってやまない。
SNS上で誤情報や悪意のある情報が大量に拡散される状況の改善がすぐには期待できない以上、今最も求められているのは、「社会に広がっている情報・ニュースや言説が事実に基づいているかどうかを調べ、そのプロセスを記事化して、正確な情報を人々と共有する営み」、すなわち「真偽検証(=ファクトチェック)」である(ファクトチェック・イニシャティブ, 2025)。
インターネットの普及によって世の中を駆け巡る情報量が桁違いに拡大した今、ファクトチェックは世の中の健全性を支える最も重要な基盤となりつつある。その成否がヒトの未来を左右すると言っても過言ではない。
それに加えて、検索エンジンなど多くのヒトが利用するサービスは、どのような権力からも独立した非営利的な組織で運営されることが望ましい。たとえば、検索結果の表示順序を恣意的に変えることで、世論を自分たちに都合のいい方向に誘導することも可能だからである。
特に生成AIには、ヒトの心のように道徳的基準が内包されておらず、それが外付けの学習内容に依存するため、為政者・権力者・有力者などが自分に都合のいい基準を密かに忍ばせることも可能である。したがって、学習内容やアルゴリズムに対して中立な第三者による定期的に監査が行われることが望ましい。
閲覧履歴などの影響で表示される情報が偏ってしまう「フィルターバブル」への対策には、次のような工夫が考えられる。
SNSにおいて、自分と似た意見や価値観を持つヒトとのやり取りが繰り返されるなかでその考えが増幅される「エコーチャンバー現象」は、分断と対立を激化させやすく、その副作用は検索エンジンのフィルターバブルよりもいっそう深刻である。分断と対立が生み出すゆらぎは、鋭くて破壊的で、ヒトを破滅的な方向に向かわせるリスクを孕んでいる。これに対して、ヒトの気づきを起点とするゆらぎは、柔軟で建設的で、破滅的暴走に対する安全弁にもなるが、残念ながら現在のSNSの環境では、それらはかき消されてしまう。
エコーチャンバー現象を緩和するためには、友達登録やフォローしたヒトの記事以外に、さまざまな立場で書かれた記事がタイムラインに並置されるようなアルゴリズム上の工夫が必要だろう。さらに、そのような工夫の仕様が公開されて、利用者がそれを理解することが重要である。
9.2の最後に書いたように、われわれが人工知能(AI)やその他の情報サービスのメリットを享受できる高度な情報社会を築くためには、地球上の有限な資源の問題も含めた持続可能性が確保される必要がある。
よくよく考えてみれば、人工知能(AI)やその基盤のデータセンターは、電力の供給を受けて、熱や音を散逸する過程で、情報や知識といったまとまった構造を生み出しているので、散逸構造の一種だとみなすことができそうである。それならば、抱えている問題(=ゆらぎ)が分岐点を越える時に、新しい解が見出される可能性が高い。
私はこの分野の専門家ではないので、ほんの思いつきレベルの話になるが、その解は10.1で紹介したようなインターネットの成り立ちの原点、すなわち中央集権的でない分散処理にあるような気がする。
2004年に開始され今も続いているWorld Community Grid(WCG)というプロジェクトがある。世界中のコンピューターの未使用の処理能力を活用して、ヒトゲノム、HIV、デング熱、筋ジストロフィー、癌(がん)、インフルエンザ、エボラ出血熱、ジカウイルス、バーチャルスクリーニング、米作の収量、クリーンエネルギー、浄水、COVID-19など、広範な研究分野のデータ分析を行なってきた。
こういった分散処理の考え方を、人工知能(AI)にも転用できないだろうか。それが実際にエネルギー効率の面で優位であるかどうかは専門的検証を要するが、情報処理の構造を分散化する発想は、少なくとも非平衡系の安定性を高める一つの方向であるように思われる。
(1)〜(4)の環境整備がうまく進めば、インターネット空間は多種多様な考え方に触れることができる交流の場に変わっていくはずである。そしてその効果は、人口が減少し始めている先進国よりも、人口が急増しているグローバル・サウスなどの地域のほうが大きい。今後インターネットの利用者になっていくたくさんの若者に、多様な考え方の存在を提示して、気づきを促すことができるだろう。
この提言の最終的な目標は10.9で予測した「自由で機能する社会」の実現であるが、かといって、強い力で世の中全体を一気に変革しようとしているのではない。急に変革を進めようとすると、必ずそれに反対する勢力が現れて深刻な分断と対立が生じることは、これまでのヒトの歴史が示している。
また、宗教(とりわけ一神教)の問題も、特定の宗教や時代に限られたものではなく、ヒトの認知のあり方に関わる普遍的な現象として捉える必要がある。
さらに、5.4や10.9で述べたように、自由の基準は各人の心の中にあるので、社会全体を変えたとしても、それによって一人ひとりの自由が拡大するとは限らない。変えなければならないのは社会全体のあり方ではなく、一人ひとりの考え方や行動のほうと言えるだろう。
もしあなたが社会や価値観に違和感を覚えているなら、それは特別なことではなく、自然な反応かもしれない。
一人ひとりが、気づきによって考え方と行動を変え、それが世の中に広がり、次の世代へと受け継がれていく。その結果として、いつの間にか社会が変わっていた!というゆるやかな変化こそが、分断と対立を生まない変化の形である。これは全体としては世代をまたぐような緩やかな変化であるが、10.8や11.3で見た通り、分岐点付近では一気に変化が進行するだろう。社会変化は直線的ではなく、長い停滞のあとに分岐点で急激に進むことが多い。複雑系の研究ではこのような変化は「相転移」あるいは「ティッピングポイント」と呼ばれている。
さらに重要なことは、他のヒトから教えられたり指示されたりするのではなく、各人が自分自身で考える過程で、誤作動の存在に気づくことである。したがって、本稿は最終的に、どうすればヒトの気づきを促進できるかというテーマにたどり着く。
ここでいう「気づき」とは、単に新しい知識を得たり、自分の誤りを認識したりすることではない。それは、11.3で述べたように、自分が世界をどのように理解しているのか、その理解の枠組みそのものを対象化することである。例えば、自分がある意見に強い反発を感じたとき、その意見の内容だけを見るのではなく、「なぜ自分はこれほど強く反応するのか」「自分はどのような前提に基づいて相手を判断しているのか」と問い直すことである。また、自分が当然だと思っている価値観や判断基準について、それが普遍的な事実なのか、それとも自身の経験によって形成された一つの見方なのかを検討することも含まれる。
つまり、自分自身の認知の過程を観察対象にすることで、これまで無意識に維持されていた予測モデルと現実とのずれが認識され、新たな理解や行動の変化が可能になる。他者を理解する場合にも、相手を単に「間違っている存在」と見るのではなく、自分とは異なる経験や予測モデルを持つ存在として捉え直すことができる。つまり気づきとは、世界を変える前に、自分がどのような枠組みを通して世界を見ているのかに気づくことである。
そして、このような気づきを促進してくれるのが、前節12.2で述べた環境整備が実施された後のインターネットと、それを基盤に運用される検索エンジンやSNSなどのサービス、そして近年急速に発達した人工知能(AI)、さらにメタバースである。これらは、分岐点で変化を加速する媒体である。
インターネット上で交わされている情報は、10.5で触れたように、金子郁容が『ボランティア もうひとつの情報社会』の中で述べている動的情報である。動的情報は、「進んで人に提示し、それに対して意見を言ってもらい(つまり相手から情報をもらい)、相手から提示されたその情報に対して、今度はこちらから自分の考えを提示する……という相互作用の循環プロセスによって生み出される情報」である(金子, 1992, p. 122)。
この動的情報のやり取りが、対面での会話や文通といった従来の方法とは桁違いの頻度と密度で可能になったのが、インターネット上のコミュニケーションの最も重要な特性である。そして、この特性のなかにこそ、気づきを可視化し、静かに伝播させ、結果として社会を変えていく力が潜んでいる。
12.2で述べたインターネット空間の環境整備ができたならば、その環境下で、次世代を担う子どもたちに以下の4項目(たった4項目だけ!)を伝えたい。これが本提言の核心部分である。
1.と2.はヒトとして最低限守るべき倫理である。3.は気づきと生むための習慣であるが、括弧書きの内容は教育現場において特に重要である。いわゆる「択一問題」は、物事には必ず正解が存在するという錯覚を子どもたちに与えてしまうので絶対にやめてほしい。
4.についてはもう少し補足説明が必要である。生物学や進化心理学や認知科学の研究は日進月歩で、その膨大な研究成果がすでにインターネット上にアップされている。これらが一神教の信者の目にとまる機会は多いだろう。しかし、ヒトの社会のさまざまな理不尽な事象の根本原因が、当初は適応的だった形質の誤作動だという視点は、あまり論じられていない。ドーキンスは、「宗教的な行動は、別の状況では有益な、あるいはかつては有益だった、私たちの心理の奥底にある性向の誤作動、不幸な副産物なのかもしれない」(Dawkins, 2007, p. 256)と指摘しているが、(私の知る範囲では)宗教以外の誤作動にまでは言及していない。私は、宗教以外の理不尽な事象についても、それは誤作動によるものだという視点をもっと広げるべきだと考えており、本稿をできるだけたくさんのヒトに読んでほしいと思っている。
そのためには本稿を、少なくとも英語に翻訳することが不可欠である(非ネイティブを含めて英語を話す人口は約15億人と言われている)。さらに可能ならば、他のさまざまな言語にも翻訳したい。
また、本稿は、一貫して無神論かつ進化論の立場で書いているので、敬虔な一神教の信者には俄かには受け入れ難い内容だろう。だから、翻訳するに当たっては、一神教の信者が読んでも「ああ、なるほど!」と気づいてもらえるように論理を展開する必要がある。
ただ、これは非常に難しい作業であり、私の個人的な能力の範囲を超えている。だから、できるだけ多くの賛同者の力をお借りして、この難しい作業を前に進めていきたいと願っている。あるいは、同じような趣旨が表現されている、もっと分かりやすい文章や映像があれば、それを広く世の中に広めたい。
本稿の提言はこれで完結した訳ではない。社会と同様に、読者との対話を通じて今後も更新され続けることを望んでいる。
宗教の布教が「神の教えを広める活動」だとすれば、この作業は「ヒトに気づきを促す活動」である。世界中で100人が気づきによって行動を変えれば、その何十年後かには分岐点がやってくるかもしれない。
ただし、これが最も重要な点であるが、気づきは誰かが計画して配布するものではない。社会は、気づいたヒトが、気づいた場所で、小さく振る舞いを変えることによってのみ変えることができる。
10.9で述べた「自由で機能する社会」は、歴史上のどんな社会とも、そして現代社会とも、著しく異なる姿をしている。それゆえ、『インターネット空間の環境を整備して、そこで4項目を伝え、あとは自己組織化の力に任せるだけで、ほんとうに「自由で機能する社会」が実現できるのか?』と思っている読者も多いことだろう。
この疑問に答えるために、「自由で機能する社会」への道筋をイメージしてもらえるような物語を【付録・思考実験】として提示する。これは、一人ひとりの気づきを出発点として、新しい社会が自己組織化していく物語である。
もちろん現時点ではフィクションにすぎないが、近い将来、これらが現実となることを願ってやまない。
21世紀初頭のある日、ある国に、女の赤ちゃんが生まれた。両親は彼女に「α」と名づけた。
「α」が生まれた国は、代々王家が支配してきたが、「α」が生まれる100年前くらい前に共和制に移行した。しかし、政権争いが続き、汚職も頻発して、政治は安定しなかった。また近隣の国とは、領土をめぐって長く対立が続いていた。
「α」の両親も、近所の住人たちも、ある一神教を信仰していた。「α」は両親に連れられて毎週教会に通ううちに、神の教えをごく自然に信じるようになった。
「α」は好奇心旺盛で、さまざまな事柄に関心持った。特に、家の近くの公園で見かける小さな生き物たちに強い関心を示し、誕生日のお祝いに買ってもらった図鑑を調べて、その生き物の名前が分かると目を輝かせて喜んだ。
「α」の両親は、女子には高等教育は不要と考えていたが、「α」はもっと学びたいと願っていた。義務教育の最後の年に、「α」は上の学校にいきたいと願い出たが、両親は反対した。親の言うことに逆らえず、「α」は卒業と同時に工場で働き始めた。
18歳になったとき、「α」は両親の勧めに従って結婚した。相手は24歳で、同じ教会に通っていたので、お互いの家族みんなが顔見知りだった。結婚して半年後、「α」は妊娠した。
ちょうどその頃、緊張状態にあった隣国との国境付近での衝突をきっかけに、相手国が突然宣戦布告をし、国境を超えて攻め寄せてきた。「α」の国も応戦し、激しい戦闘が繰り返された。「α」が住む街も空爆され、たくさんの住民が亡くなった。
「α」の国では徴兵制が始まり、健康で若い男性はすべて入隊することになった。「α」の夫も戦場に赴いた。一方、身重の「α」は、戦火を逃れるために母の実家がある地方都市に疎開し、疎開先で女の赤ちゃんを出産した。赤ちゃんは、夫の出征前に相談して決めてあった「β」と名づけられた。
その後、戦争は一進一退のこう着状態となり、数年が経過したある日、「α」のもとへ夫の戦死を知らせる通知が届いた。「α」は何日も泣き続けたが、幼い子供を育てるために、力強く生きていく決心をした。
さらに数年後、他の国々の仲介もあって、戦争状態にある隣国との間で講和条約が結ばれた。しかし、「α」が少女時代を過ごした故郷の町は、隣国の領土になってしまった。故郷を失った「α」は、疎開していた地方都市に住み続けて、工場で働きながら「β」を育てた。「α」も、自分の両親と同じように、週に一度「β」を連れて教会に通った。
12歳になった「β」は、母親が少女時代に使って背表紙が擦り切れている図鑑を譲り受けて、すっかり小さな「生き物博士」になっていた。ただ、その図鑑もそろそろ役割を終えようとしていた。「β」がスマートホンを使い始めて、検索することも、AIに質問することもできるようになったからである。生き物の写真を撮ったら、それを添付してAIに聴けば、すぐにその生き物の詳しい情報が得られた。
以前のインターネットは、広告料収入が稼げるならばデマだろうがフェイクだろうが投稿する風潮があって荒れていたが、この頃になると、サブスク制や非営利組織によって運営されるサービスがシェアを拡大していた。このようなサービスのなかでは、自分の主張を一方的に誇示するようなことも、相手を論破しようとすることも、誰かを誹謗中傷するようなことも、あまり見られなくなった。中立な組織によるファクトチェックもしっかり行われていた。「β」もこのような新しいタイプのサービスを使っていた。
「β」は、母親に似て好奇心旺盛で、たくさんのことを知りたいと思っていた。「α」は、そんな「β」を眺めながら、「この子には十分な教育を受けさせてあげたい」を思った。
やがて「β」は地元の高校に進学し、部活動は生物部を選んだ。高校の周囲にはたくさんの生き物が生息する自然環境が残っていて、毎日が充実していた。当初は生き物の名前が分かればそれで満足していた「β」だったが、徐々に関心がその生き物の詳しい生態へと移っていった。
そんなある日、彼女は学校の図書館で『進化の教科書』というタイトルの本を見つけた。借りて読み始めると、「進化」という概念がとても斬新で魅力的に感じた。しかし、それは人間以外の生き物のことだと思った。教会で「人間は神様が自分の姿に似せて創造した特別な存在」だと教えられていたからである。ところが、「人類の進化」という章まで来ると、それより先に読み進めなくなった。この本に書いてあることと、教会で教えられたことと、どちらが本当なのだろうかと困惑した。そうしているうちに貸出期限が来たので図書館に返却した。その一方で、生き物の観察は今まで通り続けた。
読書好きの「β」は、高校を卒業すると、地元でいちばん大きな書店で働き始めた。ほんとうは大学に行きたかったし、母親もそれを勧めたが、家計のことを考えて就職を選んだ。現実問題として、母親の収入だけでは、大学の授業料やその他の費用を払うのはかなり難しい状況だった。それでも親子はとても仲がよく、「β」の就職後も、ふたりは一緒に教会に通った。彼女が働く書店の棚には進化に関する本も並んでいたが、なぜか彼女はそれを手に取るのをためらった。
書店には、近くの大学の学生がよく専門書を買いにやって来た。ある日、来店した学生「δ」に彼女が親切に対応したことがきっかけで、ふたりは顔見知りになった。「δ」は理科系の学部の3年生だった。
その頃、国内では、大統領の地位をめぐる権力闘争が激化し、政治が不安定だった。株価は暴落し、たくさんの企業が倒産して失業者が街にあふれていた。一方、かつて侵略してきた隣国は、今もなお虎視眈々と領土拡大のチャンスを窺っていた。
ある日、書店にやってきた「δ」は、「β」を見つけると、「この本ある?」と訊ねた。本のタイトルは『Evolution and human behavior』だった。「β」はすぐに在庫を検索して、「その本はお取り寄せになりますが、2〜3日で店に届きます」と答えた。そして少し間を置いた後に、「人間も進化してきたのですか?」と訊いた。「δ」はちょっと意外そうな顔をしたが、「進化に興味があるの?」と聞き返した。「β」は「昔、高校の図書館で初歩的な本を読み始めたけど、途中でやめてしまったの」と答えた。「δ」は「進化に関する勉強会が始まったので、よかったら参加する?誰でも参加OKだよ」と言ったが、「β」は「ちょっと考える」と即答しなかった。
そのような会話をした日の夜、「β」は夜通し検索エンジンで調べ、AIにも訊いてみた。その結果、人間は特別な存在ではなく、他の生き物と同じように進化してきたのだという確信が得られた。「今まで信じてきたものはいったい何だったのだろう」と残念に感じ、そして勉強会に参加してみようと思った。
勉強会は週に一度、夕方から行われた。参加者の大半は大学生だが、「β」と同じように働いている者も数名いた。初参加の「β」に、「δ」は小声で「僕も小さな頃から教会に通っていたから、君と同じような疑問を持ったよ。でもすぐに、進化の理論のほうが正しいことが分かったよ」と言った。この会話をきっかけに、「β」と「δ」の距離はいっきに縮まり、ふたりは交際を始めた。
「δ」は大学卒業後に大手の化学会社に就職し、その数年後に「β」と「δ」は結婚した。「β」は書店の仕事が好きだったので、結婚後も勤め続けた。この頃になると、女性が結婚後も働き続けるのがごく普通のことになり、夫が子育てを行うことも当たり前になっていた。
その一方で、結婚を機に「β」は教会に通うことをやめた。実は「δ」はすでに高校生の頃から教会に通っていなかった。
「β」も「δ」もそれぞれ働きながら、週1回の勉強会には引き続き夫婦揃って参加していた。そんなある日、勉強会が終わってからの雑談で、2人の共通の友人がある事業を立ち上げようとしていることが分かった。それは、社会的なインフラを支えるソフトウエアを開発する事業だった。「δ」の大学時代の専攻は化学分野だったが、プログラミングについても独学で高度な知識とスキルを持っていた。その事業の社会的な重要性を強く感じた「δ」は、化学会社を退職して、友人の事業に参加した。「β」はそれに反対せず、むしろ「δ」の背中を押した。数年でその事業は大きく成長した。
その頃世界では、A国・B国という2つの大国の間で緊張が極度に高まっていた。両国以外の国々はA・Bどちらかの側につき、世界はまさに真っ二つに分断されていた。
A国とB国の主要な宗教は異なっており、「異教徒間の争い」という構図が衝突を激化させていた。特にA国では、政治と宗教が深く結びつき、国民の間に宗教ナショナリズムが盛り上がっていた。
A国もB国も核兵器を保有し、それをさらに増強していた。特にA国の独裁者は、さまざまな局面で「核による脅し」をちらつかせた。なお、ふたりが暮らしている国はB国側の陣営についていた。
そんな緊迫した状態が続いたある日、国境付近を飛行していたA国の戦闘機をB国のミサイルが撃墜した。ミサイル発射はまったくの人為ミスだったが、B国としては、面子上ミスとは言えず、「A国戦闘機が国境を侵犯したので撃墜した」と発表した。
A国の独裁者は、「これはB国からの宣戦布告とみなす。B国とその仲間の国々には、神の意に背いたことに対する天罰が下るであろう!」と声高に叫び、世界中が核戦争の恐怖に震撼した。誰もが人類の滅亡を覚悟した。
世界中が固唾を飲むなか、なぜかA国は急に沈黙し、それ以上何も行動を起こさなくなった。そして1週間後、A国のスポークスマンが独裁者Aの死亡を伝えた。それ以上のことは何も語られなかった。ひとまず戦争が回避されたことに誰もが安堵したが、同時に、たったひとりの支配者が強大な権力を持つことの恐ろしさと、一神教が持つ排他的な力の強さを思い知った。
「β」と「δ」が結婚して5年後、ふたりの間に女の赤ちゃんが生まれ、「γ」と名づけられた。すでに「β」と「δ」は教会に通っておらず、ふたりは神の教えを子供には語らなかったので、「γ」は一神教を知らない世代となった。このような傾向は各国で見られたので、世界の全人口に占める一神教信者の割合は減っていった。
「γ」も両親に似て好奇心旺盛で、子供の頃からインターネット上のサービスを活用してたくさんの情報にアクセスすると同時に、情報の意味や価値を自分の頭で考える習慣を身につけていった。
この頃になると行政のほとんどの機能は、インターネット上のWebサイトや、メタバースの中にある仮想行政オフィスで行われるようになっていた。生体認証システムが組み込まれたゴーグルを付けると、メタバース上の仮想行政オフィスの窓口に行くことができ、どんな相談も、どんな手続きもそこでできるようになっていた。それほど複雑ではない相談や手続きにはAIが対応したが、複雑で高度な判断を要するものには担当者(のアバター)が出てきて親切に対応してくれた。
この仕組みは、当初は各国の法律や制度に則って個別にカスタマイズされていたが、徐々に標準化されていき、やがてシームレスに運用されるようになった。世界中の多くの国がこの仕組みに参加するようになると、「国家」や「国民」という概念がしだいに希薄になっていった(まだ存在するが……)。
赤ちゃんが産まれて出生届が出されると、一生使用する一意のIDが発行された。翌月からは、健康的で文化的な最低限の生活ができるだけのベーシックインカムが支給され、その支給は一生続いた(もちろん「β」「δ」「γ」それぞれに支給されている)。財源は、極端に偏在していた富の平準化によって捻出された。ベーシックインカムの導入によって、働く意味も変わってきていた。ヒトは生計のためや、金儲けのために働くのではなく、世の中になんらかの貢献をするために働き、その報酬を受け取るという意識が強くなった。
最低限の生活が保障されているので、ヒトは必要以上に貯蓄をする必要がなくなった。金融資産から得られる利息はゼロになり、逆に口座維持手数料がかかった。債券等の短期売買で得られた利鞘に対して、懲罰的に高率な税金が課されるので、投機的行動は意味をなさなくなった。
世の中のために必要と思われる事業を思いついたヒトは、インターネット上で賛同者を募り、クラウドファンディングによって資金を集めて、その構想を事業化した。その事業に賛同するヒトは、自らの意志でその事業のために働き報酬を得た。その事業のなかで最も重要な役割を果たすヒトと、一般的な参加者の報酬の差は、2倍以内が一般的であった。ヒトは、「この事業は世の中に必要だ」、あるいは「この仕事は自分に向いている」などと思ったら複数の事業に参加を表明し、途中で辞めることも自由である。
ニーズが継続的にあって賛同者も多い事業は長く続くが、ニーズや賛同者が減っていった事業は解散することになる。その基準は、儲かるかではなく、その事業が社会に必要かである。このような形態の事業が一般的な存在となってからは、従来の株式会社という形態はだんだんと減って、すでに過去のものとなっていった。
このような新しい仕組みを考え出して実現するのはたいてい若者で、年配の者が過去の事例を基に口を挟むことのは稀になった。
そして、成長した「γ」は、地球環境の持続可能性を高めることを目的とした複数の事業を、世界中に散らばる賛同者と共に立ち上げた。
物語を読んでも、まだ「自由で機能する社会」の実現に懐疑的な読者がいるかもしれない。それならば、7.5で紹介したアダム・スミスの「見えざる手」に代わる2つの「見えざる手」が、ヒトを導いてくれるであろうことを付け加えよう。
最後に、私の願うことはたったひとつである。気づきが世界中に十分広まって分岐点を超えるまでの間に核戦争が起きないこと、ただそれだけである。
2.12でも述べたが、死後の世界を前提とすることなく、この一度きりの人生だからこそ、今を大切に生き、目の前にいる他者の命を尊重することが重要だと、私は考えている。
本書の議論に直接引用した文献に加え、内容理解および構成に影響を与えた文献も含めて掲載している。
| 項目1 | 項目2 | 節番号等 | ||||
| アルファベット | ||||||
| “Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong.” | → 【カテゴリ4】マーク・D・ハウザー | 3.11 | ||||
| あ行 | ||||||
| 意識 | ||||||
| φ | 2.10 | 2.11 | ||||
| 自意識 | 2.9 | 2.10 | 2.11 | |||
| カリウムイオン | 2.10 | |||||
| 視床-皮質系 | 2.10 | |||||
| 主観的体験 | 2.11 | |||||
| 小脳 | 2.10 | |||||
| 人工知能(AI) | 2.9 | 2.11 | 9.2 | 12.2 | 12.3 | |
| 接着剤(=万能コネクタ) | 2.11 | |||||
| 注意 | 2.11 | 3.10 | 4.8 | |||
| 注意スキーマ | 【カテゴリ3】自由で機能する社会(2.道筋のヒントになる概念) | |||||
| 統合 | 2.10 | 2.11 | 3.3 | 6.1 | 10.3 | |
| 統合情報理論 | 2.10 | 2.11 | ||||
| 内的モデル | 【カテゴリ3】自由で機能する社会(2.道筋のヒントになる概念) | |||||
| 脳の主張 | 2.11 | |||||
| 『意識はいつ生まれるのか––脳の謎に挑む統合情報理論』 | → 【カテゴリ4】ジュリオ・トノーニ | 2.10 | ||||
| 『意識はなぜ生まれたか――その起源から人工意識まで』 | → 【カテゴリ4】マイケル・S・A・グラツィアーノ | 2.11 | ||||
| 『延長された表現型––自然淘汰の単位としての遺伝子』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ドーキンス | 2.3 | 2.8 | |||
| か行 | ||||||
| 『神は妄想である––宗教との決別』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ドーキンス | 3.9 | 3.11 | 4.8 | 6.1 | 12.4 |
| 『心の先史時代』 | → 【カテゴリ4】スティーヴン・ミズン | 3.3 | ||||
| さ行 | ||||||
| 宗教 | ||||||
| アニミズム | 3.13 | 4.4 | 4.7 | |||
| 教義宗教 | 4.4 | 4.8 | ||||
| シャーマニズム | 3.13 | 4.4 | ||||
| トランス状態 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(3.社会的相互作用) | |||||
| 『自由は進化する』 | → 【カテゴリ4】ダニエル・C・デネット | 2.9 | 5.1 | 5.2 | 7.2 | |
| 『種の起源』 | → 【カテゴリ4】チャールズ・R・ダーウィン | 1.1 | 2.4 | 8.4 | ||
| 『進化と人間行動(第2版)』 | → 【カテゴリ4】長谷川寿一・長谷川眞理子・大槻久 | 1.1 | 2.1 | 2.2 | 2.3 | |
| 2.4 | 2.5 | 2.6 | 2.7 | 3.1 | ||
| 3.2 | 3.7 | 3.8 | 3.12 | 4.5 | ||
| 進化の基礎 | ||||||
| ATGCの塩基 | 2.2 | |||||
| DNA | 2.1 | 2.2 | 2.7 | 3.1 | 3.3 | |
| mRNA | 2.2 | |||||
| 遺伝 | 2.1 | 3.14 | 9.6 | |||
| 遺伝子 | 2.1 | 2.2 | 2.3 | 2.4 | 2.7 | |
| 2.8 | 3.4 | 3.7 | 3.8 | 3.9 | ||
| 3.14 | 3.15 | 4.4 | 4.5 | 4.6 | ||
| 4.7 | 4.8 | 5.2 | 9.6 | 10.9 | ||
| 遺伝子型 | 2.7 | 10.7 | ||||
| 遺伝子決定論 | → 【カテゴリ1 】進化心理学をめぐる議論 | |||||
| 遺伝子の束縛 | 4.8 | 12.1 | ||||
| 遺伝子の変化を経由しない | 3.14 | 4.8 | 5.2 | 10.8 | 12.1 | |
| 遺伝子頻度 | 2.1 | 5.4 | 8.6 | 10.9 | ||
| エピジェネティック要因 | 2.7 | |||||
| 延長された表現型 | 2.8 | |||||
| エンハンサー(サイレンサー) | 2.2 | |||||
| 群(グループ)淘汰 | 1.4 | 2.3 | 2.4 | |||
| 血縁者 | 2.4 | 3.5 | 3.7 | 4.3 | 4.8 | |
| 血縁淘汰 | 2.4 | |||||
| 究極要因 | 2.6 | 3.4 | 4.8 | |||
| 自己複製子 | 3.14 | 4.8 | 12.1 | |||
| 自然淘汰(自然選択) | 1.4 | 2.1 | 2.3 | 3.8 | 3.9 | |
| 実効性比 | 2.5 | |||||
| 至近要因 | 2.6 | |||||
| 社会性昆虫 | 1.4 | 2.4 | ||||
| 進化の定義 | 2.1 | 10.9 | ||||
| 生存と繁殖 | 1.1 | 2.2 | 2.5 | 3.7 | 3.13 | |
| 性淘汰 | 2.5 | |||||
| 潜在的繁殖速度 | 2.5 | |||||
| 適応的形質(適応) | 2.1 | 4.8 | 8.4 | 10.9 | 11.4 | |
| 適応進化環境(EEA) | 9.6 | 10.9 | ||||
| 適応度 | 2.1 | 3.7 | ||||
| 転写 | 2.2 | |||||
| 転写調整 | 2.2 | |||||
| 淘汰圧 | 2.3 | 2.5 | 3.14 | 5.4 | 9.1 | |
| 突然変異 | 2.1 | 2.2 | 3.14 | 5.2 | 9.6 | |
| 妊孕性(子を作る能力) | 2.1 | |||||
| 配偶子 | 2.5 | |||||
| 配偶者 | 3.4 | 4.5 | 4.8 | |||
| 配偶者獲得競争 | 2.5 | 3.2 | 3.4 | 3.12 | 4.8 | |
| 非血縁者 | 3.7 | 4.5 | ||||
| 表現型 | 2.7 | 2.8 | 3.4 | 10.7 | ||
| 捕食者 | 2.5 | 2.9 | ||||
| 翻訳 | 2.2 | |||||
| 進化心理学をめぐる議論 | ||||||
| 遺伝子決定論 | 1.1 | 2.7 | 4.8 | 10.7 | ||
| 社会生物学論争 | 1.4 | |||||
| 社会ダーウィニズム | 1.1 | |||||
| 生物学的決定論 | 1.1 | 1.4 | ||||
| 進化論 対 創造論 | 1.2 | |||||
| 進化と進歩 | 1.1 | |||||
| 『人類進化の謎を解き明かす』 | → 【カテゴリ4】ロビン・I・M・ダンバー | 3.1 | 3.2 | 3.3 | 4.2 | 8.3 |
| 『人類はどこから来て、どこへ行くのか』 | → 【カテゴリ4】エドワード・O・ウィルソン | 1.4 | 4.8 | |||
| た行 | ||||||
| な行 | ||||||
| 『人間の本性について(新装版)』 | → 【カテゴリ4】エドワード・O・ウィルソン | 1.4 | ||||
| は行 | ||||||
| ヒトの進化 | ||||||
| アウストラロピテクス | 2.9 | 3.2 | ||||
| 猿人 | 2.9 | 3.2 | 3.12 | |||
| 大型類人猿 | 2.9 | 3.1 | 表3 | 10.7 | ||
| 旧人 | 2.9 | 3.2 | 3.3 | |||
| 原人 | 3.2 | 3.12 | ||||
| (解剖学的)現生人類 | 2.9 | 3.2 | 3.3 | 4.8 | 9.6 | |
| 初期猿人 | 3.2 | 3.12 | ||||
| 新人 | 3.2 | |||||
| 人類カレンダー | 3.2 | 表4 | ||||
| 直立二足歩行 | 3.2 | |||||
| チンパンジー | 2.9 | 3.1 | 3.2 | 3.4 | 10.7 | |
| ヒトのゆりかご | 3.1 | |||||
| ホモ・サピエンス | 2.9 | 3.2 | 3.3 | |||
| 3.4 | 3.13 | 4.3 | 4.8 | 5.2 | ||
| ボノボ | → 【カテゴリ3】自由で機能する社会(1.具体的事例) | |||||
| ネアンデルタール人 | 2.9 | 3.2 | 3.3 | 3.13 | ||
| 霊長類 | 3.1 | |||||
| ヒトの心の進化(1.認知・心理メカニズム) | ||||||
| 意図 | 2.9 | 3.11 | 3.13 | 4.4 | 4.8 | |
| 擬人化 | 2.9 | |||||
| 志向姿勢 | 2.9 | 4.4 | 4.8 | 5.2 | 7.5 | |
| 情動的共感 | 3.5 | |||||
| 3.6 | 3.10 | 4.8 | C.5 | 9.5 | ||
| スイス・アーミー・ナイフ | 3.3 | |||||
| 大脳新皮質 | 2.9 | 3.1 | 3.2 | 3.3 | 3.6 | |
| 3.10 | 4.7 | 4.8 | 5.2 | 8.3 | ||
| 認知的共感 | 3.6 | 3.10 | 7.5 | |||
| 認知的流動性 | 3.3 | |||||
| 博物学的知能・技術的知能・社会的知能 | 3.3 | 3.6 | ||||
| メンタライジング能力 | 2.9 | 表1 | 3.3 | 3.4 | ||
| 3.7 | 3.13 | 4.8 | 5.2 | 6.4 | ||
| ヒトの心の進化(2.行動・生活様式) | ||||||
| 最後通牒ゲーム | 3.7 | 7.4 | ||||
| 自尊心(pride) | 3.4 | 4.4 | 4.7 | 4.8 | C.5 | |
| 6.4 | 7.3 | 8.2 | 9.5 | 10.7 | ||
| 狩猟採集生活 | 6.4 | 8.2 | 9.6 | 10.9 | 11.4 | |
| 承認欲求 | 3.5 | |||||
| 侵入襲撃 | 3.4 | |||||
| ソシオメーター | 3.4 | 4.8 | ||||
| 排他的 | 4.4 | 4.8 | 6.1 | 10.9 | C.10 | |
| ヒトの心の進化(3.社会的相互作用) | ||||||
| エンドルフィン | 3.5 | 3.13 | ||||
| オキシトシン | 3.5 | |||||
| 監視 | 3.8 | 4.4 | 4.8 | C.5 | 12.1 | |
| 間接互恵性 | 3.7 | |||||
| 毛繕い | 3.5 | 3.7 | ||||
| ゴシップ | 3.7 | 3.8 | ||||
| 社会集団の規模 | 3.1 | |||||
| 情動的共感 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(1.認知・心理メカニズム) | |||||
| 直接互恵性 | 3.7 | 3.8 | 8.3 | |||
| 内集団 | 3.5 | 3.6 | 6.1 | 9.5 | 10.9 | |
| ハミング | 3.5 | |||||
| フリーライダー | 3.5 | 3.8 | 4.8 | 8.3 | 9.5 | |
| 捕食者 | 2.5 | 2.9 | ||||
| 認知的共感 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(1.認知・心理メカニズム) | |||||
| よい評判 | 3.7 | |||||
| 利他行動 | 2.3 | 2.4 | ||||
| 3.5 | 3.7 | 3.8 | 4.4 | 4.8 | ||
| ヒトの心の進化(4.規範系) | ||||||
| 葛藤 | 3.11 | 10.9 | ||||
| 男性優位 | 4.5 | 4.8 | 6.2 | |||
| つくりつけの道徳感覚 | 3.11 | |||||
| 責任 | 3.11 | 5.2 | 5.5 | 10.3 | 10.9 | |
| 道徳 | 3.7 | 3.11 | 4.4 | 4.8 | 5.2 | |
| 6.2 | 7.5 | 8.2 | 9.4 | 10.6 | ||
| トロッコ問題 | 3.11 | 10.6 | ||||
| 普遍的な道徳文法 | 3.11 | |||||
| ヒトの心の進化(5.文化的枠組み) | ||||||
| 遺伝子を経由しない進化 | 3.14 | 4.8 | 5.2 | |||
| 言語 | 2.7 | |||||
| 3.14 | 4.8 | 5.2 | 9.6 | 12.1 | ||
| 自己複製子の専制支配に対する反逆 | 4.8 | 12.1 | ||||
| 文化(的)進化 | 3.15 | 9.5 | 10.8 | 11.4 | ||
| ミーム | 3.14 | 3.15 | ||||
| 模倣と記憶 | 3.14 | |||||
| 『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』 | → 【カテゴリ4】ダニエル・カーネマン | 3.10 | 4.8 | C.5 | 8.3 | 9.5 |
| ま行 | ||||||
| ら行 | ||||||
| 『利己的な遺伝子』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ドーキンス | 3.14 | 4.8 | |||
| わ行 | ||||||
| 項目1 | 項目2 | 節番号等 | ||||
| あ行 | ||||||
| 『イスラーム文化––その根底にあるもの』 | → 【カテゴリ4】井筒俊彦 | 6.1 | ||||
| 一神教(1.ユダヤ教) | ||||||
| J資料・E資料・D資料・P資料 | 4.4 | C.5 | ||||
| アブラハム | 序章 | 1.2 | 6.1 | |||
| イスラエル王国 | 4.4 | |||||
| 異邦人性 | 6.4 | |||||
| 神による監視 | 4.4 | 4.8 | C.5 | |||
| 心を読む神 | 4.4 | |||||
| (ヘブライ語)聖書 | 4.4 | |||||
| 表5 | C.5 | 6.1 | 6.2 | 6.4 | ||
| 終末思想 | 4.4 | C.5 | 7.5 | |||
| 終末における救済の観念 | 4.4 | C.5 | 6.3 | 7.5 | ||
| 全知と全能 | 6.1 | |||||
| 創造論 | 1.2 | |||||
| ソロモン王 | 4.4 | |||||
| 高みから道徳を説く神 | 4.3 | 4.4 | 4.8 | C.5 | 6.1 | |
| 単一神教・拝一神教・唯一神教 | 4.4 | |||||
| ディアスポラ | 4.4 | |||||
| バビロン捕囚 | 4.4 | |||||
| 民族的苦難 | 4.4 | |||||
| ユダ王国 | 4.4 | |||||
| 預言者エレミア | 4.4 | |||||
| ヨシヤの宗教改革 | 4.4 | |||||
| 利息 | 6.4 | |||||
| 一神教(2.キリスト教) | ||||||
| アウグスティヌス | 6.2 | |||||
| イエス | 6.1 | 6.3 | ||||
| 救世主キリスト(メシア) | 6.1 | |||||
| 近代資本主義 | 6.3 | 6.4 | ||||
| 天職 | 6.3 | |||||
| 福音主義 | 1.2 | 6.3 | ||||
| 福音派 | 9.4 | C.6 | ||||
| プロテスタンティズム | 6.3 | 6.4 | 7.3 | |||
| マルティン・ルター | 6.2 | 6.3 | ||||
| 予定説 | 5.1 | 表8 | 6.3 | |||
| 一神教(3.イスラム教) | ||||||
| クルアーン(コーラン) | 6.1 | |||||
| 商人 | 6.1 | |||||
| ムハンマド | 6.1 | |||||
| 『エンデの遺言―根源からお金を問うこと』 | → 【カテゴリ4】河邑厚徳・グループ現代 | 9.1 | ||||
| 『エンデと語る』 | → 【カテゴリ4】子安美知子 | 9.1 | ||||
| 『延長された表現型』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ドーキンス | 2.3 | 2.8 | |||
| 『男の凶暴性はどこからきたか』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ランガム | 3.4 | 10.7 | |||
| か行 | ||||||
| 『神は妄想である––宗教との決別』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ドーキンス | 3.9 | 3.11 | 4.8 | 6.1 | 12.4 |
| 『カント入門』 | → 【カテゴリ4】石川文康 | C.4 | 7.1 | |||
| 『「きめ方」の論理––社会的決定理論への招待』 | → 【カテゴリ4】佐伯胖 | 8.4 | 8.5 | 8.6 | ||
| 『旧約聖書を推理する: 本当は誰が書いたか』 | → 【カテゴリ4】リチャード・エリオット・フリードマン | 4.4 | ||||
| 『近代科学の終焉』 | → 【カテゴリ4】北沢方邦 | 7.7 | 10.9 | |||
| 近代科学・哲学 | ||||||
| イギリス経験論 | 7.1 | |||||
| 一般可能性定理 | 8.5 | |||||
| 決定論 | 5.1 | 表8 | ||||
| 古典力学 | 5.1 | 7.7 | ||||
| 限りなく透明なガラス箱 | 7.7 | 10.9 | ||||
| 三批判書(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』) | C.4 | 表7 | ||||
| 自由主義のパラドックス | 8.5 | |||||
| 精神と物体の二元論 | 6.5 | 7.7 | ||||
| 社会的決定方法 | 8.5 | |||||
| 大陸合理論 | 7.1 | |||||
| デカルト | 2.9 | 6.5 | 7.1 | 7.2 | 7.7 | |
| 投票のパラドックス | 8.5 | |||||
| ニュートン | 2.9 | 6.5 | 7.2 | 7.7 | ||
| パラドックス | 8.5 | 10.5 | ||||
| 無関係対象からの独立性 | 8.5 | |||||
| 要素還元主義 | 7.2 | |||||
| 理性 | C.4 | 7.1 | ||||
| リベラル | 表9 | 8.6 | ||||
| 我思う、故に我在り | 2.9 | 6.5 | 7.7 | |||
| 近代経済学 | ||||||
| 悪徳(私悪) | 7.3 | 8.2 | ||||
| 街灯の下で鍵を探す(喩え話) | 7.6 | |||||
| 経済人(の人間モデル) | 1.3 | 3.7 | 5.5 | 7.1 | ||
| 7.3 | 7.4 | 7.5 | 7.6 | 8.5 | ||
| 経済的合理性 | 1.3 | 3.7 | 5.5 | 7.4 | 7.5 | |
| 共感(アダム・スミス) | 7.4 | 7.5 | ||||
| 限界効用 | 7.4 | |||||
| 効用を最大に | 7.4 | 8.5 | ||||
| 功利主義 | 5.4 | 7.4 | ||||
| 最後通牒ゲーム | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(2.行動・生活様式) | |||||
| 自由放任主義 | 7.5 | |||||
| 中立な観察者 | 7.5 | |||||
| ニュートン力学 | 6.5 | 7.2 | ||||
| パレート最適 | 8.5 | |||||
| 無差別曲線 | 7.4 | |||||
| 見えざる手 | 7.3 | 7.5 | ||||
| 『クリティカル・パス––人類の生存戦略と未来の選択』 | → 【カテゴリ4】バックミンスター・フラー | C.2 | ||||
| 『経営者の役割』 | →【カテゴリ4】チェスター・I・バーナード | 4.6 | ||||
| 『心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性』 | → 【カテゴリ4】キース・E・スタノヴィッチ | 3.10 | ||||
| 『国富論』(『諸国民の富の性質と原因に関する研究』) | → 【カテゴリ4】アダム・スミス | 7.3 | 7.4 | 7.5 | ||
| 『「経済人」の終わり––新全体主義の研究』 | → 【カテゴリ4】ピーター・F・ドラッカー | 5.5 | ||||
| 『コーラン 上・中・下』 | → 【カテゴリ4】筒俊彦 | 6.1 | ||||
| 『口語訳聖書』 | 1.2 | 4.4 | ||||
| 6.1 | 6.2 | 6.3 | 6.4 | 9.4 | ||
| 誤作動(1.認知系) | ||||||
| 鵜呑み | 3.10 | C.5 | ||||
| 志向姿勢 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(1.認知・心理メカニズム) | |||||
| 「システム1」・「システム2」 | 3.10 | 4.8 | C.5 | 8.3 | 9.5 | |
| 大脳新皮質 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(1.認知・心理メカニズム) | |||||
| 二重過程理論 | 3.10 | 4.8 | C.5 | |||
| 認知資源 | 3.10 | 4.8 | 8.3 | |||
| 年長者・有力者の言うこと | 3.9 | 4.7 | 4.8 | C.5 | 9.5 | |
| ヒューリスティック | 3.10 | 4.8 | 8.3 | |||
| メンタライジング能力 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(1.認知・心理メカニズム) | |||||
| 理性の限界 | C.4 | 表7 | ||||
| 誤作動(2.序列系) | ||||||
| いじめ | 3.8 | 4.8 | 8.4 | |||
| 王 | 4.1 | 4.2 | 4.3 | 4.4 | ||
| 4.5 | 4.6 | 4.7 | 4.8 | C.5 | ||
| 6.1 | 8.1 | 8.2 | 8.3 | 8.4 | ||
| 階層化 | 4.5 | 4.6 | 4.7 | 4.8 | 8.2 | |
| 家父長制 | 3.12 | 4.5 | 4.8 | 9.6 | ||
| 重労働 | 3.12 | 4.7 | 4.8 | 6.2 | ||
| 女性差別 | 2.5 | 6.2 | 8.4 | |||
| 世襲 | 4.2 | 4.4 | 4.5 | 4.8 | 8.2 | |
| 男性優位の社会 | 2.5 | 4.5 | 4.7 | 4.8 | 6.2 | |
| 父系社会 | 4.5 | 4.8 | 6.2 | 10.7 | ||
| 誤作動(3.自己評価系) | ||||||
| 自尊心(pride) | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(2.行動・生活様式) | |||||
| 承認欲求 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(2.行動・生活様式) | |||||
| ソシオメーター | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(2.行動・生活様式) | |||||
| ペルソナ(仮面) | 4.6 | 10.9 | ||||
| 誤作動(4.経済系) | ||||||
| お金 | 6.4 | 7.4 | 9.1 | 9.2 | 10.9 | |
| 減価する貨幣 | 9.1 | |||||
| 自尊心(pride) | → 【カテゴリ2】誤作動(3.自己評価系) | |||||
| 勝者が利益を総取り | 9.1 | 9.6 | ||||
| 所有 | 4.1 | 4.3 | 4.7 | 4.8 | 8.2 | |
| 生存圧(飢餓・欠乏) | 4.3 | 4.8 | 6.4 | |||
| 世界不平等データベース | 9.1 | |||||
| 投機 | 4.8 | 9.1 | 10.9 | |||
| 余剰生産物 | 4.2 | |||||
| 老化するお金 | 9.1 | |||||
| 誤作動(5.排他・戦争系) | ||||||
| 外敵 | 4.4 | 4.8 | 8.3 | |||
| 『クリティカル・パス』の寓話 | C.2 | |||||
| 結束 | 3.5 | 3.13 | 4.4 | 6.1 | ||
| 群生秩序 | 3.8 | |||||
| 自国優先主義 | 9.5 | |||||
| 自尊心(pride) | →【カテゴリ2】誤作動(3.自己評価系) | |||||
| 襲撃 | 3.4 | 4.1 | 4.3 | 4.8 | ||
| 情動的共感 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(1.認知・心理メカニズム) | |||||
| 人口増加 | 4.4 | 4.5 | 4.8 | |||
| 排他的 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(2.行動・生活様式) | |||||
| ピラミッド型組織 | 4.6 | 8.4 | 10.9 | |||
| フリーライダーを監視 | 3.8 | 4.8 | C.5 | |||
| 堀や濠 | 4.1 | C.3 | ||||
| 吉野ヶ里遺跡 | C.3 | |||||
| 誤作動の事例 | ||||||
| 核兵器 | 9.3 | |||||
| 三内丸山遺跡と吉野ヶ里遺跡の比較 | C.3 | |||||
| 市民革命 | 8.1 | 8.5 | 8.6 | |||
| スタニスラフ・ペトロフ中佐の決断 | 9.3 | |||||
| ヒトラー | 9.3 | |||||
| さ行 | ||||||
| 『産業人の未来––改革の原理としての保守主義』 | → 【カテゴリ4】ピーター・F・ドラッカー | 5.5 | ||||
| 『自尊心からの解放––幸福をかなえる心理学』 | → 【カテゴリ4】新谷優 | 3.4 | ||||
| 市民革命 | ||||||
| 社会契約論 | 8.2 | |||||
| 人間不平等起源 | 8.2 | |||||
| ルソー | 8.2 | 8.3 | ||||
| 自由 | ||||||
| 因果論的決定論 | 5.1 | |||||
| 運命論 | 5.1 | 6.3 | ||||
| 己の欲せざる所は人に施すなかれ | 5.3 | 10.9 | ||||
| 回避 | 2.6 | 5.2 | 10.9 | |||
| 決定論 | 5.1 | 表8 | 6.3 | 7.2 | 7.7 | |
| コミュニケーション | 1.3 | 3.14 | 5.2 | 8.3 | 12.3 | |
| 自然主義的人間観 | 5.1 | |||||
| シミュレーション | 2.11 | 3.14 | 5.2 | |||
| 自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由 | 10.9 | |||||
| 自由意志 | 1.3 | 1.4 | 3.14 | 4.8 | 5.1 | |
| 5.2 | 6.2 | 7.2 | 7.4 | 8.3 | ||
| 自由意志肯定論(リバタリアン) | 5.1 | 表8 | ||||
| 責任 | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(4.規範系) | |||||
| 選択 | 3.14 | 4.8 | 5.1 | 5.2 | ||
| 5.5 | 7.2 | 10.1 | 10.5 | 10.7 | ||
| 線型方程式 | 7.7 | |||||
| 他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利 | 5.3 | |||||
| 多数派の専制 | 5.4 | |||||
| 非決定論 | 5.1 | 表8 | 7.2 | |||
| 物理レベルと上位レベル | 5.1 | |||||
| フランス人権宣言 | 5.3 | |||||
| 自ら選択をする能力 | 5.2 | |||||
| 目的の創造者(創始者) | 5.1 | |||||
| 民主主義 | 5.1 | 5.4 | 8.5 | 10.3 | ||
| 予定説 | → 【カテゴリ2】一神教(2.キリスト教) | |||||
| 量子力学 | 6.5 | 7.7 | ||||
| 両立論 | 5.1 | 表8 | ||||
| 自由で機能する社会 | ||||||
| 位置 | 5.5 | 8.3 | 10.1 | 10.9 | ||
| 権力 | 3.9 | 5.5 | 6.1 | 8.1 | ||
| 8.2 | 8.3 | 8.4 | 10.9 | 12.2 | ||
| 権力の正統性 | 5.5 | 6.1 | 8.3 | |||
| 責任を伴う選択 | 5.5 | |||||
| 役割 | 5.4 | 5.5 | 8.3 | 10.1 | 10.9 | |
| 『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 | →【カテゴリ4】ジャン=ジャック・ルソー | 8.2 | ||||
| 『自由論』 | → 【カテゴリ4】ジョン・スチュアート・ミル | 5.4 | 8.6 | 10.9 | ||
| 『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』 | → 【カテゴリ4】木島泰三 | 5.1 | 6.5 | 7.2 | ||
| 『自由は進化する』 | → 【カテゴリ4】ダニエル・C・デネット | 2.9 | 5.1 | 5.2 | ||
| 『宗教の起源––私たちになぜ<神>が必要だったのか』 | → 【カテゴリ4】ロビン・I・M・ダンバー | 2.9 | 3.13 | 4.2 | 4.4 | |
| 『「承認欲求」の呪縛』 | → 【カテゴリ4】太田肇 | 3.4 | ||||
| 『女性差別はどう作られてきたか』 | → 【カテゴリ4】中村敏子 | 6.2 | ||||
| 『人類進化の謎を解き明かす』 | → 【カテゴリ4】ロビン・I・M・ダンバー | 3.1 | 3.2 | 3.3 | 3.5 | |
| た行 | ||||||
| 『デカルト入門』 | → 【カテゴリ4】小林道夫 | 6.5 | ||||
| 『道徳感情論』 | → 【カテゴリ4】アダム・スミス | 7.4 | 7.5 | |||
| な行 | ||||||
| 『人間不平等起源論』 | → 【カテゴリ4】ジャン=ジャック・ルソー | 8.2 | ||||
| は行 | ||||||
| 『新訳 蜂の寓話––私悪は公益なり』 | → 【カテゴリ4】バーナード・マンデヴィル | 7.3 | 7.4 | |||
| 『反穀物の人類史––国家誕生のディープヒストリー』 | → 【カテゴリ4】ジェームズ・スコット | 4.1 | 4.2 | 4.3 | ||
| 『ヒトラー最期の12日間』 | → 【カテゴリ4】ヨアヒム・C・フェスト | 9.3 | ||||
| 『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』 | → 【カテゴリ4】加藤喜之 | 9.4 | ||||
| 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 | → 【カテゴリ4】マックス・ヴェーバー | 6.3 | 6.4 | 7.3 | ||
| 『文化進化論 ダーウィン進化論は文化を説明できるか』 | → 【カテゴリ4】アレックス・メスーディ | 3.15 | ||||
| 『方法序説』 | → 【カテゴリ4】ルネ・デカルト | 6.5 | ||||
| ま行 | ||||||
| 『モモ』 | → 【カテゴリ4】ミヒャエル・エンデ | 9.1 | ||||
| 『モラルの起源––実験社会科学からの問い』 | → 【カテゴリ4】亀田達也 | 3.5 | 3.6 | |||
| や行 | ||||||
| 『ユダヤ人の経済生活』 | → 【カテゴリ4】ヴェルナー・ゾンバルト | 6.4 | ||||
| ら行 | ||||||
| 『利己的な遺伝子』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ドーキンス | 3.14 | 4.8 | 12.1 | ||
| 『ルソー(人と思想14)』 | → 【カテゴリ4】中里良二 | 8.2 | C.7 | |||
| 項目1 | 項目2 | 節番号等 | ||||
| アルファベット | ||||||
| Every Life Is on Fire: How Thermodynamics Explains the Origins of Living Things. | → 【カテゴリ4】ジェレミー・イングランド | 11.4 | ||||
| あ行 | ||||||
| インターネット | ||||||
| DNSサーバー | 10.1 | |||||
| IPアドレス | 10.1 | 10.9 | ||||
| SNS | 3.5 | 9.2 | C.10 | 12.2 | 12.3 | |
| エコーチェンバー現象 | 9.2 | 12.2 | ||||
| 極端な商業主義 | 9.2 | 12.2 | ||||
| 広告料収入によって提供されている無料サービス | 9.2 | 12.2 | ||||
| 持続可能性 | 9.2 | 12.2 | ||||
| ターゲティング・マーケティング | 9.2 | |||||
| 誤情報・悪意や犯罪性のある情報 | 9.2 | |||||
| 大量の電力を消費 | 9.2 | |||||
| 名前解決 | 10.1 | |||||
| ファクトチェック | 12.2 | |||||
| フィルターバブル | 9.2 | 12.2 | ||||
| ノード | 10.1 | 10.9 | ||||
| ルーティングテーブル | 10.1 | |||||
| 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 | → 【カテゴリ4】イマヌエル・カント | C.4 | 7.1 | C.7 | C.10 | |
| 『オルフェウス・プロセス—指揮者のいないオーケストラに学ぶマルチ・リーダーシップ・マネジメント』 | → 【カテゴリ4】ハーヴェイ・サイファー | 10.3 | ||||
| か行 | ||||||
| 『確実性の終焉』 | → 【カテゴリ4】イリヤ・プリゴジン | 11.4 | ||||
| 『伽藍とバザール』 | → 【カテゴリ4】エリック・S・レイモンド | 10.2 | ||||
| 『近代科学の終焉』 | → 【カテゴリ4】北沢方邦 | 7.7 | 10.9 | |||
| 『経験する機械』 | → 【カテゴリ4】アンディ・クラーク | 11.1 | ||||
| さ行 | ||||||
| 散逸構造 | ||||||
| 新しい秩序(解) | 10.5 | 11.4 | 12.2 | C.9 | ||
| エントロピー増大 | 11.4 | |||||
| 開放系 | 11.4 | |||||
| 気づき | 11.3 | 11.4 | 12.2 | 12.3 | 12.4 | |
| 行動変化 | 2.7 | 5.2 | C.10 | |||
| 自己組織化 | 10.4 | 11.4 | C.10 | |||
| 生命現象 | 11.4 | |||||
| 線形項・非線形項 | C.9 | |||||
| 相転移 | 12.3 | |||||
| ピッチフォーク分岐(熊手型分岐) | C.9 | |||||
| 文化進化 | 3.15 | 11.4 | 表13 | 表14 | ||
| 分岐点 | 10.8 | |||||
| 11.4 | C.9 | 12.1 | 12.2 | 12.3 | ||
| 非平衡状態 | 11.4 | |||||
| ミーム | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(5.文化的枠組み) | |||||
| ゆらぎ | 9.5 | 11.4 | C.9 | 12.3 | ||
| 自由で機能する社会(1.具体的事例) | ||||||
| ウィキペディア(Wikipedia) | 10.4 | 10.9 | ||||
| オルフェウス・プロセス | 10.3 | |||||
| コミュニティ | 10.4 | |||||
| 指揮者のいないオーケストラ | 10.3 | |||||
| 世界価値観調査 | 3.15 | 10.8 | ||||
| 編集合戦 | 10.4 | |||||
| ボノボ | 3.1 | 3.4 | 10.7 | 表11 | 10.8 | |
| Linuxカーネルの開発 | 10.2 | |||||
| 自由で機能する社会(2.道筋のヒントになる概念) | ||||||
| アソシエーショニズム | C.10 | 表16 | ||||
| 限りなく透明なガラス箱 | → 【カテゴリ2】近代科学・哲学 | |||||
| 交換様式D | C.10 | 表16 | ||||
| 互酬 | C.10 | |||||
| コミュニケーション | → 【カテゴリ1】自由 | |||||
| 最低限のルール | 10.9 | |||||
| 自己モデル | 2.11 | 4.8 | 11.1 | 11.2 | 11.3 | |
| 自然的な善さ | 10.6 | 10.9 | ||||
| 自発性のパラドックス | 10.5 | |||||
| 精度(precision:予測誤差の重みづけ) | 11.2 | |||||
| 注意スキーマ | 2.11 | 11.1 | 11.2 | 11.3 | ||
| 動的情報 | 10.5 | 10.9 | C.10 | 12.2 | 12.3 | |
| 同盟(相互支援のネットワーク) | 10.7 | |||||
| 内的モデル | 2.11 | 4.8 | 11.1 | 11.2 | 11.3 | |
| バザールを開こう! | 10.9 | |||||
| バルネラブル(vulnerable) | 10.5 | |||||
| ヒトに気づきを促す活動 | 12.4 | |||||
| ヒトの適応進化環境(EEA) | 9.6 | 10.9 | ||||
| ベーシックインカム | 10.9 | |||||
| 深い幸福 | 10.6 | 10.9 | ||||
| ボランティア | 10.2 | 10.4 | 10.5 | C.10 | ||
| ミーム | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(5.文化的枠組み) | |||||
| 予測誤差 | 11.1 | 11.2 | 11.3 | |||
| 予測誤差の慢性的な蓄積 | 11.2 | |||||
| 予測処理(=Predictive processing) | 11.1 | 11.2 | 11.3 | |||
| リーヌスの法則 | 10.2 | |||||
| 『世界共和国へ: 資本=ネーション=国家を超えて』 | → 【カテゴリ4】柄谷行人 | C.10 | ||||
| 組織 | ||||||
| 伽藍組織 | 4.6 | 10.2 | 10.9 | |||
| 組織人格 | 4.6 | 10.9 | ||||
| バザール型組織 | 10.2 | 10.9 | ||||
| ピラミッド型組織 | → 【カテゴリ2】誤作動(5.排他・戦争系) | |||||
| た行 | ||||||
| な行 | ||||||
| 『人間にとって善とは何か』 | → 【カテゴリ4】フィリッパ・フット | 10.6 | C.7 | |||
| 『ネットワークはなぜつながるのか(第2版)』 | → 【カテゴリ4】戸根勤 | 10.1 | ||||
| は行 | ||||||
| 『プリゴジンの考えてきたこと』 | → 【カテゴリ4】北原和夫 | 11.4 | ||||
| 『文化的進化論: 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』 | → 【カテゴリ4】ロナルド・イングルハート | 3.15 | 9.5 | 10.8 | 11.4 | |
| 『ボランティア––もうひとつの情報社会』 | → 【カテゴリ4】金子郁容 | 10.5 | ||||
| ま行 | ||||||
| や行 | ||||||
| ら行 | ||||||
| 『利己的な遺伝子』 | → 【カテゴリ4】リチャード・ドーキンス | → 【カテゴリ1】ヒトの心の進化(1.〜5.) | ||||
| 項目1 | 節番号等 | ||||
| あ行 | |||||
| アダム・スミス | 7.3 | 7.4 | 7.5 | ||
| アマルティア・セン | 7.5 | 8.5 | |||
| アレックス・メスーディ | 3.15 | ||||
| アンディ・クラーク | 11.1 | 11.2 | |||
| 石川文康 | C.4 | 7.1 | |||
| イマヌエル・カント | C.4 | 7.1 | C.7 | C.10 | |
| イリヤ・プリゴジン | 7.7 | 11.4 | |||
| ヴェルナー・ゾンバルト | 6.4 | ||||
| エドワード・O・ウィルソン | 1.4 | 4.8 | |||
| エリック・S・レイモンド | 10.2 | ||||
| 井筒俊彦 | 6.1 | ||||
| 太田肇 | 3.4 | ||||
| か行 | |||||
| 加藤喜之 | 9.4 | ||||
| 金子郁容 | 10.5 | 12.3 | |||
| 亀田達也 | 3.5 | ||||
| 河邑厚徳・グループ現代 | 9.1 | ||||
| 柄谷行人 | C.10 | ||||
| キース・E・スタノヴィッチ | 3.10 | ||||
| 北沢方邦 | 7.7 | 10.9 | |||
| 木島泰三 | 5.1 | 6.5 | 7.2 | ||
| 北原和夫 | 11.4 | ||||
| 小林道夫 | 6.5 | ||||
| 子安美知子 | 9.1 | ||||
| さ行 | |||||
| 佐伯胖 | 8.5 | ||||
| ジェームズ・スコット | 4.1 | 4.2 | 4.3 | ||
| ジェレミー・イングランド | 11.4 | ||||
| ジャン=ジャック・ルソー | 8.2 | 8.3 | C.7 | ||
| ジュリオ・トノーニ | 2.10 | ||||
| ジョン・スチュアート・ミル | 5.4 | 8.6 | 10.9 | ||
| ジョン・メイナード・スミス | 2.3 | ||||
| スティーヴン・ミズン | 3.3 | ||||
| た行 | |||||
| ダニエル・カーネマン | 3.10 | 4.8 | C.5 | 8.3 | 9.5 |
| ダニエル・C・デネット | 2.9 | 5.1 | 5.2 | ||
| チャールズ・R・ダーウィン | 1.1 | 2.4 | 8.4 | ||
| チェスター・I・バーナード | 4.6 | ||||
| デイル・ピーターソン | 3.4 | ||||
| 戸根勤 | 10.1 | ||||
| な行 | |||||
| 内藤朝雄 | 3.8 | ||||
| 中村敏子 | 6.2 | ||||
| 中里良二 | 8.2 | ||||
| 新谷優 | 3.4 | ||||
| は行 | |||||
| ハーヴェイ・セイフター | 10.3 | ||||
| バーナード・マンデヴィル | 7.3 | 7.4 | |||
| 長谷川寿一・長谷川眞理子・大槻久 | 1.1 | 2.1 | 2.2 | 2.3 | |
| 2.4 | 2.5 | 2.6 | 2.7 | 3.1 | |
| 3.2 | 3.7 | 3.8 | 3.12 | 4.5 | |
| バックミンスター・フラー | C.2 | ||||
| ピーター・F・ドラッカー | 5.5 | 7.1 | 8.3 | ||
| ピーター・エコノミー | 10.3 | ||||
| フィリッパ・フット | 10.6 | C.7 | 10.9 | ||
| ま行 | |||||
| マーク・D・ハウザー | 3.11 | ||||
| マイケル・S・A・グラツィアーノ | 2.11 | ||||
| 松岡正剛 | 9.1 | ||||
| マックス・ヴェーバー | 6.3 | 6.4 | |||
| マルチェッロ・マッスィミーニ | 2.10 | ||||
| ミヒャエル・エンデ | 9.1 | ||||
| や行 | |||||
| ヨアヒム・C・フェスト | 9.3 | ||||
| ら行 | |||||
| リチャード・エリオット・フリードマン | 4.4 | ||||
| リチャード・ドーキンス | 2.3 | 2.8 | 3.9 | 3.11 | |
| 3.14 | 4.8 | 6.1 | 12.1 | 12.4 | |
| リチャード・ランガム | 3.1 | 3.4 | 10.7 | ||
| ルネ・デカルト | 2.9 | 6.5 | 7.1 | 7.2 | 7.7 |
| ロナルド・イングルハート | 3.15 | 9.5 | 10.8 | ||
| ロビン・I・M・ダンバー | 2.9 | 3.1 | 3.2 | ||
| 3.3 | 3.5 | 3.13 | 4.2 | 4.4 | |
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