読谷村の戦跡(シムクガマ・チビチリガマなど)

昭和20年4月1日の朝、米軍は読谷村の海岸から上陸を開始しました。比謝川河口付近の「泊城公園」に「米軍上陸の碑」があります。日本の陸軍は、本土決戦の準備をする時間を稼ぐための持久戦を戦略として考えていたため、損害が大きくなる対上陸戦闘をあえて捨て、主力部隊を首里周辺に配備していました。だから、米軍はいとも簡単に上陸できて拍子抜けしたようです。「エイプリル・フールの日にだまされているのではないかと思った」という言葉も残されています。しかし、これは序章にすぎず、組織的戦闘が終結したとされる6月23日にかけて、住民を巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられることになります。

米軍上陸の碑

米軍上陸の碑

 


読谷村にあった「沖縄北飛行場(のちの読谷補助飛行場)」の跡。現在はその一部が一般道路になっています。この飛行場も上陸した米軍にすぐに占領されました。なお、占領されたこの飛行場めがけて、5月24日に、強行着陸と破壊を目標とした義号作戦も行われました(詳しくは→こちら)。特攻隊というと戦艦への突撃のイメージが強いですが、陸上の敵陣への攻撃も行われたのです。
沖縄北飛行場跡

 


シムクガマは読谷村波平にある天然の鍾乳洞で、千人ほどの住民が戦火を逃れてここに潜んでいました。上陸した米軍がシムクガマの入口に迫り、洞窟内が大混乱になった時、中にいたハワイからの帰国者2名(比嘉平治氏<当時72歳>と比嘉平三氏<当時63歳>)が「アメリカ人は人を殺さない」と他の住民を説得して投降させ、千人全員の命が助かりました。

シムクガマの入口。
シムクガマの入口

シムクガマの中から外を見たところ。
シムクガマの中から外を見たところ

シムクガマの中にある「救命洞窟之碑」。
シムクガマの中にある碑

 


一方、同じ読谷村波平にあるチビチリガマでは、上陸翌日の4月2日に米軍が入口に迫ってきた時、ガマの中にいた約140人の内83人が集団自決するという悲惨な結果となりました。チビチリガマは、遺族の意思により立ち入り禁止となっています。

チビチリガマの入口
チビチリガマの入口

チビチリガマ世代を結ぶ平和の像。
チビチリガマ世代を結ぶ平和の像

 

THE BOOMの「島唄」は、このチビチリガマのような悲惨な状況を歌った曲です(歌詞は→こちら)。


私の基本的な考えは以下の通りです。

・人と人が殺し合ってはならない。
・人を殺すための道具を持ってはならない。
・武力に対して武力で対抗してはならない。
・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

関連記事

コメント1件

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

    このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください