「写真とは何か」 第10話 『決闘写真論』(その2)

写真10

 前号に引き続いて、『決闘写真論』について書きたい。いきなり中平卓馬の文章の引用から始めよう。

 J・リカルドウがどこかで、およそ次のように書いていたのを思い出す。写実主義者たちは現実を見ようとしない。彼らは意味としての現実を見るにすぎない。だが、リアリズムとは一本の樹をいま、ここで、眺めることによって、いままで持っていた樹木という意味を眼の前でゆるやかに崩壊させてゆき、一本のいままで見たこともない樹をそこに見出すことだ、と。リカルドウは文学のリアリズム批判としてこの文章を書いた。しかしこの言葉はやはり写真についても多くのことを示唆している。意味としての現実、それは解読格子を通された、濾過された現実である。つまり現実ではない。概念としての現実である。旧態然としたリアリズムはこの概念に一点の疑いもさしはさみはしない。それは現状維持を指向する、まさしく保守的な意識である。

 われわれが日頃目にするおびただしい映像の量、それらはいかに多種多様に見えようとも、しかしそこには眼に見えぬコードが、価値の体系が、美の体系、制度が貫かれている。ただその表層的な別形=バリアントを競い合っているにすぎないとも言える。
引用:『決闘写真論』篠山紀信・中平卓馬著(朝日文庫)

 リアリズム……、それはいったい何に対するリアリズムなのだろうか?われわれが対象物に対して既に持っている意味に対してだろうか。それとも物質としての対象物そのものに対してであろうか。なにか肝心要のところがきちんと定義されないまま、リアリズムという言葉が独り歩きしているように思う。

 もっと言ってしまえば……。リアルであるということは、本当に意義のあることだろうか?たしかに写真というプロセスでは、被写体が鋳型となって (つまり光を反射して)、フィルム面に像を結ぶ。しかし結ばれた像は、元の被写体とはおよそ似つかない銀の粒子の集合にすぎない。人間の賢すぎる脳が、その形と被写体との関係性を見つけ出してしまうだけである。

 中平は、既成の意味と写真の映像との大きなギャップを「捻れ」と言っている。「捻れ」に対して彼は強い不安を感じたが、私の場合は楽観的な性格のためか、むしろファンタスティックな驚きを感じる。それは顕微鏡を覗いたときの驚きに共通する感覚である。なぜならそこに新しい世界が見えるからである。

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