ひめゆり学徒隊散華の跡

ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒240名で構成された学徒隊で、当初は沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)に看護要員として動員されました。米軍が上陸して負傷兵が増大すると、各地に分室がおかれ、学徒隊は分散配置されるようになります。その後戦況の悪化に伴い、5月25日には糸満市伊原にある複数の壕へと撤退しますが、6月18日に突然解散命令が出されます。その翌日の6月19日に米軍から攻撃を受けて、伊原第三外科壕の中に居たほとんどの人が亡くなりました(壕の脇に建てられたのが「ひめゆりの塔」です)。他の壕に居た学徒たちも、数名のグループに分かれて「鉄の暴風」と形容される激戦の中を彷徨い、多くの人が命を落としました。なんと死亡者全体の86%にのぼる117名が解散命令後に亡くなっています。

沖縄本島最南端の荒崎海岸に逃れてきた教師と生徒の一団は、米軍から激しい攻撃を受けるなか、6月21日に手榴弾で自決しました。その場所に「ひめゆり学徒隊散華の跡」の碑が設置されています。

ひめゆり学徒隊散華の跡

ひめゆり学徒隊散華の跡

ひめゆり学徒隊散華の跡

ひめゆり学徒隊の足跡。
ひめゆり学徒隊の足跡


下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した沖縄戦の死亡者数です。

分類死亡者数
県外出身日本兵戦死者6万5908人
沖縄県出身軍人・軍属2万8228人
戦闘に参加・協力して死亡した住民5万5246人
一般住民
3万8754人(推定)
合計18万8136人
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら

このような悲惨な歴史を繰り返してはならないです!

私の基本的な考えは以下の通りです。

  • 人と人が殺し合ってはならない。
  • 人を殺すための道具を持ってはならない。
  • 武力に対して武力で対抗してはならない。
  • 「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください